終わりへ向かう、私の恋
一話目だけ、長めです。
日が沈み、野田家の喫茶店にも明かりが灯った頃。
「柚葉。凛太君が勉強見てくれるって」
「はーい」
階下から母が呼ぶ声がした。
母と凛太の軽い会話が聞こえた後、ゆっくりと階段をのぼる足音が響く。その足音は扉の前で止まり、控えめなノックのあとに部屋の扉がガチャリと開けられた。
「こんばんは柚葉。調子はどうですか?」
「こんばんは凛太先輩! 見てのとおり、とっても順調です」
机の上にはよく書き込まれたテキストが山のように積まれ、広げられたノートには所狭しと公式が解かれている。それを前にする柚葉はイスに姿勢良く座り、手にはペンを持って。
「素晴らしいですね。相変わらず熱心で」
「……いえ! べつに、それほどでも」
「べつに? もしかして、勉強をしていたフリ?」
「ち、ちがいます!」
「はは、冗談ですよ」
凛太は柚葉をからかいながらエプロンを脱ぐと、いつものハンガーへふわりと掛けた。そして机の隣、小さな椅子へと腰掛ける。
「では、始めましょうか」
「はい、凛太先輩! 本日もよろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします」
柚葉が軽く頭を下げると、凛太は淡い茶色の瞳を細める。
これが凛太と柚葉、授業開始の合図だった。
野田柚葉の自宅は、母が営む喫茶店。
目の前には名門・花咲大学があり、彼女にとって昔から憧れの大学であった。
当たり前のように高校卒業後の進路は花咲大学を志し、冬には運命の入学試験が待っている。
しかし、柚葉はなんともパッとしない少女であった。元々、成績は中の中。模試の判定も思わしくなかった。
いくら昔から憧れていたとしても、花咲大学へ入学するには正面から入学試験に挑み突破するしか道はない。
柚葉の行き場の無いプレッシャーは、月日を重ねる毎に膨らんでいった。
それを誤魔化すかのように、柚葉は喫茶店の手伝いに勤しんでしまった。心落ち着く香りに包まれ、どんどん上手くなるラテアート。芸術的に進化してゆくプリンアラモード。
喫茶店のスキルとは反比例して、柚葉の成績はみるみるうちに下がっていった。『これはまずい』というところまで成績が落ちた日に突然──凛太が現れたのだ。
『初めまして。アルバイトとして参りました伊勢崎凛太です』
伊勢崎凛太は柚葉より二つ歳上。彼も、柚葉と同じ南桜井高等学校の卒業生だった。在学中からトップクラスの成績をおさめていた彼は、ストレートで花咲大学へ入学した優等生だ。
そんな優等生・凛太が一年前、喫茶店にやってきた──アルバイトとして、柚葉には何の前触れもなく。店先にエプロン姿で現れた凛太に、柚葉は腰を抜かすほど驚いたものだ。
彼と柚葉は、南桜井高校の先輩後輩という関係にあたる。しかし『初めまして』という言葉の通り、二人はその日が全くの初対面であった。それもそのはず、凛太は優等生で、柚葉は凡人。学年だけでは無く住む世界までもが違っていたのだから。
うちはカウンター席が五つ、小さなテーブル席が二セットほどの小さな喫茶店。なのに、アルバイトの募集などしていたのだろうか。もしかすると柚葉が受験生であるため、母が一時的に雇ったのだろうか。
柚葉に代わって店のアルバイトを始めた凛太は、手が空くと柚葉に勉強を教えてくれるようになった。流石と言うべきか……彼の指導はとても分かりやすかった。要点を絞ったアドバイスは効率が良く、そして時には分からない部分まで遡って。
根気よく、やさしい『凛太先輩』。
彼は柚葉にとって救いの神であった。
「柚葉さんも随分と問題のつまずきが無くなってきましたね」
