冗談じゃないと教えて
「は、捗る……!」
脳が正常に回転する。
ペンがするするとノートを滑る。
一人きりで勉強に集中出来ることが、こんなにも快適だったなんて。柚葉の受験勉強は、まさに絶好調であった。
柚葉が、凛太へキレてからからというもの。
約束通り、凛太が部屋へ来ることは無くなった。時折、通常運転のカフェラテを差し入れしては「がんばって下さいね」と眩い微笑みを残して去っていくだけ。
拍子抜けするほど素直に身を引いてくれた彼は、真面目にバイトへ専念している様子であった。
「このところ、お客さんが増えたのよね」
母は朝食のはちみつバタートーストをかじると、ホットミルクで流し込んだ。柚葉もホットミルクを一口飲むと、自分のトーストにバターを塗り込む。
「凛太君が、たくさんお店に出てくれてるでしょう? 店に大学の女の子が増えちゃって、もう大変」
「へ、へえ」
「彼、器用だからパフェもラテアートも綺麗に出来ちゃうの。それ見て女の子達がキャーって!」
「ふ、ふーん」
トーストにはちみつを垂らしながら平静を装うけれど。柚葉の胸は波立った。
二階で勉強をしている間、階下から黄色い歓声が湧き上がっているのは知っていた。その声が凛太目当ての女の子達のものだということも。
知っていて、聞こえないふりをしていたのだ。気にしてしまったらまた集中出来なくなってしまうから。
「柚葉! はちみつかけ過ぎ!」
「えっ! あー……」
気づいた時には、はちみつがトーストから溢れてしまっていた。柚葉のトーストからこぼれ落ちるはちみつを見て、母はため息をつく。
「柚葉。最近、凛太君から勉強教わってないみたいだけど、大丈夫なの?」
「大丈夫よ。過去問も絶好調なの」
「違うわよ。凛太君と喧嘩でもしたのかって話」
あれほど柚葉柚葉と言って二階へ上がっていた凛太が、急に彼女の部屋へ顔を出さなくなってしまった。アルバイトに没頭し、客の女の子達に囲まれて……まるで、柚葉のことなど忘れ去ってしまったかのように。
一方、塾へ行きたくないほど凛太との時間にこだわっていた柚葉が、いきなり一人きりで勉強を始めた。それは絶好調で、『捗る』とも口にする。
母が心配するのも無理はない。
「喧嘩なんて、してないよ」
「そう? ならいいんだけど……」
その日のはちみつバタートーストは甘すぎて。ホットミルクもいいけれど、凛太が淹れるカフェラテが飲みたいと思ってしまった朝だった。
「おかえり、柚葉」
「……ただいま」
学校が終わり店に帰ると、ちょうどバイト中の凛太が出迎えた。母は買出し中であろうか、彼一人で店番をしている。
エプロン姿でカウンターに立つ彼の前には客がいた。
三人、花咲大学の女の人。皆、つやつやと流れるような髪。彼女達を彩る、ピアスやメイク、こなれた服装。
柚葉は、思わず自分を見た。ブレザーに、参考書が詰まった大きなリュック。紺ハイにスニーカー。真っ黒の髪に、ノーメイク──
昔からこの場所で、多くの花咲大学生を客として迎えているというのに。何故か急に、その場に立っていることが恥ずかしくなった。柚葉が彼女達から目を逸らし、一目散に二階へと向かおうとしていたら。
「ねえ、あの子でしょ?」
「凛太が予約済みの子」
「かわいー。柚葉ちゃんていうの?」
足早に通り過ぎたところで耳を疑う会話が聞こえて、思わず後ろを振り返ってしまった。聞き間違いでなければ、『予約済み』という単語が聞こえた。凛太は一体、彼女達にどういう話をしているというのだろうか。
「可愛いでしょ。柚葉が合格したら付き合うの、俺達は」
「り、凛太先輩、なにを言ってるんですか!」
「そうでしょう? 柚葉」
有無を言わさぬ強めの笑顔を向ける凛太と、その前でかわいーかわいーと冷やかす花咲大女子。
なんだか、完全に子供扱いをされている気がして。からかわれている。悔しい。そう思うともう顔も手も、真っ赤になってしまって──
