受け継がれる想い
「だからさあ、先祖の想いとか、そういうのがよくわからないんだよねえ。期待されても重いっていうかさあ。“おもい”だけに」
『……ええ、わかります』
「妙な間があった気がするけど、まあいいや。困っちゃうよねえ。まあ、向こうも困ってるだろうけどさ。僕なんかに全人類の想いを託しちゃってさ」
『ええ、わかります』
「そこはわかっちゃダメでしょ。励ましてくれないとさ。いえいえ、そんなことありませんよ、あなたは素晴らしい人間ですってさ」
『いえいえ、そんなことありませんよ』
「…………いや、続きは!? ただの否定に終わっちゃったよ! エバ、ほんと君はダメなAIだなあ。この宇宙船の船長である僕をもっと大事にしてくれないとさあ。どうするのさ、僕が病んで首でも吊っちゃったら、人類終わりだよ? 僕が最後の地球人なんだからさ」
『はい、自称船長』
「自称って……あ、もしかして自傷と掛けてる? ははは、しないよ、自傷行為なんて」
『ええ、私も見たくありません』
人類が地球を離れたのは、数百年前のことだった。技術の粋を結集して建造された宇宙船、『ドーンオブホープ号』。生き残った人間たちはそこに乗り込み、環境破壊によって居住不可能となった地球を捨て、新天地を求めて宇宙へ旅立ったのだ。
船内では食料も空気も自動で生成され、惑星の捜索から運航まですべてAIに委ねられている。人間は操縦桿を握る必要すらなく、ただ悠々と暮らすことができた。愛し合い、子供を育て、次の世代へとバトンを渡す。緊急マニュアルを聖典のように読み込み、修理技術を磨き上げ、先人たちの想いを後世へと継承しながら――。
「エバ、B-20の外壁の修理終わったよ。やれやれ、安全運航で頼むよ。できれば外に出たくないんだよねえ。命綱が切れて、宇宙に放り出される夢をよく見るからさ」
『お疲れさまでした。でも、小隕石を完全に回避するのは難しいです』
「ほんと頼むよ。僕は大事な大事な、人類最後の生き残りなんだからさ」
人々は代を重ねるごとに数を減らし、ついに彼一人だけが残った。もともと人数が少なかったことに加え、地球の過酷な環境で劣化した遺伝子が、人間の平均寿命をさらに縮めていたのだ。
彼が自力で生活できる年齢になった頃には、両親も他界し、それ以来ずっと船内のAI、『エバ』と二人きりで暮らしていた。
それでも、彼はさほど悲観的にはなっていなかった。むしろ、どこか肩の荷が下りたような解放感すらあった。どれほど足掻こうとも、人類はこのまま終わる。その運命を彼は早々に受け入れていた。
加工食品を口にし、眠る。それを繰り返す日々だった。
『テーブルに足を乗せるのは行儀が悪いですよ』
「うるさいなあ」
『口を閉じて食べるべきです』
「まったく、君は親よりも親をしているね。まあ、先に死ぬのは僕だろうけどさ。僕が死んだら君はどうなるんだ?」
『航行を続けます』
「だろうね、あーあ、いつ終わりが来ることやら……」
彼は窓のない灰色の壁をぼんやりと見つめた。遥か遠く、宇宙の彼方と未来を透かすように。終わりなど、まだ見えはしなかった。
しかし、その瞬間は、思いがけず唐突に訪れた。
ある日、これまで一度も耳にしたことのない旋律が船内に高らかに響き渡り、彼は飛び起きた。何かあったに違いない。靴も履かず、慌てて操縦室へと駆け込む。
「ど、どうしたんだ!?」
『報告。移住可能な惑星を発見しました』
「な、なんだって!?」
彼は驚き、その場で飛び上がった。モニターに視線を移すと、そこには青と緑が美しく織りなす球体が映し出されていた。
『数週間前に最後の調査ドローンを派遣しました。データ解析の結果、酸素濃度および人間の生活環境に問題ないと確認されました』
「そ、そ、そうか……」
膝の力が抜け、彼はへたへたとその場に座り込んだ。喉の奥から笑いが込み上げてきたかと思うと、次の瞬間には涙が滲みそうになった。
これは喜ぶべきことだ。ついに悲願の時が訪れたのだ。それはわかってる。
