阿呆鳥の連環
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帝都ティランの目抜き通りから一本裏に入った石畳の小路にその店はあった。看板はなく、扉には番号も記されていない。知る者だけが知る会員制サロン「銀枝亭」は帝国貴族の社交場として半世紀以上の歴史を持つ。壁を覆う深紅のビロードと、天井から垂れる水晶の灯架が訪れる者を外界から隔てている。
奥まった談話室には五人の客がいた。午後四時を回ったばかりのこの時刻、夕刻の賑わいにはまだ間があり、室内には囁くような静けさが漂っている。給仕が注いだ茶の湯気だけが緩やかに形を変えながら宙に溶けていく。
「それで伯爵夫人」
長椅子の中央に腰を据えたエルヴァーン侯爵夫人マルグリットが斜向かいの席へ視線を向けた。五十を過ぎてなお姿勢の崩れぬこの女は帝都社交界において「北の女帝」と渾名されている。
「近頃お読みになっているという、あの……なんでしたか。『断罪譚』とかいう類いの」
「ああ、婚約破棄譚のことでしょう」
返したのはフォルケン伯爵夫人イレーネで唇には微かな苦笑が浮かんでいた。茶杯を受け皿に戻し、首を小さく横に振る。
「正確には読んでおりませんわ。侍女たちが夢中になっているものですから、どのような内容か尋ねてみただけで」
「私は読みましたよ」
暖炉脇の安楽椅子から声を上げたのはこの場で唯一の男性であるクレメンス子爵だった。白髪交じりの口髭を蓄えた老紳士は帝国法務院の元判事であり、引退後は趣味の文芸批評に没頭している。
「妻が侍女から借りてきたものを拝借いたしまして。いやはや、なかなかに……」
「なかなかに?」
「滑稽でした」
子爵の言葉に室内の空気がわずかに弛緩した。マルグリットの口元にも笑みが浮かぶ。
「滑稽。まあ、そうでしょうね。私も梗概だけは聞き及んでおりますけれど」
「どのような筋立てなのです?」
窓際の椅子に掛けていたベルナデット嬢が身を乗り出した。二十歳を迎えたばかりのこの令嬢はヴァルトシュタイン公爵家の三女であり、来年の社交季に正式にデビューを控えている。
「婚約を破棄される女性の話だと聞きましたが、それだけではありませんわよね?」
「それだけですよ、基本的には」
クレメンス子爵が肩を竦めた。
「舞台は架空の王国。主人公は公爵家か侯爵家の令嬢で幼少期から王太子と婚約している。ところが王太子はどこからともなく現れた身分の低い女に心を奪われ、婚約者を悪女と断じて婚約を破棄する。だいたいそういった流れでして」
「破棄されて、それで終わりなのですか」
「いいえ、そこからが本題らしいのですが」
伯爵夫人イレーネが引き継ぐ。
「破棄された令嬢は実は隣国の王子に見初められていたり、稀少な魔法の才能を持っていたり、商才に長けていたりする。王太子は愚かにも気づかなかったわけですが婚約破棄を機に令嬢は自由を得て、やがて大いに出世する。一方の王太子はあの身分の低い女が実は腹黒い策謀家だったと気づき、後悔に苛まれる。そういう構図ですわ」
「つまり、ざまあ見ろ、という話ですか」
ベルナデット嬢の率直な要約に年長者たちは顔を見合わせた。
「端的に言えば、そうなりますな」
子爵が頷く。
「復讐譚の一種です。虐げられた者が最後に勝利を収め、虐げた者が破滅する。愚昧な民衆が好む古典的な物語類型といえばそうなのですが」
「古典的とおっしゃるには些か稚拙に過ぎるのではなくて」
マルグリットが茶杯を持ち上げた。
「復讐を描くにしてももう少しましな方法があるでしょうに。古典とは長い時間の淘汰を経て残ったものを指すのであって、この手の粗製濫造品に与える称号ではありませんわ」
「まったく同感です」
それまで黙って茶を啜っていた五人目の客、リーゼンブルク男爵夫人カタリナが低く笑った。四十代半ばの彼女は帝国随一の文芸誌『黄昏評論』の編集主幹を務めており、その舌鋒の鋭さは社交界でも知られている。
「私も職業柄、一通り目を通しましたがどれもこれも同じ型を使い回しているだけでしたわ。王太子は必ず愚か者で身分の低い女は必ず打算家で主人公の令嬢は必ず不当に貶められた聖女のような存在。人間というものがこれほど類型的に描かれて、それを真に受ける読者がいるとは」
「いるのでしょうね、それが」
クレメンス子爵が苦い顔をした。
