評論家様
私は最近、あるレビュー欄を眺めるのが癖になっている。
仕事でも勉強でもなく、ただの暇つぶしのはずなのに、気づけば数十分も画面をスクロールしている。
そこに並ぶ文章は、誰かが吐き出した愚痴や、慎ましい感想や、妙に専門家ぶった講釈や、そしてそれらに続く賛否の応酬だ。
けれど私の視線を奪ったのは、ひとつのレビューだった。
音楽が好きだと豪語しながら、モニター用ヘッドフォンに専門用語を並べて文句を言っている。
その並べた単語が、なぜだか全部、表面だけ撫でて覚えたような響きを放っていた。
音楽が好きと言うくせに、聞いている内容が薄っぺらいことは文章から滲み出ていた。
自分を大きく見せたくて、不必要な知識をかき集めて、それを自分の価値だと勘違いしている。
そんな姿が、読みながら笑えるほど分かってしまった。
そこから興味本位で、その人の他のレビューを覗いた。
ナッツを買って、美味しくなかったという理由で安いものに変えて、それを「美味しくなってよかった」と書いていた。
健康のために買ったはずなのに、塩分と化学調味料を求めている。
高いものには高い理由があるのに、そこに気づきもしないで、ただ舌に刺激を与えてドーパミンが出る味に飛びつく。
そんな行動を自分で選んでいるのに、本人はそれを賢い判断だと思っているらしい。
読んだ瞬間、言葉にはしなかったのに、心の中では「馬鹿だな」と呟いてしまっていた。
世の中には、こういう本質が見えていない人間があまりにも多い。
少し専門用語を知っているだけで、急に賢くなった気分になる。
浅い知識を振りかざして、人より上に立っているつもりになる。
でも、その知識が何の役にも立っていないことなんて、文章を読めば一目瞭然だ。
むしろ、それを誇らしげに掲げているぶん、愚かさは余計に強調される。
こんなことが起きるのは、やっぱりネットが簡単に知識をばらまくようになったからだと思う。
調べればすぐに「それっぽい言葉」が手に入る。
その手軽さが、深く考える価値を奪ってしまった。
薄いままの知識を薄いままで広められる時代になった。
賢さを身につけるよりも先に、賢いふりだけが簡単になった。
でも、そう考えている私も、もしかすると同じなのではないかと思う瞬間がある。
ネット越しに誰かを眺めて、勝手に評価して、心の中で切り捨てている。
それを繰り返すうちに、自分だけは大丈夫だと錯覚している。
けれど本当は、私の中にも同じ浅さが潜んでいるのかもしれない。
それでも、今日もレビュー欄を開いてしまう。
誰かの無自覚な愚かさに、苛立ちながら、安心しながら、呆れながら。
そしてまた思うのだ。
馬鹿はいつまで経っても馬鹿なのだから、無理に賢さを演じて恥を重ねるより、黙っていた方がまだ救いがあるのに、と。




