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明央高校2年7組  作者: 門倉 礼
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第2話 桂木家の決斗

「失礼します」

 職員室の扉が透き通った声を無理やり低くしたような声とともに開かれた。扉付近にいた教師たちは首だけを来訪者に向けようと動かす。

 女子生徒が表情の読めない――どちらかと言えば不機嫌に見える顔で突っ立っていた。何人かの教師たちは、自分が幻でも見ているのではないかと目をこすった。無理もない。女子生徒は職員室とは無縁な、もしくはよっぽどマズイ事態が起きなければ来訪することもないような人物だったからだ。

 「……。風見先生はいらっしゃいませんか? 明日の授業の準備が聞きたいんですけど」

 扉のすぐ近くに席を持つ教師が話しかけられる。身構える教師に放たれた言葉は、しかし丁寧なものだった。

 「あ、あぁ。風見先生なら理科準備室じゃないかな。彼、いつも昼はそこで食べてるみたいだから」

 言いながら、教師はきれいに整頓された机を視線で示した。

 「いや。ほ、ほとんど準備室にいるかな。ここには朝とか夕方くらいにしか顔を出さないから」

 「そうですか、ありがとうございます」

 ぺこりとほとんどわからないくらいの首の上下運動で礼を告げると、女子生徒は職員室を後にした。

 「桂木が……、職員室にくるなんて」

 「しかも、授業の準備だって?」

 「風見先生、何かやらかしたんじゃないの?」

 何れにせよ、よからぬ問題だけは起こらないでくれと教師たちは願った。


 昼休みでざわつく廊下を瑞穂は歩いていた。職員室にいるとばかり思っていたのにわざわざ三階の理科準備室に行かなければならないなんて。いきなり出鼻をくじかれた気分、二度手間もいい所だ。

 二階の廊下から吹き抜けの一階ホールを横目に見ると、生徒たちが各々の弁当を広げ少し遅い昼食に興じている。楽しそうにお喋りをしながら、互いの弁当をつついているのが見えた。

 瑞穂は今日も一人で弁当を食べた。別に相手がいないわけではない。桜子とは、いつも一緒に昼食をとっていたが、当の彼女はいまだに入院中だった。でも、あと数週間で退院できるような話だったから、遠からず弁当をつつきあえる日が来るだろう。

 吹き抜けの空間を抜けると廊下の交差点に行き当たる。右に行けば渡り廊下を抜け教室のある棟へ、左に行けばまた別の棟へ、まっすぐ進めばコンピュータ室があり、その向かいには階段があった。

 階段に近付くと、小さな窓から光が差し込み薄暗い廊下を照らしているのが見えた。階段に足をかける。ちょっとした違和感、軽度の筋肉痛が足に走る。昨日の今日だ、身体の方はまだ回復していないようだった。

 男たちを相手に立ち回りを演じ、気絶させられ、縛られて――そして助けられて。昨日のことはまるで夢物語のようだった。のんきそうに階段を駆け下りていく生徒たちを横目で見ながら、その思いはなお一層強まるものだった。日常の裏側、夕方の先。ネオンの煌めく街の向こうは、瑞穂が思っていた以上に濃い暗がりが広がっていたのだ。薬を使ってまで強くなろうとする者たちがいる。集団でよってたかって少女を襲おうとするやつらがいる。自分の武力がいかにか細いか、未熟だったか。ずいぶんと思い知らされた夜。そして、一人の男にずいぶんと聞きたいことができた夜だった。

 ここ明央高校の卒業生であり、理科教師のその男がいなければ瑞穂はどうなっていたかわからない。風見京一郎。のんきそうな面構え、武力とは無縁そうな物腰の男が生み出した戦いの壮絶さ。しかも使う体術は瑞穂の家のそれと酷似していた。そして、きっとその男は――。

 階段を昇り切り、瑞穂は三階にたどり着いた。生徒たちの姿もなく、静寂と薄暗がりが廊下に満ちている。どこかカビ臭さを感じるのは、理科室のせいだろう。いや、別に理科室が悪いわけではないけれどなんとなく雰囲気的にそう感じてしまうのだ。

 第一実験室と第二実験室の間、教室の半分ほどの大きさの準備室の扉に手をかけ瑞穂は勢いよく開いた。

 「失礼しま――」

 扉が開かれたのと、準備室の奥で奇妙な音と煙が立ち上ったのは同時だった。思ったほど薄暗くない準備室の窓際で白衣姿の男がわたわたと気忙しく動き回っている。やれ調合が間違ったか、やれ加熱時間が過剰だったと大騒ぎだ。

 「何やってんの、先生」

 ボソッと呟く声に、白衣の男――風見京一郎はビーカーを持ちながら振り返った。

 「桂木さん?」

 瑞穂の姿を認めると京一郎はちょっとだけ驚いた顔をした。ゴポゴポと音を立てるサイケデリックな色をした液体入りのビーカーを机に置くと、悪戯したのを見つかった子供のような顔で笑う。