「私が驚いたのはその設定の杜撰さです。王太子が婚約者を公衆の面前で糾弾する場面がよく出てくるのですがあのような振る舞いは王族として致命的でしょう。感情に任せて政略婚約を破棄するなど、即座に廃嫡される所業ですよ」
「そもそも婚約とは両家の契約であって、当事者の一存でどうこうなるものではありませんわ」
イレーネが付け加えた。
「破棄するにしても双方の家の協議が先でしょう。公爵家の令嬢を侮辱すれば、その背後にある派閥全体を敵に回すことになる。王太子が感情のままに婚約破棄を宣言して、それで話が済むなどということがどこの世界にあり得ましょうか」
「架空の世界だから良いのではなくて」
ベルナデット嬢が小首を傾げた。
「いいえ」
カタリナが即座に否定する。
「架空の世界であっても内的な整合性というものは必要ですわ。魔法が存在する世界であってもその魔法には規則があるべきでしょう。政治が存在するなら、政治の力学があるべきです。ところがこの手の物語はすべてが主人公の都合に合わせて歪められている。王太子が愚かでなければ話が成り立たないから愚かにし、身分の低い女が悪辣でなければ痛快にならないから悪辣にする。現実がそうなっているのではなく、筋立ての要請に登場人物を奉仕させているだけです」
「人形劇ですな」
子爵が膝を叩いた。
「登場人物は操り人形に過ぎない。自分の頭で考え、自分の意志で行動する存在として描かれていない。作者が予め用意した結末に向かって、定められた動きをなぞるだけの」
「それを読んで何が面白いのかしら」
マルグリットが眉を顰めた。
「結末が最初から見えているのでしょう。主人公は必ず勝ち、敵は必ず負ける。途中で何が起ころうと、その構図は揺るがない。それでは物語を読む意味がありませんわ」
「そこなのです、侯爵夫人」
カタリナが人差し指を立てた。
「この種の物語は読者に知的な負荷を求めていないのですわ。予定調和の中で主人公に感情移入し、その勝利を追体験する。考えることも驚くことも悩むこともない。甘い菓子を口に入れて甘いと感じる、それだけの行為です」
「庶民の娯楽とはそういうものかもしれませんが」
イレーネが溜息混じりに言った。
「日々の労苦を忘れるための気晴らし。そう考えれば、複雑な筋立てや深い人物造形は必要ないのでしょう」
「甘すぎる見方ですわ、伯爵夫人」
カタリナの声に刺が混じる。
「気晴らしであるにしてももう少し上等な気晴らしがあるはずです。この種の物語が蔓延するということは読者の精神がそれに見合った水準にあるということ。卑しい空想を肥え太らせ、現実を見る目を曇らせる。それは娯楽ではなく、精神の堕落ですわ」
「手厳しいですな」
子爵が苦笑した。
「しかし婚約破棄譚の流行にはもうひとつ気になる点があります」
「何でしょう」
「被害者意識の肥大です」
子爵は腕を組んだ。
「主人公は常に不当な扱いを受け、周囲に理解されず、一方的に悪者にされる。その構図に読者が共感するということは読者自身が自分を不当に扱われている被害者だと感じているということでしょう。現実の不満を架空の復讐で解消する。そこには自己を省みる視点がまったくない」
「自分は悪くない、悪いのは周囲だ、という発想ですわね」
マルグリットが頷いた。
「婚約を破棄されるような状況に至った経緯は問われない。主人公はただ純粋に被害者であり、加害者は純粋に悪人である。そこに灰色の領域はない。現実というものはほとんど灰色でできているというのに」
「それこそがこの種の物語の魅力なのでしょうね」
イレーネが言う。
「現実には存在しない純粋さ。白と黒がはっきり分かれた世界。自分が正しく、敵が間違っていることが保証された世界。そこでは迷いも罪悪感も必要ない」
「赤子の夢ですわ」
カタリナが吐き捨てるように言った。
「善悪の区別がつかない幼児が見る夢と同じです。自分は愛される存在で愛されないのは周囲が悪いから。世界は自分を中心に回っていて、そうでないのは世界が間違っているから。その幼児性を大人になっても捨てられない者たちの慰みものですわ」
「少し言い過ぎではなくて」
ベルナデット嬢が眉を曇らせた。
「そうかしら」
カタリナは視線を向けた。
「ではお嬢さん。もしあなたが婚約を破棄されたとして、どうなさいます」
「それは……状況によりますが」
「婚約破棄譚の主人公なら、まず自分に非がないことを確認し、次に相手の愚かさを嘆き、そして復讐を誓うでしょう。けれど現実には婚約が破綻する場合、双方に何らかの要因があるものです。相手だけが悪いということは稀ですわ」
