プロローグ ①
女性が暗い廊下の中を全速力で走っていく。彼女は中々豪華な服装を着こんでいる。顔はそれなりの美貌を備えていたものの、汗と恐怖に歪んでいて、台無しになっていた。慣れていない運動のためか、荒々しい呼吸をしている。目の前までに迫っていた、下に続く大きな階段が目に入らなかったのか、足がもつれて、悲鳴を上げながら階段を転げ落ちていった。一番下の方まで落ちると、幸い大きな怪我がなかったのか、呻き声を絞り出しながら、立ち上がろうとする。その必死そうな素振りは、まるで何かから逃げているかのように見える。
足を少し引きずるようにして、一枚の扉の前までくると、開け放っては中に飛び込む。バタンと後ろに扉を閉め、中の部屋の様子をざっと見まわす。少しずつだが、闇の中でも物の文目が判別できるようまでになってきた。座り心地がよさそうなアームチェアが二つ、デカンターが置かれてある丸いテーブルが目に入る。奥には火がついていない暖炉、壁には鹿の頭の壁掛けがかかっているのが見える。彼女は一度この部屋に来たことがある。ついさっきまであの悪魔のような男と、この応接間の中で楽しそうに会話していたことが信じられなかった。
「ああ…、プレムタック伯…。なぜ…」
女は苦々しそうにつぶやいた。しかし、弱音を吐いている場合ではなかった。計画通りに事を運ばなければならなかった。彼女は窓の方に駆け寄り、掛けられていたカーテンをバッと引きはがす。ここからは、見晴らしのいい景色が窺えたのを覚えていた。綺麗に咲くガーデンブッシュに生き生きとした木々。その奥の方には山脈が見え、伯爵はここからの日の出の景色は素晴らしいものだと話してくれた。しかし、今は窓の外は不自然な程の真っ暗闇であり、見えてくる景色など何もなかった。だが彼女にとっては、そんなことは既に分かっていたことであり、落胆などはしていなかった。
女は窓に少し寄りかかりながら、服装のどこかに忍びよせていたのか、一枚の藁半紙を取り出す。続けてマッチ箱を取り出し、紙を脇に挟んだまま火をつけた。ぼわっ、とオレンジ色の火が灯し、この冷え切るような暗闇の中、わずかだが確かな明るみが女を包み込んだ。それだけでも、彼女を襲ってくる恐怖が少し霧散するように感じられた。震えるような手で、火を紙に近づけた。それは文字も何も書かれていない白紙だった。
「ブラウン、そこにいるのですか?外の状況を教えてください!」
女は窓に向かって、震え声を発した。真っ暗で視認することができないのだが、この外には確かにブラウン侯が待ち構えているのを知っている。そういう手筈になっているのだ。
呼吸を整えながら、恐怖を紛らわすためにマッチの炎を凝視しながら、仲間の言葉を待つ。しばらくすると、紙にぼんやりと文字が浮かび上がってきた。彼女は仲間の言葉を受信できたことに、思わず小さな喚声を上げた。彼女は一人ではなかった。外にはブラウン侯がちゃんといてくれている。
彼女は急いで、ブラウンの伝言を読み取ろうとした。
「なんですって…。そ、外でプレムタック伯の娘を発見した。て…抵抗してこなかったのだが、セラル氏が彼女を殺してしまった…。おお…、な…なんてこと」
衝撃的な内容に女は頭の中で小さく祈りを捧げた。彼女は、この屋敷で開かれる晩餐会が始まる前にプレムタック伯の娘に会っていたのを覚えている。メファリアといったか。成人をまだ向かる数年前だったが、既に大人びている印象があった。短めな黒髪にパッチリとした緑色の目。礼儀作法もよくて、貴族としては恥ずかしくない振る舞いをしていた。もしも彼女がプレムタック家の一員でなければ、息子の嫁として迎え入れてもいいとまで考えていた。
しかし、彼女は殺されてもしょうがなかったのだろう。大罪を犯したプレムタック家の一員となれば、生かせることはできない。せめて、苦痛のない死であったことを、彼女は願った。
ブラウンからの伝言はひとまずこれで終わりだ。今度はこちらから伝言を送る番だ。女は額に紙を寄せて、伝えようとすることを念じた。
「ブラウン…。他の仲間は分かりませんが、…お、恐らく全滅です。やつらが…、き…『恐怖魔術』を使ってぎ…。」
気が付けば、喉がカラカラになっていた。女は唾を飲み込み、無理やり喉を潤そうとした。片手に安らぎのマッチ、片手に紙を持ったまま、窓の壁に背もたれ掛かるようにして座り込み、伝えたい言葉を念じた。思えば、クタクタに疲れ果てていて、精神はほぼ限界に達していた。
「ケホ…、もうこうなったら仕方がない。ブラウン…。このプレムタック屋敷を私達ごと、封じ込めてください。もう…中のみんなは…助からない…」
一々口に出さなくても、念じることでブラウンには伝わるのだが、こうして口に出すことで、恐怖を紛らわせることが少しできた。
「あなたの結界術で…封じ込めてやってください」
プレムタック家の者を外に出すわけにはいかない。『恐怖魔術』は危険すぎる。あれを利用して、どんな悪事を働かせるのかと思うと、ぞっとする。であれば、自分含めてあの家族を封印するしかあるまい。彼女はそう決意した。
「息子に…夫に…愛していると伝えてください。もう私は…」
自分はここまでと思うと、哀しみが一気に膨らんでいく。もう家族とはもう会えない。助かりたいと密かに思っているが、それも無理であると分かる。もう腹を据えていた。この邪悪なプレムタック一家を野に放さずに封じ込めることができるのならば、世の中のためといえよう。栄誉ある死を迎えることもできるし、王から家族へ褒賞が与えられるかもしれない。自分がいなくても、家族は上手くやっていくことを、彼女は信じていた。
感傷に浸っていると、女はパッと顔を上げ、大切なことを思い出す。そうだ、もっとも伝えなければならないことがあったのだ。気が動転していて、すっかり忘れていた。
「そうです、ブラウン!私達の中に裏切り者がいたのです!」
思わず声を出して、紙に念じるのを再開する。
「マクファデン男爵です!あいつが…」
と、女が集中を高めようとしところ、バンと応接間の扉が開かれる。女は悲鳴を上げて、集中を途切れさせてしまう。