 「昨日は、その、大変だったね。どこか、調子悪いとことかない?」

 「おかげさまで、ちょっと筋肉痛なだけ。それより、何やってんの」

 酸っぱいような甘いような正体不明な匂いも漂ってきた。京一郎は慌てて窓を開け換気を促している。

 「栄養ドリンクでも作ろうかと思ってね。僕も久々に妙な動きをしたもんだから疲れちゃって」

 言いながら軍手のはまった右手でビーカーを左右に振ってみせる。

 「ちょっと待って。確認のために聞くけど、その奇妙奇天烈な色をしたものがまさか栄養ドリンクっていうんじゃないわよね」

 「はは、ご明察。正確には分量と時間を間違った成り損ねだけど。いやー、うろ覚えで適当に作っちゃったのがいけなかったなぁ。失敗、失敗」

 てへっと舌を出したなら鉄拳制裁でもくらわせてやりたくなるようなさわやかな顔で京一郎は言い放った。

 呆れた瑞穂が準備室を見渡すと、どうやら京一郎は栄養ドリンクとやらだけを作っていたのではないということがわかった。

 別の机の上では沸騰するビーカーの中に何匹かの小魚――おそらく学校裏の川産――が見え、傍らの皿の上には雑草――そうとしか見えない――がひしめき合っている。

 時刻はお昼休みの真っ最中。まさかとは思ったが、瑞穂は聞いてみる。

 「その得体のしれないのはなに?」

 「昼飯、だけど」

 あぁ、予想通り過ぎる答え。瑞穂は軽い頭痛を感じる。

 「どこの世界にそんな珍妙な飯を食べる教師がいるのよッ。ここ日本よ、なんでそんなにサバイバルなのッ」

 「いや、そんなに興奮されても」

 「してないっ。っていうか呆れてるだけよ」

 別に瑞穂がどうこう言う義理はないのだが、あまりに準備室とはかけ離れた光景につい口が出てしまう。

 「地産地消の実験も兼ねた昼食だよ。ほら、この魚もこのサラダも全部学校の裏から採取したもので、いざっていうときにも」

 サラダ、その雑草が? 冗談は得体のしれない栄養ドリンクだけで済ませてほしい。

 「だったら、そのいざって時に食べればいいじゃない」

 京一郎はふっと悲しそうに笑った。

 「まぁ、そうなんだけど。でも、ことは緊急を要していてね。実験が生きる糧になっているというか、やむにやまれぬ事情というか」

 あぁ、つまり。瑞穂は理解した。

 「今がその時なのね」

 「Exactly!」

 両手をパンッと叩くと京一郎は天上を、正確には天井を仰いだ。

 「次の給料日がやけに遠いぜ」

 ニヒルな笑いの向う岸にどうしようもない哀愁が漂っている。

 「それにしても、これはひどいわ」

 京一郎がサラダとのたまった草の盛り合わせを眺めて瑞穂は呟く。

 「何これ、タンポポの葉っぱ?」

 「意外とイケるんだよ。なんなら味見する?」

 「結構です」

 きっぱりと言い切って瑞穂はあからさまにため息をついた。

 「こんなのばっかじゃ栄養偏るじゃん」

 「たまに飲みに連れて行ってもらえるからその時にまとめて食べてるから大丈夫」

 居酒屋でひたすらに鳥の唐揚げやらその他もろもろのタンパク質の塊を貪る京一郎の姿が目に浮かんでくる。だめだ、この人。早くなんとかしないと。

 「……ねぇ」

 「はい?」

 「お弁当作ってきてあげよっか?」

 「はい?」

 時が止まった。

 ゴポゴポと沸騰する魚入りビーカーの音だけがやけに耳に聞こえてくる。

 「桂木さんが?」

 確認するように言う京一郎を睨むように瑞穂は言葉を放った。

 「か、勘違いしないでよねッ。昨日助けてもらったお礼ってだけなんだから」

 や、そこで何で顔が赤くなるんだ、私。てか、なんでそんな提案してるんだ、私。瑞穂は慌てて顔を窓の外に向ける。

 「いやなら別にいいんだからッ。ただ一人分作るのも、二人分作るのも大して変わらないってだけよ」

 後ろをチラッと振り返ってみる。

 「あ――」

 京一郎は心底嬉しそうな顔をしてそこに立っていた。

 「ありがとう」

 嬉しすぎて泣き出してしまいそうな顔。どれだけ悲惨な食事をしてきたのだろうか。ちょっと本気で瑞穂は心配になってきた。

 「どうぞ」

 京一郎からマグカップを手渡され、瑞穂は中を睨むように覗き込んだ。褐色の液体が八分目ほどまで入っている。湯気とともに芳しい香りが漂ってきて、瑞穂はふっと気が緩んだ。だが、すぐに顔を振り中の液体を再び覗き込む。

 「ただのコーヒーだよ」

 京一郎はマグカップを覗き込む瑞穂の様子に苦笑する。

 そう、それはきっとただのコーヒーなのだろう。色、香り、どれをとってもドリップしたコーヒーに相違はないはずだ。だが、抽出までの一部始終を見てしまった瑞穂にとっては、それがただのコーヒーにはとても思えなかった。

 「ビーカー」

 「ん?」

 「ビーカーと漏斗で抽出したコーヒーなんて初めて」

 変な薬品が入ってたらどうしてくれるんだろ。いや、そもそも備品を使ってコーヒーを淹れるのはマズイんじゃないだろうか。そんな瑞穂の心配をよそに京一郎は自分の分に口をつける。

 「どんな器具を使おうとコーヒーはコーヒーさ。味は保証するよ。いい豆を使ってるから淹れる人間が下手でも美味しいんだ」

 意を決して瑞穂はマグカップに口をつけた。ふわっと香ばしい苦味と酸味が口に広がり、鼻を抜けていく。

 「おいしい」

 京一郎の言うとおり、おいしいコーヒーだった。

「インスタントもいいけど、やっぱりドリップしたものは一味違うよね」

「普通に淹れてくれたらもっと美味しくなったと思うけど」

 文句を言いつつ瑞穂はコーヒーを喉に流し込んだ。ビーカーとかは別にして本当においしいかもしれない。

 無言でコーヒーを飲む時間が過ぎた。言いたいことは山ほどあったのに、いざ本人を目の前にすると瑞穂は話を切り出すことができなかった。

 がやがやと静かな廊下が騒がしくなってきた。

 「あ、授業があったんだ」

 マグカップの中身を飲み干すと京一郎は慌てて机の上から教科書やらファイルやらを取り出す。

 「ごめん、桂木さん。もしなんか話があったんなら放課後また来てよ。大概、僕はここにいるから」

 京一郎の姿が扉一枚隔てた実験室へ消えていった。時間もちょうど授業が始まるくらいだ。

 「二度手間どころか、三度手間じゃん」

 ぶつくさ文句を言ってコーヒーを飲み干す。言うほど不機嫌な感じがしないのはきっとコーヒーが美味しかったからに違いない。んっと背伸びをすると瑞穂は準備室を後にした。



 携帯電話の小さな画面の向こうに、白衣姿のアレックスがいた。癖っ毛のある金髪をくるくると指で弄んでいる。

 「寝るつもりはなかったんだぜ。でも、その。すっごく眠くて――」

 先日、サポートしてやるといった手前途中で眠ってしまったということに負い目を感じているのか、伏し目がちに視線を京一郎へと向けていた。

 「それだけ信頼されているんだから光栄だよ、リトルボス」

 気にしてなどいないと京一郎は笑って見せた。一切合切に線を引くエージェントの笑みではない。正真正銘、京一郎という人間の感情を込めた表情にアレックスはどこかホッとした顔を浮かべた。でも、すぐにまずいことになったといった顔で口を開く。