「……ありがとうございます」
「これなら花咲大学合格も夢じゃない」
凛太は模試の結果を一通り眺めて、満足そうに頷いた。
優等生・伊勢崎凛太と勉強を初めて一年。最初は思わしくなかった柚葉の学力も、メキメキと伸びていった。模試の結果も最近ではなかなか良い。このままいけば、花咲大学への進学も現実的であるはず。しかし。
このところ、柚葉の表情は冴えなかった。彼女の前には、凛太が淹れて持ってきてくれた甘いカフェラテ。のぼり立つ湯気を、柚葉はじっと見続けている。
「どうしました?」
様子のおかしい柚葉を凛太が心配そうに覗き込むから、我に返った彼女はあわてて表情を取り繕った。
「え……なんでもないですよ!」
「何か、悩みでも?」
「いえ、そんな、まったく」
「もしかしたら柚葉さん、花咲大学じゃ満足出来ない……?」
「そ、そんなはずありません!」
「分かってます、冗談ですよ」
思わずムキになってしまって、柚葉は慌てて口をつぐんだ。その様子を見る凛太は、おかしげに微笑む。
「すみません柚葉さん、変なことを言って。それでは更に、試験の勉強をしなくては」
「……はい」
「成績が上がるまで、僕もついていますから。一緒に頑張りましょう」
柚葉はノートに視線を落としたまま、彼の励ましに頷いた。
勉強も一段落し、凛太もアルバイトへ戻っていった。柚葉の部屋から、彼の足音が遠ざかってゆく。
部屋には凛太の淹れたカフェラテの香りが残っていて、柚葉はその残り香をすうっと深く吸い込んだ。そして後ろめたさでいたたまれない気持ちになりながら、ベッドへと沈み込み……静かにその瞳を閉じたのだった。
柚葉は時々、夢を見る。
それは春。
学校の校舎に響く喧騒。
三階、一年生の教室。
春風のよく通る窓際。
柚葉の手から、白いメモが飛んでゆく。
風に乗って落ちてゆくメモを力無く見下ろしていると、その階下に上級生達が見えた。その中には、制服姿の凛太も。
メモは偶然にも凛太のもとへと舞い降りた。
メモに気づいた彼が上を見上げたその時に、彼と目が合って────
「! ……あ」
いつも、そこで目が覚める。
この夢を見た朝は、夢と現実の境目があいまいで。しばらくしてからやっと意識がハッキリしてくる。あれは二年も前の出来事だったと。
柚葉はもう三年生。そう、受験生だ。
そして凛太はもうずっと前に南桜井高校を卒業していて、学校を去っていて。
もう会うこともないと思っていた彼が、今は柚葉の家でアルバイトをしている。どちらが夢でどちらが現実なのか、分からなくなるのも無理はない。
しばらくして頭が覚醒してくると、鳥のさえずりも耳に届いて。もう朝なのかと、仕方なく身体を起こす。
ぼんやりと頬を擦りながら一階へ降りると、母もたった今起きてきたようだった。
「おはよう柚葉。早いわね」
「おはよう、目が覚めちゃって」
挨拶を交わすと、母は喫茶店の開店準備を、柚葉は朝食の準備を始める。それが野田家の朝だった。
そうやって柚葉がテーブルに並べた小倉バタートーストをかじりながら、母がおもむろに話を切り出した。
「ねえ、柚葉。試験勉強はどう?」
「え? ……どうって?」
「もう秋だけれど、あと少し、追い込みが必要でしょう? 凛太君も手が空いてる時には教えてくれるけど、もし冬期講習が必要なら申し込んでもいいかなと思ってるの」
「ま、待って!」
とんでもない事だった。この期に及んで塾なんて。突然大きな声を出した柚葉に、母は驚いて言葉を無くしている。彼女はそんな母を気にも止めず訴えた。
「塾には、行きたくないの。次の模試まで待って。必ず良い結果を出してみせるから」
