第1話 プルート、二人
風が吹いていた。
その風は水面を揺らした。
その風は薄紙を揺らした。
その風はあるいは小さな運命を揺らした。
うきが遠慮がちに揺れた。獲物のせいではない。さざなみがさらさらと水面を揺らしているのだ。
とろりと停滞した小川は、まるで午後の緩やかなひと時を映し出しているかのようだった。土手に腰かけ竿を持つうきの主が、大きな欠伸を一つする。ぼんやりとした頭に緩い空気を入れたところで、眠気が吹き飛ぶわけでもない。また一つ欠伸をする。
と、のんびりと間の抜けたようなチャイムの音が欠伸と重なった。
のんびりと間の抜けた音でありながら、しかしそのチャイムの無慈悲さといったらない。其れは時の番人が放った尖兵である。彼奴らに従わねば人間社会、とかく学校社会は成り立たない。
うきの主は伸びを一つすると、そばに置いてある安物の青バケツの中を覗き込んだ。目の前の小川産のフナが12匹いる。ボウズは回避、むしろ大量だ。
……。
これで今日はどの班もあぶれることなく解剖に勤しむことができるだろう。
上機嫌、鼻歌交じりにうきの主は居城へと帰還の途についた。
ページが遠慮がちに揺れた。手でいじったわけではない。そよ風がさらさらと薄い紙を揺らすのだ。
とろりと空気が停滞した学校は、そこで授業を受ける生徒たちの眠気を映し出しているかのようだ。校舎裏の外階段に腰掛け、本の主は大きな欠伸を一つする。午後の陽気もさることながら、本の内容も眠気を誘うに値するものだから、もうこれで何回目の欠伸だろうか。また、一つ欠伸をする。
と、のんびりと間の抜けたチャイムの音が重なった。
のんびりと間の抜けた音のくせに、それは時間を規律で分割する恐ろしい特性を持っていた。もっとも規律に従う気のない人間にとっては何の意味もなさない音ではあったが。
本の主は伸びを一つすると、文庫本に目を落とした。漢字とひらがなの海にセイレーンの歌声が響いているようだった。
これでは本を読むより寝ていた方がいいような気がする。
大きな欠伸を一つ、ゴツンと階段の上段に身体を預け、文庫本の主は開いたページを顔に乗せた。
「いい天気だね、桂木さん?」
同時に、声が降ってくる。のんびりと間の抜けたような、そのくせ妙に張りのある声だった。
本の主――桂木瑞穂は文庫本を顔から取りはらった。そのまま体を起こすと眠りを邪魔された猫のような顔を声の発生源へと向ける。
「いやいや、そんな見つめられると」
にへらっと声の主は頭をかいた。それがまったく悪びれもなく、心底お気楽な顔に見えたものだから堪らない。瑞穂は不機嫌そうに口を開いた。
「何か用?」
澄んだ声を無理やり低くしたような声が響いた。睨みつけとの効果も相まってまるで威嚇だ。
「はは、まいったな。何か用って言ったって僕から言えるのは一つだけさ」
あぁ、どうせまたあの人種特有の説教が始まるのだ。瑞穂はそう思う。
何回、何百回、人と細部は違えども同じ文言を聞いたことか。しかも、言われれば言われるほど心は遠ざかる。教師という人種にそのあたりを学習する気は、きっとない。
「僕も授業がなきゃご一緒したいんだけど」
だから瑞穂は、闖入者が続けたその言葉に一瞬目が点になる。
「なんだか猫の眼みたいだね、君の瞳は」
からかわれているのだろうか。教師という連中はえてして説教か無関心か、そのどちらかだというのに。春だからか知らないが変わりものもいるものだ。
「用がないならとっとと行ってくんない? 先生。授業始るでしょ」
起き上がり無関心そうに瑞穂はページをめくりだした。別に読んでなどいない。さっさとこの教師がいなくなればまた寝るだけだ。