 「うん。でも、キョウイチロー。もしかしたら、天文台の誰かにキョウイチローとの通信を見られたかもしれない」

 アレックスが目を覚ました時、その背中には服がかけられ、京一郎との通信は待機返答に切り替えられていた。

 「あたしの研究室に入ってくるのはおじいちゃ……。いや、天文台長くらいだから。だからたぶん」

 「これだけ元気そうだから、すぐに台長直通の復帰催促状が来るんじゃないかって? なんだ心配してくれるのかい」

 「別にそんなんじゃないよッ。ただ本調子じゃないエージェントなんて天文台でもお荷物だから、身体が治るまで療養してればいいんだ。それなのに変なことに首を突っ込むから。身体が治ったと勘違いされて、マーズの思い通りにお前、すぐにどっかに飛ばされちゃったらどうするんだよッ」

 「マーズも鬼じゃないさ。それに身体の方は完璧な仕上がりだよ。もう、くだらないことで他人の、自分の命を粗末にする気は毛頭ない」

 最後の方は強い口調になってしまった。京一郎が気づいた時にはアレックスは申し訳なさそうな顔でこちらを見ている。

 「ごめん。別に怒ったわけじゃないんだ。あれは誰が悪いということじゃないんだから」

 フラッシュバック。

 轟音、炸裂、衝撃、火柱。

 燃え盛る炎の中で、自分を担ぐ人影。

 二人の実測距離に相当するような長い沈黙が画面越しに横たわった。

 「師匠は……、総司さんは元気?」

 「えっ」

 アレックスは一瞬驚いた顔をした。何せ、沈黙の大きな原因となっているであろう人物の名を出されたのだから無理もなかった。うん、と頷くとアレックスは静かに口を開いた。

 「元気だよ。相変わらずよく笑う。本当にお前にそっくり、いや、お前があの人と似てきてるんだな」

 「そうか、そうかもしれない」

 京一郎は少し寂しそうに笑った。

 そんな笑い方まで似なくてもいいのに。アレックスは画面の向こうで小さくため息をついた。

 「そのうちソウジと連絡が取れるようにしてみる。リハビリ中だから、いろいろ無理は出来ないけど」

 「あぁ、今度天文台に戻るときには美味い団子を差し入れするって伝えてくれ」

 「わかったよ。で、あたしには報酬何もないのかよ?」

 「なんだよ、口座にならちゃんと振り込んだぞ。安月給なんだ、あれが精一杯だぜ?」

 「……そういうことじゃない」

 アレックスの呟きは、しかし盛大に戸の開かれた音によって遮られた。

 「っ、悪いアレックス。また後で連絡するよッ」

 「あッ、キョウイチロー」

 携帯端末をオフにするのと、瑞穂が準備室に入ってくるのはほぼ同時だった。

 「携帯に向けてブツブツつぶやいて何やってんの? 先生」

 「や、ただの独り言だよ?」

 「……可哀そう」

 ぼそっとひどいことを言われたが、言い訳をするものでもない。京一郎は何事もなかったかのように携帯を閉じた。

 「で、どうしたの?」

 「話があるなら放課後来なさいって言ったのは先生でしょ」

 「あぁ、そうだったね。で、話って?」

 近くの丸椅子を引っ張ると瑞穂は静かに腰かけた。通学カバンを床に置き、ジッと京一郎を見ている。

 「……コーヒーいる?」

 「先生は」

 京一郎を遮って、瑞穂は口を開いた。

 「先生は何であんなに強いの?」

 違う、聞きたかったのはこんなことじゃない。なのに、瑞穂の口から出たのは知りたい答えへ回り道をするための言葉だった。

 「強くなんかないさ」

 「嘘。じゃあ、昨日の先生は先生じゃないって?」

 次々と倒れていく男たち。穏やかに無慈悲にふるわれる体術の数々。目の前の男が起こしたとは到底思えない、しかし確かな現実。

 京一郎は否定も肯定もしなかった。ただ腰を上げると、コーヒーを入れる作業に取り掛かっていた。

 「先生ッ」

 「昨日のことは、忘れた方がいい」

 ガスバーナーに火をつけながら京一郎は言った。

 「あれはただの夢だったんだ。夜の暗闇ってのは君が思っている以上に暗く、深く、淀んでいる。だから、夜の街で危険なことはもうしないほうがいい。いくら冥王でも、ね」

 振り向いた京一郎の顔は悪戯っぽく笑っていた。予想だにしなかった言葉に瑞穂は面食らった。ジャブを打っていたらいきなりアッパーを食らったかのようだ。

 「なんで、そんなこと」

 「昨日の連中が言ってたんだ。まだあったなんて、驚いたよ」

 確信が向こうからやってくる。ならば正面から堂々と言ってやればいいではないか。瑞穂は小さく息を吸うと、まっすぐに言葉を乗せて吐き出した

 「先生は……、冥王だったの?」

 昨晩からの疑問。瑞穂の胸を締め付けるもの。聞いてしまったら自分の中の何かが変わってしまいそうな不安。一瞬のうちにすべてを含ませた問い。

 「……」

 京一郎はまた、否定も肯定もしなかった。粛々とコーヒーを淹れる作業が続けられ、ただ時間だけが過ぎていく。

 「どうぞ」

 渡されたコーヒーに目を向けず、瑞穂はただじっと京一郎を見つめていた。

 

 Trrrrr

 

 沈黙を破って内線が鳴り響いた。



 残照が街のネオンと入り混じる。赤々とした陽を飲み込むように、人工的で無機質な光が街を覆っていく。駅に吸い込まれるような人々、駅から吐き出されるような人々。一瞬に交差する有象無象の中を、二人は歩いていた。

