ゾンビに沈んだ世界でメイドと過ごした最後の一週間
その時の僕は世界で起こったゾンビパニックをどこか遠いできごとだと思っていて、その波が足元に迫るまで全然気づけないでいた。
両親が噛まれて襲いかかってきた時にもまだ他人事感が抜けなくて、メイドに腕を引かれて屋上に逃げるまで、まだぼんやりしたままだった。
うちのメイドは美人で優秀だ。
でも、どことなく陰を感じさせる瞬間がある。
それはこのあたりがわりと物騒で、父さんが彼女を拾って来た時に、彼女が血塗れだったところからイメージされたのだろう。
「坊ちゃん、あたりは『やつら』に取り囲まれています」
極めて落ち着いた口調でそう述べられたもので、僕はぼんやりしたまま『そうなのか』とだけ思った。
いまだに事態に思考が追いついていない僕とは正反対で、メイドはとても冷静で、そして備えもきちんとしていた。
「ここから何日か耐えましょう。きっと、本国が助けのヘリを飛ばしてくれるはずです」
それから屋上にテントを張って暮らすことになった。
屋敷の中にはもう『やつら』があふれていて、もう二度と階段室の鉄扉を開けられないだろうなと予感させるのに充分だったからだ。
メイドはそのあいだも僕の世話をしてくれた。もう、僕に尽くして彼女に利点なんかないだろうに、それでも尽くしてくれた。
数日経ったころ、ようやく事態を理解し始めた僕は、メイドにたずねた。
「どうしてそんなに尽くしてくれるんだい? お前にあげられるものなんか、僕にはないのに」
「すでにいただいたぶんをお返ししているのですよ」
「それは、父さんがお前にあげたものではないのか?」
「いいえ、あなたにいただいたのです」
日々が過ぎていった。
もうこのあたりに生き残っているのは僕らだけなのかもしれない。昼夜を問わずに響き続ける『やつら』の声は僕らの心を常に引っ掻き続けたし、減っていく食料と、シャワーも浴びられない暮らしは僕を不安にさせた。
だが、耐えたかいがあって、見覚えのある紋章の描かれたヘリがおとずれた。
ヘリは地面に降りず、縄梯子だけを僕らに伸ばした。
助かる――そう思った。
同時に閉じてあった鉄扉が開き、屋上に『やつら』が溢れかえった。
一足先に縄梯子を登らされていた僕は、メイドに手を伸ばす。
「早く!」
「いいえ、間に合いません」
僕は叫んだ。その内容は「どうしてそこまで尽くすんだ」というものだった。
これまで誠心誠意尽くしてくれたメイドを見捨てたくはなかった。
メイドはいつになく穏やかな笑顔を浮かべて、答えた。
「わたくしは、ぼっちゃまに、喪った弟の幻を見せていただいていたのです」
『ヤツら』が雪崩のようにメイドを飲み込み、ヘリはこれ以上待てないとばかりに高く飛んだ。
離れていく僕らの邸宅と、そこにあふれる『ヤツら』の姿は、脳裏に焼き付いて永遠に離れることはないだろう。
安全な場所にたどりついて、メイドとの暮らしを思い出す。
その生活は追い詰められていて、不安だらけだったけれど、たしかに、楽しかったように思えた。
たぶん僕らは、互いに、幻を見せ合っていたのだろう。
メイドは僕に『弟』という幻を見て。
僕はメイドとの暮らしの中に、『平和』という幻を見ていた。
……世界はどんどん、『ヤツら』に飲み込まれている。
僕は大人になるまで生きられるかわからない。
けれど、もしも成長できたら、きっと、目を閉じるたびに思い出すだろう。
最後に見た、平和な光景。
最後まで僕に弟の幻影を見たままだった、彼女の笑顔。