「うん。あぁ、そうそう桂木さんもたまには僕の授業、顔だしてよね」
瑞穂は改めて教師の顔をのぞいた。今年から赴任してきたこの男は生物担当の教師だったと記憶している。年のころは20代半ばすぎ、細身のフレームの眼鏡に、寝ぐせが治りきっていないような頭、無精ひげ、おまけに白衣、その手に持っているバケツは、あぁ、たぶん今日の実験で使う哀れな解剖体だ。さて、教師の名前は確か何と言ったか。
「へぇ、先生。あたしの名前知ってんの?」
自分は教師一人の名前すらうろ覚えなのに、この男はこんな生徒の名前を覚えている。たぶん、私はある意味目立つからかもしれないが。
「知ってるも何も……」
一瞬、悲しそうに教師は空を仰いだ。
「2年7組の生物教科担当は桂木さんじゃないか」
学校というのは面倒なもので、やりたくもないような仕事が自分に割り振られることがある。自らやりたいという殊勝な連中は委員でもなんでもやればいい。しかし、教科担当などという、担当教師との授業の打ち合わせをするポジションなどほぼ有名無実化しているのが現状だ。なにせ、瑞穂自身、今の今まで忘れていたくらいだ。
「あぁ、そうだっけ」
思い出したところで、瑞穂がその仕事をすることは多分ないはずだ。なにせ率先して授業にいかない自分が、そもそも何かの教科の担当など馬鹿げている。
「ついでに、理科研究会の部員でしょ。今度、僕が顧問をやってるんだけど」
まぁ、その点でいえば部活動だってそうだ。何かに所属しなければいけない。けど、活動は強制ではない。理科研究会と言えば幽霊部員の巣、よほど熱心な科学っ子でもない限り、放課後の実験観察などきっとしないに違いない。
「実は全然部員が来なくてさ。そうそう、この前なんて教頭先生に注意されちゃってね」
あぁ、こいつもツマんない人種だ。次に続く言葉は決まっている。どうせ部活に出ろとでも言うのだろう。
瑞穂は先ほどまでほんのちょっとだけこの教師に感じたものをあっさりと放棄した。結局、誰かの顔色を窺って自分の保身を図りたいがために外部に行動をまき散らすんだ。活動自体に意味なんか無いくせに。
「まぁ、気が向いたら来てみてよ。たぶん、みんなが思ってるより科学って楽しいはずだから」
柔らかい言い方だけど、要は来いということだろう。結局ここでも自分の保身なのだと瑞穂は思う。生徒に嫌われたくないからキツくは言わない。けど、そういう態度が気に障ることもある。へらへらと愛想笑い、物腰低く相手の顔色窺い。ツマんない人種だ。それで楽しいのだろうか。そんなことをしなくても、瑞穂自身毎日がツマらないでいるというのに。
「おっと、もう時間だ。じゃ、桂木さん、ほかの先生に見つからないようにね」
人好きのするような笑みをまた浮かべ、若い生物教師は小走りに駆けだした。
瑞穂はもう返事も顔も上げなかった。それはこの教師が彼女の中でどうでもいい風景、日々流れていく学校という景色の一部にまた戻っていった証しだった。
そう、ツマらない日常は全部風景になっていく。自分が直接かかわらないものは風景なのだ。何も感じない。何も変わらない。ただ目の前に広がるだけの扁平な現実。
「桂木? あぁ、桂木瑞穂ね」
翌日の授業で使うであろう現国の教科書をめくりながら、その教師は答えた。外は暗く、時折遠く体育館からかすかな部活の掛声だけが、職員室に響いてくる。
「何、彼女また問題起こしたの?」
国語教師は顔をあげ、質問を浴びせた新米教師の目を覗き込んだ。厄介事はごめんだという表情を隠しもせず、言葉を続ける。
「風見先生。君は赴任して日が浅いから知らないかもしれないけどね。その子にはかかわらないほうが無難だよ。厄介事の宝庫でね。まぁ、なんというか」