「本当に? 後悔しない?」
「ええ、必ず」
柚葉は大きく頷いた。母は小さくため息をつくと、「分かった」と柚葉を撫でた。
二年前。柚葉は、南桜井高校へ入学してすぐ『凛太先輩』を知った。
『顔も頭も良い先輩がいる』と、友人達が噂していた三年生。それが伊勢崎凛太だった。
彼はとても目立った。陽に透ける色素の薄い髪に、美しい立ち姿。まつ毛に縁取られた瞳は、透き通ったガラス玉のようで……
柚葉は、すぐ彼を見つけることができた。
校舎でも、校庭でも、講堂でも。
目に見える場所ならどこだって。
一年間、彼女は凛太を探し続けた。
それは、ただ遠くから見ていただけの初恋だった。
凛太の卒業後も憧れる気持ちは消えなくて、彼の影を追い求めた。頭の良い青年が出てくる恋愛小説、それを読み漁ったりして。
だから夢のようだった。まさか、あの凛太がアルバイトとしてうちに来てくれたなんて。
凛太に迷惑をかけたくなくて、認められたくて。柚葉はそれまでとは別人のように勉強に取り組んだ。恋愛小説に登場する王子達はスマホの中へ閉じ込めたまま、学校から帰っても勉強ばかり。
その甲斐あって、模試の結果は回を追うごとに良くなった。
同時に、この夢から覚める時を思うたび、彼女の胸はざわめいた。
冬が通り過ぎて、春になったら。
成績が良くなったら……大学に受かったら。
柚葉がまた店に復帰したら、凛太は。
模試を重ねるたび、
成績が良くなればなるほど。
その限りある未来は目前に迫ってくるような気がして──
肌寒い朝。
柚葉はケトルを火にかけながら、壁にかかったカレンダーを眺めた。
母が言っていたように、いつの間にか季節はもう秋だった。こないだまで半袖で過ごしていたような気がしていたのに。
凛太がここのアルバイトを始めたのも、ちょうど一年前の秋だった。そしてそのアルバイトも、おそらく柚葉が受験生の間だけ。
そして受験勉強も、もう追い込みに入ろうという時期だった。次の模試で良い結果を出さなければ、母が冬期講習への申込みをしてしまう。すなわち、それは残り僅かな……凛太との時間が失われるということ。
それだけは、絶対阻止しなければならなかった。
必ず結果を出すと母に宣言した柚葉は、朝から晩まで試験勉強に取り組んだ。それはもう、母がハラハラと心配するくらいに。
その結果、宣言通りこれまでで一番の成績をたたき出したのだ。これで母も文句は言えないだろう。模試の結果が出てやっと、柚葉はやっと胸を撫で下ろしたのだった。
「柚葉さんすごいですね。いきなりこの点数は」
「ありがとうございます! これまで教えて下さった凛太先輩のお陰です」
「何を言っているんですか。柚葉さんが頑張ったからですよ」
凛太は、柚葉の成績を見て自分の事のように微笑んでいる。その顔がどこか寂しげにも見えたのは、気のせいではなかった。
猛勉強した。そして良い成績を出せた。
だから『塾』という選択は無くなって──凛太との時間を、守りきることが出来たと思っていたのに。
「もう僕が来なくても大丈夫ですね」
「えっ……」
彼からは、思いもよらぬことを言い渡された。
そうだった。
柚葉の成績が良くなったら。
凛太が、勉強を教える必要など無いじゃないか。
それは分かっていた。ずっと思い悩んでいたことだった。
なのに柚葉はあまりにも必死だったから、頭の隅に追いやっていたのだ。そのことを。
本来、凛太は大学生で、一日の講義を終えてから野田家の喫茶店までわざわざ来てくれている。凛太はアルバイトという立場で、そもそも柚葉に勉強を教える義理はない。
ここに来る理由が無ければ終わりは来る。