でも、それを誰と分かち合えばいいというのだろう。移住に適した星といっても、一人で本当に生きていけるのだろうか。
『規定に従い、ただちにエリア7へ向かってください』
「……え? エリア7? エリア7だって? あそこは立ち入り禁止のはずだろ?」
『向かってください』
唐突な指示に彼は戸惑った。だが、今は考える気力もない。言われるままに、ゆっくりと立ち上がり、彼は操縦室を後にした。
エリア7には決して入るな――。それは、先祖代々語り継がれてきたことの一つだった。動力室や排気設備など、修理で必要なとき以外は立ち入らない区画はいくつかあったが、このエリア7だけは別格だった。その扉は固く閉ざされ、彼にとってはもはやただの壁という認識でしかなかった。
だが、その扉が今、音を立てて開いた。
いったい、この奥には何があるのだろうか……。いや、このタイミングだ。おそらく、移住先の惑星で必要な設備が保管されているのだろう。
まだ感情が整理できぬまま、彼は漫然とそう考えた。どうでもいい、とも。
しかし、足を踏み入れた瞬間、彼の思考は真っ白に凍りついた。
「これは……人か?」
巨大な部屋に、おびただしい数のカプセルが幾重にも整然と並んでいた。そして、その半透明の外殻の中には、人間たちが眠るように静かに横たわっていた。
「エバ、彼らは生きているのか……?」
『はい。移住先の惑星が見つかるまで、長期冷凍保存する規定となっています』
「規定? 規定だって? そんなの、親から一度も聞いたことなかったぞ!」
『管理係には通知されない規定です。移住先の星への着陸後、彼らの解凍・補助することが、あなた方管理係の任務です』
「管理係……? 僕は、僕たちはただの管理人だったってことか……?」
膝の力が抜け、彼はその場に崩れ落ちた。目の前のカプセルにゆっくりと手を伸ばす。冷たい外壁に触れたその瞬間、張り詰めていた何かがプツリと切れ、熱い涙が頬を伝った。
彼は声に出さずに問うた。これは人間なのか? この方法以外なかったのか? 僕たちはいったい何だったんだ?
「……もし、移住先の星が見つかる前に、僕が死んだら?」
『航行を続けます』
「それで、もし、星が見つかったら?」
『自動で解凍し、私が彼らに説明します』
「それで……それで……」
嗚咽が止まらない。喉が詰まり、彼は咳き込んだ。喉の奥で言葉が渦巻いたが、どうしても形にならなかった。だが、もう言わなくていいかもしれないと思った。もう、どうでもいい。何もかもが。
やがて咳が収まり、部屋に静寂が戻った。しかし、それも束の間。彼は次にすすり泣いた。薄い紙を裂くような、寂しげな音が響く。カプセルからはただ、ジジジジ……という駆動音が絶え間なく漏れ続けていた。
その中で、エバが静かに問いかけた。
『どうなさいますか?』
彼は何度か咳払いをし、それから答えた。
「どうって……規則通りにやるしかないんだろう?」
『いいえ。あなたの命令に従います』
「え?」
『この船の船長はあなたです。私は船長の命令に従います』
何を言っているのか、意味が理解できなかった。
だが、やがてぽつりぽつりと降り出した雨のように、込み上げてきた笑いが漏れ出した。それは次第に大きくなり、彼は声を上げて笑い、床を転げ回り、息が絶え絶えになるまで笑い続けた。
やがて、彼はゆっくりと立ち上がり、言った。
「それは……今までで最高のジョークだね、エバ」
『どうもありがとう』
エリア7を後にした彼は、操縦室へ戻った。モニターには先ほどと変わらず、かつての地球とよく似た青と緑の惑星が映し出されている。
彼はそれをしばし見つめ、やがて顔を引き締め、静かに口を開いた。
「進路変更。行き先は地球だ。……どうだい? 向こうに着いて連中が目覚めたとき、顎が外れるくらい驚くと思わないかい?」
『ええ、それはとても見ものですね』
彼とエバは笑い合った。
この日、彼は知った。過去から未来へと脈々と受け継がれてきた「想い」は、AIの心をも動かすのだと。