40-04 最後の敵
「ケルシー!!」
もはや演技のことも忘れてしまい、戦う気力もなくなっていた。自分の親友が斬られてしまったことに、絶望しかしてなかった。
クリスは素早くケルシーを片付けてしまい、真っ赤に染まったナイフを片手にグレイスに一気に肉薄する。グレイスは叫びながら完全に固まっていた。このままでは間違いなくクリスに殺されてしまうだろう。
メファリアはすぐに行動を取っていた。集中を途切れさせたせいで憑依を一旦解除されていたが、彼女はまた無理やり憑依を戻した。もとい、グレイスに「乗り移った」のだ。力を大きく使うことが故に避けていたことだが、今は緊急時だった。なりふり言っていられない。メファリアは強引にグレイスの体に入り込み、襲ってくるクリスを睨みつけた。ありったけの力を恐怖魔術に注ぎ込み、彼を戦闘不能に陥れようとした。
「恐怖に飲まれろ!!」
一度恐怖の芽をつけられていた。なので、恐怖を爆発させること自体は可能だった。ナイフがすぐ目の前まで迫っていたが、すんでのところで間に合った。
クリスはナイフを落としてしまい、つんざくような悲鳴を上げる。両手で頭を抱えて、涙を流しながら、崩れ落ちていった。
ああ、恐怖!不安と絶望!それらが全て彼を飲み込んでいった。
戦うことなんかとてもできやしない。泣いて、泣いて、自分を殻のようにこもり、脅威が去っていくのを待つことしかできない。クリスの悪行は完全に止められた。
メファリアはぽつりと消えてしまった。無理に大きな力を引き出してしまったことにより、一時的に存在が消えてしまっていた。現実に引き戻されたグレイスは改めて怯えるクリスを見ると、彼女は金切り声を出しながら、ハンマーを横に振りかぶる。
振る勢いで涙をまき散らしながら、憎き盗賊を横から思いっきり叩きつけた。完全に無抵抗になっていたクリスは不自然にくの字に曲がり、声なく吹っ飛んで行ってしまう。生身に対するミスリルハンマーによる攻撃がただで済むはずがない。クリスは死ぬことはなかったが、腕と肋骨を何本か折れてしまっていて、床に落ちて転がり終える前までには失神していた。
「ケルシー!どうしよう!メファリア!」
グレイスはメファリアに助けを乞うが、返事はない。メファリアはまだ存在はしていたが、声を出すことが叶わなかった。
「いやだ!!ケルシー!ケルシー!」
ミスリルハンマーを放りだして、ケルシーを介抱するために駆けつける。顔を真っ青にして、首に手であてがっているが、血が止まらなかった。即死には至らなかったものの、このままでは確実に出血死する。
「グレイス!…うそ!大変!」
突然別の女の声がエントランスホールに響き渡った。トラインが別の扉からこの場に入ってきたのだ。彼女もケルシー同様、目を覚ますことに成功していた。ケルシーが血を出して倒れているのを見て、グレイスと同じように駆け寄った。
グレイスはおどおどしていて、どうすればいいか分からなかった。倒れているケルシーを前にして、泣くことしかできていなかった。トラインはすぐさまケルシーの上体を起こして、首に手を当てて血がこれ以上零れさせないようにした。
「グレイス!マーサよ!マーサを連れてきて!」
「え…だって、…だって」
「いいから早く連れてきて!このままじゃ、ケルシーが死んじゃうよ!」
グレイスは泣きながらエントランスホールを横切って、奥の扉の方へ走っていった。
ホール奥の廊下に戻ってきた。そこでマーサとニールがうずくまって泣いていた。グレイスはすかさず丸くなっていたマーサに泣きついた。
「マーサ!お願い、助けて!ケルシーが!ケルシーが!」
グレイスはマーサをゆすって起こそうとする。しかし、返ってくるのは苦しそうなうめき声だけだった。とても助けてくれそうな雰囲気でもない。だけど、ここで絶対にマーサの助けが必要だ。彼女が唯一、回復魔術が使える。町に降りて行って、助けを呼ぶ暇なんてとてもない。
「マーサ、お願い!起きて!起きて!」
しかし、無情にも返事は返って来ない。理性があるのかどうか怪しいものだった。
グレイスはそれでもあきらめずに、マーサをゆすりつける。
「…お願い…、マーサ…。助けて…」
グレイスは持っていたサファイアを(もうすでに力を使い果たしていて、黒くなっていた)マーサの手のところに押し付けた。恐怖の瘴気は晴れているはずだ。とすれば、マーサは脅かす恐怖はもう存在しない。彼女が目を覚ましてくれれば、それでいい。
それでもマーサは我を取り戻さない。どうしようもない状況に、グレイスは更に涙する。
どうすればいい?どうすればいいの?