「それはそうですが」
「この種の物語が危険なのはそういった自省の機会を読者から奪うことです。何か不都合なことが起きたとき、自分の側に原因を探るのではなく、他者のせいにする習慣を植え付ける。それは人格の成熟を妨げる毒ですわ」
給仕がそっと近づき、冷めた茶を取り替えていく。誰もそれに注意を払わなかった。
「もっとも」
子爵が口を開いた。
「こうして批判している我々も大した存在ではないのかもしれませんな」
「どういう意味でしょう」
「安全な場所から愚かな民衆を嗤う。それもまた一種の娯楽でしょう。婚約破棄譚の読者が主人公に自分を重ねて優越感を得るように我々もまた読者たちを見下すことで優越感を得ている。構造としては同じことです」
マルグリットの手が止まった。イレーネは目を伏せる。カタリナだけがどこか愉快そうに唇の端を持ち上げた。
「お気づきになりましたか」
「お気づきとは」
「私たちのこの会話そのものが婚約破棄譚と同じ構造を持っているということですわ」
カタリナは室内を見回す。
「愚かな民衆という『敵』を設定し、知性ある我々という『主人公』がそれを断罪する。結末は予め決まっていて、我々が正しく、彼らが間違っている。これは批評ではなく、自己満足のための儀式ですわ」
「つまり我々もあの物語の読者と同類だと」
「同類どころか、より質が悪いかもしれません」
カタリナは立ち上がり、窓辺へ歩いた。硝子越しに見える路地には夕暮れの薄闇が降り始めている。
「婚約破棄譚の読者は少なくとも自分たちが娯楽に興じていることを自覚しているでしょう。けれど我々は知性の名のもとに他者を断罪することを高尚な営みだと思い込んでいる。その自覚のなさにおいて、我々のほうがはるかに滑稽ですわ」
「ではこの話題を持ち出したこと自体が誤りだったと」
イレーネの問いにカタリナは首を横に振った。
「誤りかどうかはわかりません。ただ、自分たちもまた同じ穴の狢であると気づかないまま他者を嗤うことの、どこに知性があるのかしら。私たちはあの物語を読む者たちを阿呆と呼びましたが阿呆が阿呆を阿呆と呼ぶ光景ほど滑稽なものはありませんわ」
「連環ですな」
子爵が呟いた。
「愚かさの連環。嗤う者を嗤う者をまた別の者が嗤う。どこにも終点がない」
「まさにそれですわ」
カタリナは窓の外に目を向けたまま続けた。
「私たちがこうして婚約破棄譚を嗤っていることをまた別の誰かが嗤っているかもしれません。そしてその誰かをさらに別の誰かが嗤う。鎖は果てしなく続いていく」
「それでは何も批判できないことになりませんこと」
ベルナデット嬢が困惑した声を上げた。
「批判してもいいのですわ」
カタリナは振り返った。
「ただし、自分もまた批判される側にいることを忘れなければ。阿呆鳥が海面の魚を嗤う。けれど阿呆鳥自身、空の鷹から見れば愚かな獲物に過ぎない。上を向けば必ず誰かがいて、下を向けば必ず誰かがいる。その連環の中で自分だけが賢者のつもりでいられる者は」
「阿呆のなかの阿呆、ですか」
「そういうことですわ」
マルグリットは深く息を吐いた。
「つまり、私たちは今日一日かけて、自分たちが阿呆であることを証明していたわけですのね」
「お気になさらないで」
カタリナは席に戻りながら言った。
「気づいただけましですわ。気づかぬまま賢者を気取り続けるよりは」
「慰めにもなりませんわね」
「慰めを求める時点でもう」
言葉を切り、カタリナは新しい茶に口をつけた。
そのとき談話室の扉が開いた。給仕が一礼して告げる。
「お客様がた、本日の営業は間もなく終了でございます」
五人は顔を見合わせ、それぞれに腰を上げ始めた。外套を羽織り、手袋をはめる。最後に部屋を出ようとしたカタリナがふと足を止めた。
「ところで」
「何でしょう」
振り返ったマルグリットにカタリナは薄く笑いかけた。
「この会話を誰かが物語にしたとして、それを読む者は何を思うかしら」
「さあ。私たちを嗤うのではなくて?」
「そうでしょうね。そしてその読者をまた別の誰かが」
「連環、ですか」
「ええ。どこまでも」
二人は肩を並べて廊下を歩いた。銀枝亭の重い扉が開き、夕闘の冷気が頬を打つ。石畳の路地には人影もまばらで遠くの塔から鐘の音が聞こえてくる。
見上げた空を一羽の鳥が横切っていった。白い腹を夕日に染め、ゆっくりと旋回しながら高度を上げていく。
鳥が鳴いた。
アホウと鳴いたかどうかは定かではない。
(了)