 通学用の自転車を引くのは桂木瑞穂だ。押し黙り、ただまっすぐに前を見据えて歩いて行く。その傍らには、同じく押し黙り歩く風見京一郎がいた。街のメインストリートを抜けひたすらに歩き続ける。いくつかの住宅街を抜ける頃には、空は赤みを失いただ深い濃紺を漂わせていた。

 「結構あるんだね、駅から」

 「自転車ならすぐよ。別にあとからあの馬鹿でっかいバイクでくればよかったのに」

 なんであたしも歩かなきゃいけないのよ、小さく呟く声が響く。苦笑いを浮かべ京一郎は答える。

 「アレは、いろいろ目立つんだよ。流石にこう教師としては、世間体的にマズイものが」

 「親父殿はそんなの気にしないし、あたしには先生が世間体を気にしているようには見えないけど。フリをしているだけでしょ、普通の」

 「……まいったね、どうも」

 京一郎は頭をかきながら、そう言えばこのフリはいつから癖になったのだろうかと考えていた。

 いくつめかの住宅街を抜け、いくつめかの寂れた商店街の片隅に瑞穂の家はあった。二階建の建物の一階部分は駐車場で二階部分に練習場がある。明かりは消えていたが、二階のガラス窓にはテープか何かで「桂木総合格闘塾、入門者募集中」と書かれているのが見て取れた。

 「道場は裏だから。たぶん、親父殿もそこにいると思う」

 建物の裏を回ると、ひと際大きな敷地が広がっていた。日本家屋と道場らしき建物が目につく。手入れされた木々が商店街の明かりを遮るのか、街中にありながら周囲は暗闇に包まれている。道場から漏れる慎ましげな照明だけが、申し訳なさそうに存在を証明していた。

 冷たい板張りが、二人分の重量に軋んだ。よく磨かれた床がほのかな明かりを反射している。瑞穂が道場と呼んだその建物の中心に、その男はいた。目を閉じたまま入口を見据え、口を真一文字に結び坐している。体躯はそれほど大柄ではなかったが、紺色の道着越しでも雄大な筋肉をたたえているのが見て取れた。

 男が静かに目を開いた。体つきからは想像できない、拍子抜けするほど柔和な瞳。同時に真一文字に結ばれた口が綻んだ。

 「おかえり」

 「ただいま」

 低いがよく通る声と、気だるそうな透き通った声。幾度となく交わされたであろう父と娘の会話。

 「先生、連れてきたから」

 男は頷くと立ち上がり、京一郎へと深く会釈をした。

 「急な呼び出しをしてしまい申し訳ありません、風見先生。あぁ、お初にお目にかかります、瑞穂の父の勇です。日頃は娘が大変お世話になっております」

 京一郎もまた深く会釈をした。

 「風見京一郎です。その、まだ赴任してから日が浅いもので色々不慣れなところはあるかと思いますがよろしくお願いいたします」

 なるほど、これがステレオタイプというやつだな。瑞穂は二人の男の交わす会話を横から眺めそんなことを思っていた。

 「立ち話もなんですから、こちらへどうぞ」

 道場から母屋へ移り、京一郎は居間へ通された。よく整理された居間は埃一つなく、京一郎は思わず自分の部屋を思い出し内心で苦笑した。

 「はい」

 スッとお茶が差し出される。手慣れた所作の瑞穂は勇の前にもお茶を置いていた。

 「驚いた」

 普段、といってもここ一日の瑞穂の言動、行動からして家庭的にお茶を入れている姿が想像できない。

 「……何か文句でもあるの?」

 「意外性のギャップというか」

 ジロッと瑞穂に睨まれて京一郎はポリっと頭をかき笑った。

 「瑞穂、やめなさい。申し訳ないですな、風見先生。男手一つで育てたものですから、どうにも女の子らしさがないというか」

 「わかってるじゃないか親父殿。そういう風に育てられたからそういう風にしか生きられなくなったんだ。でもあたしが居なかったらこの家は三日で廃墟だ、断言したっていい」

 男勝り、しかし家庭的ということをさりげなくアピール。ただし自覚なし。まぁ、私より家庭的な従兄弟もいるが、今はここを出て一人で暮らしている。と言うことはつまり、私が今この家で一番家庭的な人間ということで問題ないだろう。

 「仲がいいんですね」

 にっこり笑う京一郎。アピールを受けている自覚なし。瑞穂は意識の外側でなぜかムッとした。何故ムッとしたのか理解できず、それにもムッとした。いかん、連鎖反応だ。

 「じゃ、あたしは部屋に行くから。あとは勝手に話して」

 スッと軽やかに居間を出ようとする。少し居心地が悪く、できるだけ素早く。聞きたいこと、日中の質問の答え。それはまた先延ばし。安心、けど釈然としない気分。

 「瑞穂」

 響く親父殿の声。どっしりと静かに瑞穂の背を捕らえる。

 「ここにいなさい。お前の話でもあるんだ」

 渋々と瑞穂は座卓の隅に正座した。着替えくらいさせてくれたっていいじゃない。言おうとしたが、場に張りつめつつある空気に結局うやむやにされてしまう。

 「昨日は」

 勇は京一郎へ向きなおり、深々と頭を下げながら言った。

 「昨日は娘を助けてくださり、本当にありがとうございます」

 「え、あの」

 事態を飲み込めず京一郎は瑞穂へと視線をやると彼女自身も小さく頭を下げていた。

 「教師として当然のことをしたまでです」

 京一郎も頭を下げ言った。いや、でも普通の教師は生徒が捕まってるのを見たからって、バイクでアジトへ強襲はしないだろう。警察へ通報が関の山だ。もっともな思考がチラつくが、この際どうでもいい。

 三人は同時に頭を上げた。京一郎は瑞穂へ向け口を開く。

 「昨日のこと、お父さんに話されたんですね」

 「家訓よ」

 「はい?」

 「家訓の一つ。重大事項は包み隠さず話すこと」

 「なるほど」

 確かに昨晩の出来事は重大事項だ。ともすれば警察沙汰、新聞沙汰だ。しかし、だからと言ってあんな目にあったことを平然と話せるというのだから、大した家庭環境だと京一郎は感心する。