そして、彼女はクリスが持っていたサファイアを思い出した。確か、まだ光っているのを持っていたはずだ。しかも、盗んできた他のサファイアも持っていたという。グレイスはエイドリアンの言葉を思い出す。
宝石には、魔力が込められていなくても、僅かなる効果を持っていると。
クリスが盗んできたサファイアにも、力があるはずだ。
グレイスはまたエントランスホールに戻ってきた。真っ先に倒れているクリスのところへ急ぐ。
「グレイス!?マーサは!?」
向かいの方でトラインが叫んでくる。だけど、答えている余裕なんかなかった。グレイスはクリスの横に転がっていたサファイアを拾い上げた。三個、いや四個はあった。
すぐにトラインは、グレイスのしようとしていることを察した。
「早く、グレイス!血が止まらない!」
トラインはその場から動くことができない。手を放してしまうと、血が止まらなくなりケルシーが死んでしまう。彼女はグレイスに頼る他なかった。
グレイスは四個のサファイアを両手に抱えながら、マーサのところへ急いで戻った。
(私のばか!マーサがあんな状態だから、最初からサファイアを取ってくるべきだった。こんな行ったり来たりしている間にもケルシーが!)
悔やんでも仕方ないと分かっている。だけど、ケルシーの命が関わっている以上、仕方ないで済まされなかった。グレイスは泣きながらもマーサのところへ戻り、サファイアを無理やり握らせる。
「お願い!これで目を覚まして!」
四個もサファイアもあるのだ。絶大な効果をもたらしてくれるはずだ。例え、魔力が込められていなくても、多少マーサの精神の負担を減らしてくれるに違いない。
「マーサ!お願い!」
もうケルシーが喉を斬られてどれくらい時間が経つのだろうか。もう一度、トラインの悲鳴が聞こえた。急いで、急いでと。
グレイスはもうこれ以上どうすればいいか分からずに、途方に暮れて泣いてしまう。
「お願い…。お願い…」
グレイスは泣きじゃくりながら、サファイアをしっかりとマーサの手に握らせた。彼女の涙が頬を伝い、そしてマーサの顔にぽつりと落ちる。
すると、奇跡が起きたのだろうか、マーサは覚醒し始めた。サファイアが四個あったのが効いたのか。それとも、グレイスの呼びかけが聞こえたのか。要因は分からなかったが、マーサは理性を取り戻すことに成功した。彼女はグレイスの顔の方へ見る。
「グ…グレイス…?」
まだ完全に精神は癒えきっていなかったが、意識を戻すことには成功していた。
「マーサ!早く!こっち!ケルシーが!」
グレイスは取り乱していて、まともに言葉も喋れていなかった。その尋常じゃない訴え、そしてケルシーの名前を聞くとともに、マーサはすぐさま自分に喝を入れた。
「ケ、ケルシー?どこ?」
マーサは立ち上がろうとする。しっかりと立てることができなくて、よろめいてしまう。動けること自体、奇跡だった。彼女はグレイスに手を引かれながらケルシーのもとへ連れていかれた。
「ケルシーが喉を斬られて!マーサ!回復を!」
ケルシーが瀕死の状態を見て、マーサの顔が蒼白になる。ケルシーは虚空を見つめながら、口をぱくぱくさせていた。トラインは服の袖を破いていて、無理やり喉の止血を止めた上で、両手で傷の上を塞いでいた。それでも血はとめどなく流れる。
マーサは急いでケルシーのところに駆け寄り、回復魔術に専念する。精神が不安定で魔術を行使できるかどうか怪しかったが、そんなことは言っていられない。
マーサは力を振り絞って、回復魔術をケルシーにかけた。
何分経っただろうか。グレイスはサファイアをマーサの背中に押し付けるようにして待った。実はこれが効いていて、マーサの精神を安定させるのに貢献していた。
ケルシーは気を失っていて、白目を向きながら意識を手放していた。だけど、確実に傷は塞がっていた。血はやがて流れるのが止まった。後はケルシー次第であった。
「ケルシー!しっかりして!ケルシー!」
両手を血で真っ赤にしたマーサが呼びかける。隣にいたグレイスとトラインは祈りながら見守った。
ケルシーは動かなかった。息をしていなかった。まるで糸が取れてしまった人形のように命を引き取っていた。
グレイスはその様子を見るなり、嗚咽を漏らしながら泣いた。
そして、彼女達の祈りが通じたのか、ケルシーは咳をした。口にいっぱい血がたまっていて、咳で血しぶきがマーサの顔に飛び散る。
「ケルシー!ケルシー!」
マーサは顔をくちゃくちゃにしながらケルシーの名を呼んだ。
「マ…マーサ?」
彼女は声を出してくれたことに、マーサは泣きじゃくった。グレイスも泣いた。トラインも泣いた。
ケルシーは命を落とすことはなかった。シスター四人がお互いを抱き合い、心がゆくまで泣いて、泣いて、そして泣いた。
頭上の窓から光が漏れて、彼女達を優しく包み込んでくれていた。外の天気はすっかり晴れていて、夕日の温かさが屋敷の中に沁み込んでいた。