だって凛太は、ただのアルバイトなのだから。
でも。
柚葉の手に持っていたはずのペンが、床に落ちた。
……こんなはずじゃ無かったのに。
突然ペンを落とし動かなくなってしまった柚葉に、凛太は目を丸くしている。
「柚葉さん、どうしたんですか?」
「……」
「柚葉さん?」
「──成績が上がったのは、嬉しいんです。けど」
凛太との時間が持てたのは、柚葉の成績が悪かったから。本当は、しがみついていたかった。その『成績の悪さ』に。
「けど……」
いつの間にか、柚葉の瞳からは涙がぽたぽたとこぼれ落ちていた。ノートに書かれた小さな文字が、涙でじわりと滲んでゆく。
「……こ、これまで、ありがとうございました。先輩が教えて下さったことは、ずっと忘れません……」
柚葉の初恋が、静かに終わりへ向かってゆく。成績が上がるほど、季節が進むほど……その未来が見えてしまう。
覚悟しなければならないのに、気持ちがついて行けなくて。
寂しさと恥ずかしさでぐちゃぐちゃになった柚葉は、もう彼を見ることが出来なかった。
「柚葉さん」
俯き続ける柚葉の耳に、凛太の穏やかな声が届いた。
思わず顔を上げると、凛太は怒るどころか……優しく微笑んでいるではないか。
彼の透き通る瞳と目が合って、涙が止まる。呼吸さえも。
「あなたは、本当に可愛い」
「え?」
「もう来ないなんて、冗談ですよ」
凛太の大きな手が、ペンを落とした柚葉の手をそっと包んだ。ずっと二人きりの部屋で授業をしていて、初めてだった。このような触れ合いは。
「冗談……?」
「はい、冗談です」
「っひどいです! 冗談だなんて」
「すみません、あなたの反応が本当に嬉しくて」
「う……嬉しい!?」
凛太はどうしてしまったというのだろうか。急に甘い空気を纏い始めた彼に、柚葉は思わず及び腰になる。ただ、自身の手は凛太に握られたまま身動きを取ることもできない。
「柚葉さんが花咲に受かるまで、ちゃんと見届けますよ」
「……受かるでしょうか、こんなどうしようも無い私が」
「ではこうしましょう」
「な、なんでしょう」
彼はとても良い笑顔で柚葉の手を握り直した。この空気についていけていない柚葉が、ただ凛太の言葉を待っていたら。
「無事合格したら……僕の恋人になって下さい、柚葉」
「え……、は、はい?」
柚葉は耳を疑った。
聞き間違いで無ければ、彼の口から『恋人』という単語が飛び出してきたのだが。
「り、凛太先輩、冗談ばかりやめて下さい」
「冗談だと思いますか?」
そう言って柚葉を覗き込む凛太の瞳は、からかっているようで、真剣なようで……
柚葉には分からなかった。彼の本意など。
睫毛が触れ合うほど距離が近くなったかと思うと、凛太は柚葉の頬へ優しくキスをした。
柔らかなものが一瞬、頬へ触れた。
柚葉は、彼に何をされたのか理解するまでに時間を要した。一体、凛太は今、何をしたというのだろう……
混乱している柚葉をよそに、顎に添えられていた彼の指も、そっと名残惜しそうに離れてゆく。
「ずっと、見ていたでしょう」
柚葉の耳元で、凛太が静かに囁いた。
彼の吐息が、耳にかかる。あまりの羞恥に我慢出来なくなった柚葉は、思わず手を振り払って距離を取った。すると彼はクスリと微笑んで──
「合格通知が楽しみですね、柚葉」
そこにあったのは、いつもの優しい『凛太先輩』の顔では無かった。
目の前にいるのは柚葉の知らない『伊勢崎凛太』……含みを持たせて笑う、よく分からない人。
呆然とした柚葉を残したまま、凛太は部屋を去っていったのだった。
誤字報告をありがとうございました!
(´;ω;`)いつもすみません。