 「娘が夜の街で、喧嘩に明け暮れているのは知っていました」

 知ってたんかいッと京一郎がツッコむ前に勇は話を続ける。

 「家訓ですよ。自身を脅かすものがいるのならば、己の保持する最大戦力で立ち向かえ。私は不器用な親ですから娘に教えられることと言えば、自分の身を守る術くらいなもの」

 普通に暮らしていくには必要にして十分、過剰にすぎる程の瑞穂の武力。それは確かな親心の産物。

 「瑞穂に付きまとう称号も、この子の糧に為るのならそれも良しと思っていました」

 称号。脈々と受け継がれた学生たちの悪ふざけ的ネーミング、最大武力を誇る明央高校の生ける伝説――冥王。

 「そんなことまで知ってたんですか」

 「格闘塾なんてものをやっていると、結構耳に入ってくるものなんですよ」

 お茶に口をつけ勇は続けた。

 「しかし、まさかこんな事態になるとは思ってもいませんでした。この街の闇がそれほど深いなど思いもしませんでしたから。すべて10年前、初代冥王と呼ばれた存在が夜の闇を払いのけたと聞いていたのです」

 瑞穂はふっと京一郎に視線をやった。京一郎は何の反応も示さず、ただ親父殿の話を静かに聞いていた。

 「今後については、娘とよく相談しようと思いますので。何とぞ、先生におかれましてはこの先もよろしくお願いいたします」

 また深々と頭を下げられ、京一郎もそれに倣った。

 頭をあげると、待っているのは沈黙だった。静止した時間の中で、京一郎はようやくお茶に手をつけ、喉を潤した。

 「時に、風見先生」

 ピクっと京一郎は違和感を覚えた。茶碗に口をつけたまま、視線を勇に向ける。柔和そうな目は相変わらず。だが、その奥の瞳にちらつく違和感の塊。朗らかな口は相変わらず。だが、その奥の口腔にちらつくのは違和感の塊。外身をそのままに中身が徐々に入れ替わっているような錯覚。

 「なんでしょうか?」

 「先生も武術を嗜んでいると聞きましてね」

 京一郎はハッと瑞穂へ視線をやった。瑞穂も半ば驚いた顔をして勇を見ている。確かに私の家の体術と似ている、そう伝えた。その時は、ただ親父殿は軽くうなずいただけだったというのに。でも、今の親父殿には違和感がある。そう、違和感のある笑顔がある。

 「知っているかとは思いますが、私どもの家もある体術を伝えていましてね。昨今の事情から、総合格闘技という看板を掲げてはいるんですが」

 表はジム、裏には道場。時代のニーズと、受け継がれし武術。その融合。

 「その、興味があるんですよ、先生。先生の使うという体術に」

 「私はそんな」

 「少しでいいのです。ほんのちょっとだけ、立ち会ってもらえれば私の武術家としての好奇心も満たされます」

 強引さを感じさせない、決して強要はしない。しかし、断れない空気を作り出し勇は立ち上がった。


 素足を通して板張りの冷気が伝わってくる。しっとりとした夜の空気に、道場特有の凛とした空気が混ざり合う。

 立ち合う二つの影。見つめる一つの影。

 「道着はよろしいんですか?」

 「これで大丈夫です」

 上着を脱ぎワイシャツ姿の京一郎と、紺色の道着の勇が道場の中心で言葉を交わす。

 「結構。先生、手抜きは厳禁です。本気でお願いしますよ」

 「はぁ、わかりました」

 瑞穂は困惑していた。何がどうしてこうなったのか。親父殿も親父殿だが、先生も先生だ。断ればいいのに。どこまで人が良いのだ。でも、どこかで期待もしている。謎、先生の使う体術と私の使う体術とが似ている理由。それが解けそうな予感。