ごにょごにょと続く言葉。曰く、戦う女子高生。曰く、明央の歩く火薬庫。曰く、触らぬ桂木に祟りなし。
「この前、あぁ、君が赴任してくるちょっと前だけど。街で暴力沙汰を起こしてね。まぁ、その時ばかりは、うちの別の生徒を助けるためにやったそうなんだけど。相手の不良たちは7人だか8人みんな病院送りさ」
「病院……送り?」
思わず新米の生物教師はオウム返しをしてしまう。暴力沙汰で、なおかつ病院送りとは穏やかな話ではない。
「実家は空手だか何だか知らんが、実戦格闘技の道場をやっとるらしい」
国語教師はまた手元に視線を落とした。どこまで読んだか探るように手を動かすと、そのまま顔も上げずポツリと言った。
「武勇伝の宝庫だよ、あの子は。なんなら風見先生。後学のためにお話ししましょうか」
夜の繁華街。ネオンは都会ほど主張せず、しかし田舎ほど大人しくもなく煌めいていた。
週末とあって人通りは多く、さながらネオンに引き寄せられる虫のように道路を徘徊している。
一軒の店あるいは巣から、虫があるいは人が放たれた。
同僚の教師を抱え、風見京一郎は夜風の涼しさに感謝した。店内の喧噪も、煙草の匂いも、アルコールもすべて吹き飛ばしてくれるかのような清々しさに、ほっと息が漏れる。
同僚の国語教師は、寝ているのか起きているのか定かではない調子でまだ何かしゃべっているようだった。
まだ話し足りないことがあるのかと、思わず京一郎は苦笑する。桂木瑞穂の武勇伝とやらを聞かされたのは最初の三十分だけ。あとは延々、家庭と学校における自分の立場への哀愁漂う独白であった。
今日もまた、奥さんに叱られてしまうに違いない同僚をタクシーへと押し込め、京一郎は夜の街をぶらついた。
酒は飲んでいない。どちらかといえば好きな方だが昔の習慣から、滅多に飲むことはなかった。
街の温度よりも微妙に低い体温で、京一郎は歩き続けた。前方に視線を固定したまま、周囲を見やる。
右の視界の端では客引きの男性がしきりにサラリーマンへ声をかけていた。右視界の手前では若いOLが携帯電話の向こうに笑いかけている。左視界の手前では、タクシーの運転手が眠そうに欠伸をしている。左視界の端、道路の向こう側では女子高生らしき少女とガラの悪そうな男たちが何やら話しているようだった。
ピタッと京一郎の足が止まる
まさか。
見覚えのあるその女子高生の姿かたち。遠目からもわかるどこかけだるそうな、しかし猫を思わせる瞳。先ほどまで同僚から聞かされた愚痴に出てきた少女。
桂木瑞穂。
若者たちと友好的な会話をしているとは到底思えないほどピリッとした空気が感じられる。
大型トラックが目の前を横切り、一瞬視界が遮られた。
瞬間、桂木瑞穂と若者たちの姿は夜の帳に消えていた。おそらくは路地裏へと移動したのだろう。
夜の街、女子高生と不良、そして暴力沙汰。
どう考えても平和裏には終わりそうにない材料がそろっていた。
市立病院の玄関を抜けると、少し肌寒い空気が肺に入り込んできた。サナトリウムの世界から一転して、コンクリートに囲まれた街は薄暗がりに沈んでいる。
瑞穂はふっと息をついた。振り返り覚えのある病室の明かりに向けて、ちょっと手を振ってみる。ひらひらと手を振るのはあの病室の主にして昼間の小説の持ち主だ。先ほど借りていた本を返し、一言二言感想を述べると当の人物はちょっと残念そうに笑ったものだ。
瑞穂はこういう甘いのはダメ?
甘いものがダメとかじゃない。その小説の連中はどいつもこいつも後ろからどついてやりたい連中ばっかりだ。
恋愛における心の機微を静謐なタッチで描き出した秀作、ってふれこみだったんだけどなぁ。私はまぁ、そこそこ面白かったよ?