柚葉は、凛太達を振り切って二階の部屋へと駆け上がった。
しんと静まり返った柚葉の部屋。下からは時折、凛太と彼女達の楽しげな声が聞こえる。
明日は、イヤホンを買ってこよう。そうしよう。何か音楽でも聴きながら勉強しよう。そうすれば、こんなにも煩わされることは無い。
無理矢理に参考書を広げて、勉強しようとしたけれど。まったく集中出来そうになかった。おかしい。一人きりで、絶好の環境であるはずなのに。
柚葉が悶々としていると、階段をのぼる足音が聞こえてきた。これは凛太の足音だ。彼の足音が合図となって、柚葉の手は無意識に髪を整えていた。いくら整えても、この野暮ったい髪は変わらないのに。
「柚葉。調子はどうですか」
「……店番は、大丈夫なんですか?」
せっかくこうやって凛太が来てくれたというのに、可愛げのない言葉が出てしまう自分に嫌気がさす。彼はエプロンを身に付けたまま、専用席──柚葉の隣に置かれた椅子へ腰をかけた。
「店長が戻ってきましたから大丈夫です。彼女達も帰りました」
「……そうですか」
「柚葉、彼女達が嫌でした?」
凛太は、先程の子供っぽい柚葉を気にかけて、二階へと様子を見に来てくれたようだった。とても恥ずかしかった。また、幼稚な部分を晒している気がして。
「彼女達には、言ってしまってたんですよね……柚葉のこと。すみませんでした」
謝る凛太を、見ることが出来ない。
なぜ、こんなにも柚葉に構うのか分からない。
店ですれ違った彼女達からは、華やかな良い香りがした。年中コーヒーの香りを纏っている柚葉とは違って。
香りだけじゃなかった。表情も、服装も、仕草も、声も。どれをとっても、柚葉には彼女達が大人に見えて。
「──本当に、もう冗談は止めてください」
「柚葉?」
「私、凛太先輩が分からない」
錯覚していたのかもしれない。
この1年間、凛太がずっと近い場所にいてくれたから。
もともと、彼は憧れの人だった。
美しい人で、優等生で、柚葉とは違う世界で生きていた人じゃないか。
彼女達のような女性が周りにいて、柚葉を恋人になんて……どう考えても有り得ないことだった。
なにを、真に受けて心乱されているのだろう。
こういうところが、幼いのだ。
自分は、てんで子供だ。
じわじわと、すぐ涙が出てきてしまうところも──
泣いていることに気づかれたくなくて、柚葉は凛太に背を向けた。袖で頬を拭ってしまっていては、泣いていますと口にしているようなものなのに。
「冗談なんかじゃ無いですよ」
後ろから届く凛太の声が耳に染み込む。
その声は、普段よりも低く、小さくて。
「こっちを向いて」
「……む、無理です」
「僕は柚葉がいいんですよ」
彼は冗談でごまかしてばかりの人。
けれど嘘をついたりはしなかった。
この一年間で、それは痛いほど知っている。
「柚葉が好きなんです」
胸に突き刺さるその言葉には、心も身体も逆らえなくて。我慢できずにそろりと振り向くと、凛太がこちらを見つめている。
その瞳は見たこともないくらい真っ直ぐで、柚葉は目をそらすことが出来なかった。
「柚葉も、僕を好きでしょう?」
凛太は柚葉の気持ちを疑いもせず、ゆっくり距離を詰めてくる。
まるで操られてしまったかのように柚葉がコクリと頷くと──彼は触れるだけのキスをした。
逃げたいと思っていた気持ちは、どこへいってしまったのだろう。今はこんなにも、彼にそばにいて欲しい。
「──私、凛太先輩のカフェラテが飲みたいです」
柚葉が凛太を見つめれば、彼も熱っぽい瞳で応えてくれる。
まだ、夢の中にいるようだった。
彼との夢がまだ続いてゆくのだと、約束された幸せな夢。
「ハート入りの……」
「分かりました。心を込めて淹れますね」
再び彼の顔が近づいて。
二人は二度目のキスをした。