 構える勇。自然体の京一郎。しっとりとした夜の空気に道場特有の凛とした空気が混ざり合い、勇が小さく息を吸い、京一郎が小さく息を吐いた時。

 道場の空気は発火した。

 恐るべき速さで繰り出された右拳の突き、勇。驚きに目を見張り、右頬を掠めていった者の正体を知る、京一郎。

 つっと滴るものが、京一郎のワイシャツに赤い染みを作った。

 「速いですね」

 「速いですな」

 互いの感想、称賛。

 「親父殿の紫電を、避けた?」

 瞬間的に加速された右拳突き。流派くずしろに伝わる基本にして奥義が一つ「紫電」。

 「でも、まだまだ本気じゃないですね、先生」

 迫りくる今度は左拳。顔面めがけて迫るそれを避ける京一郎、紙一重。

 「がっ」

 紙一重の一重を超えて、伸びきった勇の左腕が急速にしなり京一郎の右側頭部を強襲した。

 吹き飛ぶ京一郎。衝撃に細見の眼鏡が外れ、床を転がる。

 「先生ッ」

 「心配なく、伊達ですよ。それ」

 「そうじゃなくてッ」

 口を拭い、京一郎は立ち上がった。また、ワイシャツが汚れてしまった。クリーニング代がもったいない。

 「風見先生」

 わずかな攻防に勇は失望の色を露わにした。

 「なぜ、真剣に立ち合っていただけないのですか? これではただの殴り合いです」

 「ただの殴り合いじゃないんですか?」

 「先生は本当にそれを望んでいらっしゃるとでも?」

 「私はそもそも一流の方と立ち合いできるほどの実力なんてないですよ」

 「嘘は好きではありませんな」

 勇は京一郎を睨んだ。

 「な、にを言って?」

 世界が変質する。

 「え?」

 ただの一睨みが世界を変えた。

 違和感の正体が勇の目の奥から口の奥からはい出してきた。

 平和大国、日本。その片田舎の道場が変質する。

 吹きすさぶ嵐が荒涼とした大地を舐めまわす。漂う血と硝煙の臭い。大地に満ちる怒号と、淀んだ空の悲鳴。戦場の最前線。

 京一郎は目を擦った。

 冷たい板張りが広がっている。そう、やはりここは片田舎のただの道場なのだ。しかし、視界の隅に異変。ぺたりと座りこむ瑞穂。全身が震え、驚きの表情。

 京一郎は自らの血が沸き上がるのを感じた。

 「やはりね、先生」

 勇は満足そうに、しかし射抜くような視線で京一郎に話しかけた。その様子を見て、座りこんだ瑞穂は恐る恐る声を絞り出す。

 「親父殿――?」

 「怖がらせてすまない、瑞穂。だが、ちょうど良い機会だ。ちゃんと話しておくべきだな。だいぶ遅くなったが家訓を守ろう」

 構えを取ったまま、勇は京一郎を見据えた。

 「どうですか、風見先生。最前線の心持は?」

 「信じられません。夢なら醒めてほしいくらいだ」

 日本に来てから味わうことのなかった感覚。味わうわけもない感覚。

 戦場本線、最前線駅前、死線ストリート。

 繰り出される見知った技の数々。

 再び攻防が始まる。

 「先生は紛争地帯に赴いたことは?」

 京一郎は答えない。ただ技が業となる瞬間を見極め避けしのぐ。

 「若い頃、私はそこにいました。民族同士の主義主張、ぶつかり合う先は血で血を洗う血闘の日々。愚かでしたよ、私は、私たちは。己の力を、武力を過信し英雄にでもなろうとしていた。だが、私たちの非力な慢心は、戦場の現実に一発で叩きのめされた」

 技が業となる。人を倒すためだけに鍛えられた業物。拳が、脚が、大業物となり京一郎を襲う。

 「戦いの日々。この国では決して知ることのできない世界の暗がりの中で彼らを知り、戦場を知った頃、彼らは私たちを東洋から陽をもたらすお節介共『ライジング』と呼ぶようになりました」

 「ライジング?」

 京一郎の脳裏を掠める顔。あぁ、なんてことだ。こんな冗談があるだろうか。納得はできるが、本当に悪い冗談だ。

 「ライジング・イサミ」

 京一郎の口から単語が発せられるのと、勇が京一郎のネクタイを掴み背後に回りその首を絞めたのは同時だった。

 勇はギチギチとネクタイを絞め上げ、京一郎を落とそうとした。

 「親父殿ッ、もうやめて!」

 親父殿の独白。知ることのなかった親父殿の過去。今とのギャップ、混乱、困惑のなか一つの事実――先生が危ない。

 「ははッ」

 絞め上げられながら、京一郎は笑った。悪い冗談なら、もうこの際思いっきり笑ってやろうと思った。

 「ほう、まだそんな余裕が」

 「えぇ。こちらはまだ何も見せていませんから」

 「この状況で何を」

 左腕で京一郎の腕ごと身体を、右手で首に巻きつけたネクタイを締めあげながら勇は問う。

 「この程度の絞め――」

 京一郎は地獄の日々を思い出し答えた。ある時は畳で、またある時は水中で、そしてまたある時は高速走行中の列車上で、エトセトラ、エトセトラ。

 「師匠の首絞め特訓の苦しみ、その半分も、ありませんッ」

 足は足で押さえられ、身体は絞めあげられまさに絶対絶命。しかし、死線の攻撃にさらされながらも唯一稼働可能な部位を最大活用。高速の後頭部による頭突きを敢行。

 「なっ、んと」

 相手の鼻に後頭部が当たる感覚。一瞬の拘束の弛み。その刹那を掴みよせ、危機を脱するエージェント、プルートの目覚め。

 外見をそのままに中身が入れ替わる錯覚。一足飛びで距離を置き、開かれた目の奥にちらつく獣が勇を睨みつける。

 再び道場を覆う戦場の最前線。吹きすさぶ嵐、怒号に悲鳴、それらはすべて幻覚・幻聴。ただ存在するのは最前線を生き延びた者同士が相対しているという事実のみ。

 「ライジング・イサミ。解けましたよ、疑問が。桂木さんが、なぜ私と似た体術が使えるのか。師匠の本当の名を私は知りません。でも、戦場で与えられた名は知っています」

 鼻から垂れた血を拭いながら、勇はニッと笑った。

 「東方から来たお節介共。徒手空拳に長けた兄弟傭兵ライジング、その片割れライジング・ソウジ」

 勇は笑ったまま構えをとった。京一郎もようやく構えをとった。平和大国に戦場を持ち込んだ不謹慎な輩二人が、再びぶつかり合う。

京一郎の右拳が加速、加速、加速。

 紫電・一閃の型。

 「速いですね」

 「速いですな」

 立ち合い頭にお見舞いされた紫電の一撃を、そっくりそのまま勇の右頬に返礼する。

 京一郎の左拳。避ける勇。先ほどと同じ状況。次にくる攻撃は解っている。

 京一郎の左拳、伸びきったのち右方向へ加速、加速、加速。

 紫電・薙の型。

 勇の回避行動、下方へ。理想的、さらに貪欲にもカウンターを狙う老獪さ。

 京一郎の左拳、その到達点に目標不在。足元からの気配、足を刈られるイメージ。イメージが現実となる前に、左拳の二次元的移動を上下前後含みの三次元運動へ変換。即座に下方へ、加速、加速、加速。

 紫電・薪割りの型。

 勇は腕を交差させ、上空からの一撃を防御した。筋肉を突破し骨の髄まで染みるような衝撃に態勢を崩され、足払いは空を切る。京一郎は少し離れた場所で構えを間断することなく、勇を見やっている。

 「流派くずしろ」

 立ち上がり勇は口を開いた。

 「戦国の時代、武器を折られた雑兵が生き抜くために編み出した徒手空拳がその原型と伝えられているが、何。荒唐無稽な真実は当主にのみ伝えられるが相場でしてね」

 ゆらりと勇の体が揺れる。先ほどの紫電のしびれが体中を襲っていた。何という恐るべき才能か。いや、開花させられたといった方がいいのか。いずれにせよ、わが弟の所業に苦笑いが漏れる。

