夏未満
すこし気の早い太平洋高気圧の影響か、まだ六月も上旬だというのに、今日は気温が三十五度に達していた。空は目に刺さるような青さで、見慣れた白い校舎がやけにまぶしい。草木の影がいつもより濃い。風はない。むしろそれが、かえって暑さを濃くしていた。
朝、テレビでニュースが流れていた。
アナウンサーがにこやかな顔で言う。
「──本日は各地で真夏日となりそうです。
六月上旬としては記録的な暑さで、十二年ぶりの気温となっております。
熱中症に注意され、水分補給を忘れずにお過ごしください」
そんな天気の中、制服姿の生徒たちが、列を作って門をくぐっていく。
校門をくぐって、昇降口を抜けて教室に入る。いつもの朝と同じ登校風景。
でも、ホームルームを行う教室の空気はすでに夏の匂いをまとっていた。
午前中の数学の時間。授業が始まるとすぐに、先週の小テストが返された。
直哉は自分の答案を眺めながらシャープペンをそっと揺らした。
直哉が座る窓際の席は、今日は陽射しがきつかった。汗がシャツに染みる。
「三番、ちょっと難しかったなあ」
そうつぶやくと、ふいに隣の席の小鞠が独り言のように教えてくれた。
「これね、ぱっと見、関数の問題みたいだけど、引っかけっぽいんだよね。図形の問題って考えて解くと、最小値が最短距離になるから簡単だよ」
答案用紙の裏にささっと図を描く。
言われるままに見ていると、不思議とよくわかった。
「なるほど。本当だ。ありがとう」
うなずくと、小鞠は「でしょ」とでも言うように笑った。
同じクラスではあるけれど、これまで小鞠とあまり話したことはなかった。
その笑顔が、思いがけず近くに感じられて、直哉はわずかに息をのんだ。
ほんの数秒だけ、教室のざわめきが遠のいたような気がした。
はっとして外を見る。
けれど、窓から見える空は朝と変わらず真っ青で、入道雲なんてひとかけらもなかった。
お弁当を食べ、午後はいつも通りの授業を終えると、直哉は、鞄を肩にかけ、下駄箱へ向かった。窓際の席で過ごしたせいか、身体には熱がこもっていた。昇降口の先の自販機には、冷えたペットボトルが待っている。昇降口のドアを開けると、外はまだまぶしく、熱気がまとわりついてくる。
目をやると、小鞠が立ち止まっているのが見えた。
自販機の前で、ペットボトルを選ぶ手を止めて、空を見上げている。
青い空に白い雲がわずかに膨らんでいる。
あたりはしんと静まりかえっていた。
時間も、どこかで止まってしまったようだった。
そんな景色の中、ふと、何かが足りない気がした。直哉は思わず、
「まだ、鳴いてないね」
と口にしていた。
──口をついて出ただけだったが、届いたらしい。
小鞠が顔だけこちらに向けて言った。
「蝉?」
まぶしい陽射しのなか、髪が額に張りついていた。
直哉はうなずく。
「こんなに暑いのに、まだ夏じゃないなんて、なんか変な感じだね」
「うん。でも……もうすぐ、だと思う」
彼女はそう言うと、すこし笑った。
その言葉が、どこか心にひっかかった。
蝉も鳴かず、雲もまだ薄く、でも確かに青い。景色だけは夏そのものだった。
「──夏を予行演習しているみたい」
しばらく空を見上げた後、彼女はペットボトルを選び、手に取ると、ゆっくりと背を向けて歩き出した。揺れるペットボトルが、陽射しを受けてほんのり透けて見えた気がした。
たぶん、本番がやって来る前の、ひとつだけの景色。
それは会話というほどでもなかった。
けれど、何かがほんのわずかに近づいたような気がした。
その夜、お風呂から上がると、直哉は窓を開けて空を見上げた。
風は止まり、音もしない。空には月もない。
星座はまだ六月のままだ。
夏の大三角なんか気配もない。
けれど、ふと思う。
蝉の声が響き、雲が立ち上る日が来たとき、今日の日が「本当の始まり」だったと気づくのかもしれない。
その予感だけが、そっと胸の奥でふくらんでいた。
──ただ、次の日からは、いつもの雨の六月に戻っていた。
ようやく、そんな梅雨も明け、七月に入ると空の形が変わった。朝の登校では、アスファルトの道がじんわりと足元に熱を返してくる。入道雲が校舎の屋上よりも高く、もくもくと膨らんでいる。木々の影が短く、濃く、地面に張り付いている。
一日は、変わらぬ暑さの中で、ゆっくりと過ぎていった。
授業を終えた七月の午後は、陽射しの音が聞こえるような夏の気配に満ちていた。放課後の校庭。どこかの木陰で、蝉の声がかたまりとなって空に向かって上がっている。
昇降口を出ると、直哉は、自販機の方に目をやった。小鞠がいた。六月のあの日と同じように、ペットボトルを選びかけて、空を見上げている。七月の光のなか、風にほどけた髪が、ふわりと揺れていた。
「また、鳴いてるね」
振り返らずに小鞠が言った。
すこし離れたところで、直哉はうなずいた。でも、六月のときよりも、わずかに立っている距離が近いような気がした。あれから何度か話す機会はあったけれど、特別なことが起きたわけではない。ただ、あの日のことが思い出されると、いつもすこしだけ特別に思えてしまう自分がいた。
たぶん、あれが夏の予行演習だったんだと思う。
そう思った瞬間、直哉は自販機の方に歩き出しかけた。
──時雨始めた蝉の声が、風のようにそっとその背中を押していた。