あたしには向かないわ。もっとこうスカッとするやつがいい。
ふふ、わかった。今度来る時までに何か探しとくね。
他愛のないお喋り。
穏やかな時間。
あの病室だけが今の瑞穂にとっては憩いの空間だった。
時刻は午後8時半を回っている。面会時間ギリギリどころかとうに過ぎても居座る瑞穂を、最近は病院側も諦め口調で注意するだけとなっていた。幸い、その病室は一人部屋だったし、患者自身も瑞穂の来訪を楽しみにしていたので多少は目を瞑ってくれたのだろう。
夜の風は冷たかったが、週末とあって繁華街は人々の熱気で満ちていた。
すたすたと瑞穂は歩き続ける。喧噪のなかで何人かの酔っぱらいに声をかけられたが、そのことごとくを瑞穂は無視、あるいは目で威嚇した。ほんの十数分前には病室で穏やかな時間を過ごせていたというのに。
瑞穂はため息をついた。家に帰るには街を突っ切った方が手っ取り早かったが、これなら遠回りしてもよかった。
「おい」
そんなことを思っていたところで後ろから声をかけられた。
若い男の声。笑い声。嘲り声。
振り向けば5人の男が瑞穂を見てにやにやと笑い、あるいは怒りの表情を向けていた。二人見知った顔がある。どちらも腕を包帯で巻き首からぶら下げていた。その髪型、服装どれをとってもそっくりな奴らで、いつぞや負わせてやった怪我の程度まで同じである。違うのは身長くらいだ。
なるほど、これが量産型か。くくっと瑞穂は笑った。
「てめぇ、なに笑ってやがるッ」
お決まりのセリフ。
「あぁ、気に障った? 何度やられても懲りもしないあんた達を見て、思わず口元が綻んじゃったんだ」
そして、お決まりの返し。なるほど、これが王道というやつだな。
「まぁ、あたしにとっちゃあんたらは桜子の仇だからね。こっちから探さなくてもいいって点、つまりあんたらの学習能力の無さには感謝してるよ」
「はっ、何適当なこと言ってんだ。だいたいあの時、てめぇの連れには何もしてねぇじゃねぇか。それなのに、俺たちをこんな目に合せやがって」
量産型の背の高い方が、ギリっと歯を噛みながら包帯の巻かれた腕を見せつける。
「あんたらみたいなカラフルファンキーな連中に声をかけられただけで、倒れちゃう子もいるのよ」
「逆恨みもいいところだぜ。へ、だがよ。今回はこの前みたいにはいかねぇ」
クイッと背の高い量産型は路地裏を指示した。
「来いよ。単純明快、てめぇの好きな拳で語り合おうぜ」
「色気のないナンパね」
そう言いながら瑞穂は路地裏へと入っていた。薄暗い通り。エアコンの室外機があげる唸りと、生ぬるい空気。そして生ごみのポリバケツが実にその場に副った臭いを奏でている。
瑞穂は振り返り、通りの光を背負う5人の連中に向けて右の親指を立て、そして下に向けてやった。
「早く始めましょ? 今日は珍しく見たいドラマがあるのよね」
ことの始まりは春休みも終わりにさしかかった夕暮れの繁華街。
ウインドウショッピングに興じるのは二人の少女。
長身の少女、桂木瑞穂は傍らの少女に呟くように言った。
「桜子、私のお腹がエマージェンシーだ」
視線の先にはこのあたりでは有名なクレープ屋。瑞穂おススメのメニューは辛子明太子クレープ、いまだに周囲から同意を得られたことはない。
「もう、瑞穂ったら。さっきハンバーガー食べたじゃない」
小柄な少女、永守桜子は思わず苦笑する。
「しかもメガサイズの」
「食ったうちに入らないよ。あれでようやくレギュラーサイズってとこだね」
引き締まったお腹をぽんぽん叩いて瑞穂は笑った。
「わたし、あれ一個でもお腹いっぱいなんだけどなぁ。何かまだ残ってる感じ」
「そう? あたしなんか、もし桜子みたいに久々に外出してハンバーガー食べれるんだったら、後悔しないように大人買いするね」
ハンバーガーの大人買いなどどんなものか想像もつかなかったが、大げさに瑞穂は目の前の空間を抱えて見せた。