 「時は戦国、戦を落ち延びた私たちの祖は和泉葛城山中で鬼と出会い助けられ、徒手空拳を授けられた。祖は葛城山の鬼に敬意を表し、流派をくずしろと伝える」

 ふふっと勇は笑う。真実にして家伝にしてお伽話。ことの真偽はさておき、今ならこの伝承を信じる気にもなれるものだ。

 「世の中には存るものなんですね、先生。伝承の鬼も、きっと先生のように涼しい顔をしていたんでしょうな」

 「とんでもない、ライジング・イサミ。伝説の傭兵と手合わせできる幸せに感謝します。師匠も言っていました、兄貴は俺の三倍強いって」

 ニッと京一郎は笑った。その笑みに勇は昔日の弟を見た。

 「はっ、相変わらず嘘つきですな、あいつは」

 ニッと勇も笑い構えた。

 「あいつは」

 距離が詰め寄り二人の右拳が、加速、加速、加速、交差。

 「私の」

 紫電・一閃の打ち合い。

 互いの顔面に迫る拳。

 「三倍強かった」

 回避と攻撃という二律背反。

 拳が互いの頬に触れたか触れないか、小気味よい音を残して二人は後方にステップする。

 構え、対峙する。次の一手をイメージ、イメージ同士がぶつかり合う。

 瞬間、二人の間に割って入る気配、否、殺気。

 チラリと横を見れば、完全においてけぼりを食らった感の瑞穂が、二人を射殺すような勢いで睨んでいる。

 足の震えなどとうに消えた。度胸も根性も、えぇ、そうですとも。伝説の傭兵だか、何だか知らないけど目の前のこの親父殿譲り。いきなり総司おじさんの話も出てきてさらにわけがわからなくなるところだけど、そんなことは一先ずどうでもいい。それよりなにより、何だこの馬鹿共は。これだけやっといて、やられといて、この期に及んでまだやる気か。乙女の心配を無下にするとはどういう了見か。あぁ、もうッ。

 「いい加減に――」

 瑞穂のぷるぷると震える拳周辺に青い炎が浮き出ているのきっと錯覚だ。錯覚だが戦場の最前線に踏み込み、線を踏みつぶし消し去るに足る鬼気がある。ごくりと喉を鳴らし、京一郎は小さな声で一つの提案をした。

 「ライジング・イサミ」

 「何でしょう、風見先生」

 「今日の手合せは一先ずこの辺で」

 「終わりにしますかな」

 「しろーッ」

 脱兎の如く逃げ出す男二人、それを追う猛獣たる少女一人。盛大な追いかけっこが鎮まるまでに30分を要する。



 空の銚子が一本、二本、三本、四本、五本……。その他床にはビール、焼酎、ウイスキー、ありとあらゆる酒の容器が散乱していた。

 時刻は午前0時半近く。開け放たれた窓からの風が、酔いの回った体に心地よかった。

 京一郎、勇とも頭に盛大なたんこぶを装備し肩を組みながら酒を酌み交わしている。

 「おーい、瑞穂。酒ー、熱燗をくれー」

 途中までは混じっていたが、わけのわからない世界の軍事情勢だかに話が及んだ時点で瑞穂はテレビに意識を切り替えていた。部屋にこもらないのは、それはそれでつまらなかったからだが、酒盛に交じれないのも同じくらいつまらない。それでも引きこもらないのは何故だろう。ちらっと京一郎に目を向けると、ニコニコ笑って酒をあおっている。酔っ払っているはずなのに乱れないってのもちょっとつまらない。

 「勝手に飲め、飲んだくれてしまえ」

 背中で返事をしてやり、瑞穂はテレビのチャンネルを切り換える。週末の深夜帯で何かおもしろいものなんてないな、特に田舎だし。ぴっ、ぴっ、ぴっ。

 ちゃらちゃっららー、ちゃちゃちゃちゃららちゃららー。

 三回くらいチャンネルを変えると、やたらテンションの高い歌が響いてきた。こ、これは。急いで落ちている新聞のテレビ欄を見やると、小さく「ドラゴン坊主Ⅹ(再)」と書いてある。

 「な、なんてこと」

 不覚だった。まさかこんな時間に再放送なんて。即行で録画ボタンをセット。しかし撮りながらも見る、基本。

 「酷いんだよ、風見先生。娘が、瑞穂がー。グレてやりますよ、先生。えぇ、そりゃもう盛大にグレてやりますよ」

 近くに転がっているウイスキーの瓶から中身をコップになみなみと注ぎ、喉に流し込む勇。またコップに溢れるほど注ぐ手つきはなんだか心もとない。

 「勇さん、もうこのくらいに」

 「いやいやいや、先生。まだ行けますよ、まだ。ほら先生もぐーっと」

 突き出されたウイスキー瓶にしずしずとコップを差し出す。半分くらいで、瓶は空になった。

 「先生、交換、交換しましょう。ほら、こっちと」

 ウイスキー満載のコップが目の前にやってくる。嫌いではないが、もっとこうスマートに飲みたかった。京一郎は苦笑し、瑞穂にそれとなく助けを求めようとした。

 が。

 瑞穂はテレビっ子になっていた。それはもう、小学生もびっくりだ。視線の先では、筋骨隆々の戦士たちが画面狭しと人外の戦いを繰り広げている。空を飛び、エネルギー弾を浴びせ合い、岩にめり込むド派手な戦い。ちょっと古いそれは、京一郎が小学生の頃に流行ったアニメ「ドラゴン坊主Ⅹ」だった。

 純粋な力と力のぶつかり合い。強大な敵、過酷な修行、発揮される圧倒的なパワー。いつかはあり得ないと知ってしまうが、それでも憧れた力。

 思わず京一郎も無言で、たぶん目を輝かせながらそれを見ていた。

 「先生、私はね、弟に、総司に言ってやったんですよ。ソウジ、お前がナンバーワンだ――ってね」

 むにゃむにゃと勇が眠るのと、ドラゴン坊主が終わるのは同時だった。

 「んー、面白かった」

 ぐっと伸びをして瑞穂は後ろを振り返った。視界いっぱいに広がるのは京一郎に膝枕される親父殿の姿。

 「……これは酷い」

 ぼそっと呟き、口を手でふさぐ。

 「酷いな、桂木さん」

 「えぇ、酷くて結構」

 ふふっ、と同時に笑い合う。

 「ねぇ、先生。ちょっと外に出ない?」


 光る星々の下で瑞穂は再び伸びをした。

 「先生、酔ってる?」

 「だいぶ酔ってる」

 「ふーん、顔色あんまり変わらないね、強いの、お酒?」

 「強いふりだよ」

 「あ、そ」

 強いふりというか、親父殿と同量飲んでこれなのだから、きっと強いのでは?

