その変化は想定外
「ただいま……」
「おかえり柚葉。プリンあるよ」
学校から帰宅した柚葉の前に、母が手作りのプリンを差し出した。たまごたっぷりのやさしい味がするプリンは、少し固め。その甘さが、学校で疲れた身体に染み渡ってゆく。
カウンターでプリンを頬張りながら、柚葉はそろりと店内を見回した。
「ねえお母さん……今日は凛太先輩来ないよね?」
「うん? そうね、今日はお休みの日よ」
「そっか……」
柚葉はほっと息をついた。緊張がとけて、肩の力もがくりと抜けた。自宅なのに緊張するとは、これいかがなものだろうか。
プリンを食べ終えた柚葉は、自室へと帰るとさっそく勉強に取りかかろうとした。
制服を着替えて、髪をまとめて。参考書とノートをデスクに積んで。もう準備は万端なのに。
頭からは昨日の出来事が離れてくれず、勉強に集中出来そうもなかった。
(昨日のあれは、なんだったの)
昨日、柚葉は凛太の前で泣いてしまった。
すると彼は柚葉の手を握り、微笑み、『合格したら、恋人になって』と甘い言葉を囁いて。そして頬に唇を寄せ……こう口にした。
『ずっと、見ていたでしょう』と。
柚葉はデスクにおでこを打ち付けた。
ちゃんと痛い。夢ではない。これは現実。
バレていたのだろうか。二年前から、凛太を見ていたこと。教室の窓から、渡り廊下から、校舎の影から、凛太を探していたことを。
気付かれていないと思っていた。だって彼にはこちらを気にする様子も無かった。だから思う存分、凛太を見つめ続けていたのに。
「に……逃げたい」
あの様子では、柚葉の気持ちなどお見通しのようだった。凛太との時間を惜しんであのように泣いてしまったのだから、気持ちに気づかれても当然ではあるが……どうやら昨日今日の話ではなく、凛太はずっと気づいていたらしい。隠し通していたはずだった柚葉の恋心に。
それにしても、あの変わりようは何なのだろう。まさか、凛太から『逃げたい』などと思う日が来るなんて。
「柚葉。凛太君が勉強見てくれるって」
「ええ!?」
悶々と思い悩んでいたその時、下から聞こえた母の声に、柚葉は耳を疑った。
今日、凛太は休みだと……そう言っていたじゃないか。
それなのになぜうちに居るの。昨日のことがあったのに、なぜいつも通り勉強を見ようと思えるの。
混乱している間にも、階段をのぼる彼の足音は迫ってくる。そして普段通りに控えめなノックのあと、がチャリと扉は開けられた。
「こんばんは柚葉。調子はどうですか?」
扉の向こうから現れた凛太は、いつも通り柚葉に向かって優しく挨拶をして……
いや、違う。いつもより随分と甘い声色。甘い顔。甘い空気。
彼には見えないのだろうか、固まっている柚葉の顔が。
「り、凛太先輩。今日はお休みでは」
「今日はバイトではありません。柚葉の家庭教師をしに来ました」
「家庭教師?」
「はい。柚葉には、絶対に合格してもらわなくては」
いつの間にか、彼から『柚葉』と呼び捨てにされていることに気がついた。自らを今日『家庭教師』と名乗った凛太は、おそらく大学終わりに直接うちへ寄ったのだろう。リュックから筆記用具を取り出して、やる気に溢れている。
「合格したら恋人同士ですね、柚葉」
「そ、それなんですが。本当に、本気ですか」
「冗談だとでも?」
「はい……」
だって凛太は、なんでも『冗談だ』と誤魔化す人だった。冗談であるなら、やっぱり寂しいけれど仕方がないのだ。凛太は憧れの先輩で、柚葉は片思い、これまでの当たり前な関係に戻るだけ。
しかし彼はまるで人が変わってしまったかのように──ただ柔らかく、隣で微笑む。柚葉には彼が何を考えているのか、まったく分からない。
「ふふ。上手くなったでしょう、ラテアート」
凛太はデスクに持って来たカフェラテを、柚葉の方へ差し出した。すすす……と近づくカフェラテには、今までになかったハートのラテアート。カップの中に描かれたハートを、思わず凝視してしまう。
「心をこめて淹れました。さあ柚葉、どうぞ」
「は、はあ」
渾身の、ハートのラテアート。その心とは一体、どんな気持ちで……?
観念した柚葉は、そのカフェラテを一口飲んだ。隣から、びしびしと甘い視線を受けながら──
その日から。凛太は来る日も来る日も、柚葉の部屋へやって来た。ピンクのオーラを散らし、手にはハートのカフェラテを持って。
そんな日々が一週間続き……ついに柚葉は堪忍袋の緒が切れた。
「お願いがあります、凛太先輩」
「なんですか?」
勉強が一段落ついた。いつもならこの辺りで凛太はバイトに戻る。ちょうど良いタイミングである。隣でうーんと身体を伸ばす彼に向かって、柚葉は頭を下げた。
「元に戻ってください」
「元に? 戻る?」
きょとんとした表情を浮かべる凛太に、愕然とした。分かっていないのだろうか、自分の豹変ぶりに。
柚葉の背もたれに回る手。やたらと近い顔。勉強中に感じる視線。すべてが、柚葉の集中力を奪ってゆく。
「全っ然、勉強に集中出来ません!」
「どうして」
「私、受験生なんですよ! 好きな人にそんな見られていたら、勉強にならないでしょう! 今、大事な時期なんです! 凛太先輩も花咲大生なら分かるでしょう!?」
柚葉は一気に捲し立てた。
基本、穏やかで素直な彼女。そんな柚葉の苦情に驚いた凛太は、顔を覆って震え始めた。
いけない、強く言い過ぎてしまっただろうか。傷付けるつもりは無かった、でもこのままでは勉強が──
「……柚葉」
凛太が、手のひらから顔を上げた。
その顔は、予想外に明るい。ほんのりと頬をそめた彼は、顔を覆っていたその手で……いきなり柚葉の手をぎゅっと握った。
「ひい!」
「『好きな人』って言いましたね、僕のこと」
「ちょ、ちょっと離れて下さい」
近い。間近にある彼の瞳は光り輝いていて、それが嬉しいことなのだと物語っている。
逃げたい。近い。逃げたい。近い────
「分かりました、柚葉」
「えっ」
「確かに『好きな人』が近くにいては、勉強になりませんね。すみません、浮かれていました」
いきなり物分りの良くなった彼は、勢い良く椅子から立ち上がった。その顔は何となく自信に溢れていて、柚葉がキレる前よりも更に甘ったるい。
「柚葉が合格するまでは、不用意に近づかないことにしましょう。僕は柚葉の『好きな人』ですから」
凛太はハンガーへかけてあったエプロンを手際よく身につけると、「それでは」と微笑んでバイトへと戻っていった。
彼が去ると、先程までが嘘のように静寂が訪れた。
静まり返った部屋に、柚葉の鼓動とため息だけが響いたのだった。