「ふふ、別に病室でも食べれるじゃない。その時は瑞穂に頼むし」
少し影のある微笑み。そんな桜子の額を瑞穂はペチッと叩いた。
「何言ってんの。退院してこうやって買い物に来れるくらい回復してるんだから。滅多なこと言わないでよ」
「うん。そだね」
「よし。んじゃ、景気づけにクレープ買ったげるわ」
「え、別にい……」
桜子が返事をしたときには、すでに瑞穂の姿はクレープ屋の列に紛れている。
「もう瑞穂ったら」
ちょっと待っててとウインクされた日には、大人しくクレープが運ばれてくるのを待つしかあるまい。
瞼を閉じて、桜子は建物の壁に背を預けた。久しぶりの外出。静かな病室のベッドもいいけれど、たまには外のざわめきに身を預けるのもいい。
雑多な音。車のエンジン音、電気屋の軒先に構えた薄型テレビから聞こえる野球中継、さまざまな音色を奏でる靴音、人々の楽しげな語らい。そして、
「ねぇ、彼女、今暇?」
古典的すぎるセリフ。
思わず目を開けた桜子の前には、男が二人。背が違うだけでどちらも同じような格好に同じような髪形、そして同じような獣じみた目つき。
あまり関わりたくない人たち。とっさに瑞穂の方を向くがちょうど注文中で桜子の方には気づかない。
「あの、連れがいますので」
一言そう言った。しかし、古典的な展開ではこれで相手方が帰ったためしはない。
「へ、何。男、マジで? ちょっとひどくねぇ? 俺らに安易な期待持たせちゃって」
一言も言ってないのに妙な勘違いをされている。
「つか、こんなところに置き去りにするような奴なんかうっちゃって俺らと遊ぼうぜ?」
グイッと背の高い男の手が伸びてきた。細い桜子の腕が乱暴に掴まれる。サッと血の気が引いてきた。そのくせ、突然の状況に心臓がばくばく乱れる。グルグルと目の前が揺れてきて、足もとがふらつき倒れ。
「ぎゃッ」
倒れなかった。前の方から感じる確かな支え。意識を手放しながら、それでもきゅっと確かな存在を掴みその名を呼ぶ。
「――みず、ほ」
辛子明太子クレープは宙を舞い、男の一人の顔面を直撃していた。男は目がー目がーと言いながらがむしゃらに目をこする。辛味を帯びた微小な粒が、さらに目の奥へと侵入。眼球防衛のための涙も大量の微小辛味兵器の前に屈服する。
「あたしの連れに何しやがる」
ぼそっと、澄んだ声を無理やり低くしたような響き。瑞穂は桜子を支えながら修羅のごとき形相で男たちを睨む。辛味兵器の直撃を免れた背の低い方の男が、血相を変え怒鳴りつけ、拳を飛ばしてきた。
桜子をかばいつつ身体を捻り、拳をよける。桜子を野次馬の女性に有無を言わさず預け、瑞穂もまた拳を振るった。正確無比な突きが男の鳩尾を襲う。仲間らしき男たちが乱入してくるが、ことごとく殴る、蹴る、極める。正当防衛、しかし過剰防衛。
繁華街は一時騒然とし、サイレンの音が夜とともにやってきたのだった。
あの時、瑞穂にとって彼らはつまらない相手でしかなかった。
人数と腕力に物を言わせた力任せ。数は時として互いの攻撃の邪魔になり、自慢の腕力も当たらなければ意味がない。速さもなく、業のキレも親父殿より遥かに劣る。負ける理由は見当たらなかった。
「くッ」
だが、今回は何かがおかしい。相手のメンバーが違うせいではない。たとえ何かの有段者を連れてこられたとしても、瑞穂にはいなす自信が十分ある。それとは別、もっと根本的に何かがおかしい。
避けられるはずの拳が身体を掠る。当てに行ったはずの拳が空を切る。動きは素人そのもの。なのに、ビデオの倍速でもかかっているかのような動き。上手く拳が当たってもまるでビクともしない。いや、それどころか痛みを感じていないような様子。ヒドく気味が悪い。
「はっはは、やっぱりすげぇ効き目じゃね? 兄貴」