 「先生ってよくわからないな」

 「それでいいんだよ」

 寂しそうに京一郎は笑った。よくわからないのがよくて、それで寂しそう顔をするとは一体どういうことだろう。やっぱりわけがわからない。

 「でも……、強いってことはわかった。しかも出鱈目に」

 縁側に腰かけて、京一郎は髪をくしゃくしゃといじった。やっぱり寂しそうに笑っている。

 「まるで、ドラゴン坊主の登場人物たちみたい」

 「好きなんだ、ドラゴン坊主」

 「まぁ、ね。ああいう出鱈目な強さには憧れるわ」

 「言っとくけどエネルギー弾は出せないよ?」

 「ホント?」

 「昔は出そうと思って努力したけど、ね」

 また二人で笑う。寂しそうな笑顔はすっかり影を潜めていた。

 「ねぇ、先生」

 ひとしきり笑い合ったあと、瑞穂は肩越しに京一郎を見つめ言った。

 「昼間の答え、教えてくれる?」

 昼間の問い。電話で中断してしまった瑞穂が知りたかったこと。

 京一郎はまっすぐに瑞穂の視線を受け止める。やがて、くしゃっと頭を掻くと妙に落ち着きはらった声で告げた。

 「お察しの通りだよ、桂木さん。僕は、かつて――」

 どくんと、瑞穂の胸が高鳴った。予感が確信に変わり、

 「冥王と呼ばれていた」

 真実となった。

 なんだろ、この胸の高鳴り。いやいやいや、ちょっと待て。落ち着け、桂木瑞穂。喧嘩最強の私がなんて様だ。桜子に借りた小説みたいじゃないか、こんなの。どきどき。って待て、これは違う。恋する乙女とかじゃないぞ、断じて違う。だって、ほら、あれは幻想に対する永遠の片思いであって、現実が目の前にいるからと言ってだからそれがどうした。

 「桂木さん? どうしたの顔が赤いけど」

 そうだ、そうだよ、そうだとも。これはきっと強さへの憧れだ。そ、それ以上でも以下でもないんだから勘違いしないでほしい。

 「――?」

 「なんでもないッ」

 ふるふるっと首を振る瑞穂を、京一郎は朗らかな顔で見つめていた。

 「総司さん、奇妙な縁というのはあるんですね」

 そっと星空に向かって呟く。星々が応えるように一際輝いた





 アメリカ合衆国アリゾナ州フラグスタッフ近郊 天文台本部


 モーニングコーヒーに並々とミルクを注ぐ小さな手。主要な全国紙と、地方紙をテーブルに満載させて、アレクサンドリア・エアリー天文台副台長はトーストに齧りついた。今朝の焼き加減は上出来。カリッとした触感がレディの決心を揺らがせる。ダメダメ、今朝は二枚までって決めてるんだから。

 ざっと新聞に目を通す。特に面白い記事はない。仕方ないので一面から片っ端に読んでやることにする。

 「おはようございます、レディ。お隣よろしいですか?」

 一紙目の半分に突入したところで声をかけられる。トレーに朝食を載せ、こちらを見やる長身の東洋人。中年に差し掛かりながらもどこか少年の面影を宿す不思議な顔。切れ長の目に細見の眼鏡がよく似合う。その声の主を見た瞬間、アレクサンドリア――アレックスは小さな歓声を上げた。

 「ソウジーッ」

 バターとジャムが口元についているにもかかわらず飛び着く。

 「レディ、お口の周り」

 にっこり笑いながら嗜めると声の主、久遠総司はハンカチでアレックスの口の周りを拭ってやった。

 「わたし、子供じゃないぞ」

 「わかってますよ、レディ。アレクサンドリア・エアリー天文台副台長殿。それで、お隣、よろしいですか」

 「うん、許可する。実働部隊プラネッツ隊長、ソウジ・クオン殿」

 総司はまた笑うと静かに新聞をずらして、朝食の乗ったトレーを置いた。本当にキョウイチローそっくりの笑い方、いやいや、キョウイチローがソウジの笑い方にそっくりなのか。またアレックスはそんなことを考えていた。

 「時にレディ」

 「んあ?」

 二枚目のトーストにアレックスが齧りついたところで、総司は悪戯っぽく笑いながら問うた。

 「京一郎と通信したそうですね」

 「な、え」

 齧りついたままアレックスはただ相手の顔を見ることしかできない。

 「だ、誰にそれを……」

 「無論、台長に」

 「おじいちゃん?」

 うんと頷く総司の顔には咎めるとか嗜めるとか、そういった類の表情はなかった。

 「大丈夫ですよ、レディ。あいつはまだ療養中ですから、実働部隊への復帰はさせません。もっとも、冥王星降格騒ぎに乗じて引退しようたってそれも許しませんが。準惑星になろうがプラネッツの第一級スターゲイザーは9人構成、これは変わりませんよ」

 「自分は引退したのに?」

 「レディ、私は冥王星降格騒ぎの何年も前にプルートを譲っていますから、それには当てはまりません」

 しれッとした顔でコーヒーに口をつける。あぁ、何というか本当に師弟だ。動きとかがそっくりすぎる。

 「まぁ、あんまり元気なようなら、とっととマーズの言通りに復帰させますけど」

 「元気なもんかよ、大ケガだったんだぞ。キョウイチローも、ソウジも」

 「あいつは若いから問題ないでしょう」

 「ソウジも十分若作りだろ」

 「若作りと若いは違いますよ、レディ」

 「なんだ、その屁理屈」

 「ご心配なく。今後の情勢にもよりますが、もうしばらく様子を見ます」

 総司はヒョイと近くの新聞を取り上げ、雑に目を走らせた後、付け合わせのデザートを食べるかのように言った。

 「それはそうとレディ。京一郎の様子見がてら、今度日本へ行ってみませか」

 「うぇ!?」

 突然の言葉に、小さな天文台副台長は素っ頓狂な声しか出すことができなかった。

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