少し離れた場所から乱闘を見物する、同じような格好をした男たち。背の低い男がギプスの巻かれた腕をぶんぶん振りまわしながら騒いでいる。
「あたりめぇだ。そこらのモンとはわけが違う、最新の治験薬だぜ」
背の高い男が懐から取り出した錠剤をかみ砕きながら言った。
「ちけんやくぅ? じゃなに? 俺らモルモット? マジ、実験台? うわー、超ヤバくね?」
騒ぎながら背の低い男もポケットから錠剤を取り出し、片手で器用に口へ運ぶ。
「安心しろ。安全に問題はねぇよ。まぁ、若干昂っちまう副作用はあるが常習性はねぇし、うまくいきゃそのうちどっかの国の軍でも使用が決まってんだとよ」
「ひぇー、すげくね? 何気にトップシークレットってぇやつ?」
「俺らに喋ったところで、せいぜい都市伝説止まりだろうよ。あまりにもうそくせぇ真実なんて、街のゴミにまぎれて本当の嘘になる」
「ひゃは、難しい話はどうでもいいや。んなことより、兄貴。さっさとバチッとやっておったのしみターイムに行こうぜ?」
「へっ、お前はそればっかりだな。しかし、たかが女一人に集団で、しかもクスリを使ってまでってのは笑えてくるじゃねぇか」
「ひゃはっ、しょうがねぇよ、兄貴。あんときゃ油断したが、まさかアレが噂の冥王とはよぅ。数と力を揃えたって罰は当たんネぇって」
「くく、ちげぇねぇ。それはそうと、車は用意してんだろうな?」
「抜かりねぇって、おーらい、おーいえ。向こうの路地にバッチリ待機させてる。アジトも今頃、準備万端だぜ」
ギプスを振り回し、背の低い男は下卑た笑いを浮かべ乱闘に加わった。
あの時とはまるで違う動き。ギプスをしているくせに、まるでビデオ倍速。瑞穂めがけて石膏の塊が飛んでくる。避けるが掠る。気味が悪い。口の端から涎が垂れている。薄汚い。
下卑た顔面めがけて蹴りを見舞う。直撃。だが、ギプス男は揺らがない。ニタッと笑って逆に蹴りに行った左足を片手で掴まれる。右足で地面を蹴り瑞穂は飛び上がった。ギプス男の上で回転し、無理やり左足を引きはがす。
距離をとり、息を整えた自分に気が付き瑞穂は焦りを感じた。街中の喧嘩で息を切ったことなどなかったはずなのに。いつもはすぐ片がつくはずなのに。
「はっはー、どうした、冥王ッ? これが噂に聞く県下屈指の実力かぁ? この程度じゃ、所詮お山のガキ大将レベルだなぁッ」
それは地方の都市伝説。
明央高校、長閑な田園地帯に居を構える県下有数のマンモス校。
10年余り前に統合新設されたこの学校に、当時突如降って湧いた噂。
満月の夜に屋上で舞う二つの影。
誰もいない武道場から聞こえるうめき声。
時同じくして夜毎、裏通り――裏社会を騒がすようになった明央の制服に身を包んだ者の逸話。
不法入国者との争い、ドラッグ組織の壊滅、犯罪組織の崩壊。語られる事件で発揮された拳に慈悲はなく、男子生徒という以外誰もその正体はわからない。
その明央生は畏怖を込めた言葉遊びとして、明央――冥王と呼ばれるようになり、以来絶大な武力を有した明央生徒の称号として『冥王』の名は県下に轟くことになる。
「冥王をなめるんじゃないッ」
一時、迷惑を被ったのは瑞穂だった。何も知らず明央に入学し、当時の冥王と呼ばれていた不良をボコボコにしたばっかりにその称号を手に入れてしまったのだ。
犯罪集団だのなんだの、そんな大層な話は知ったものか。少なくとも、瑞穂が叩きのめした男は噂に語られるような称号をもつにふさわしい人物とは到底思えなかった。
もちろん、自分自身もそうだ。だが、瑞穂がいくら拒否しようとその名前は付いて回り、騒ぎが起こるたびに尾ひれ背びれがつき話は膨らむばかり。いつしか、瑞穂自身、その名に一種の愛着を感じていた。ツマラナイ現実から血の通った戦いの実現へ。時として冥王の称号は相手にとって格好のファイトマネーになった。そして、瑞穂が手にしてからこの称号に泥が塗られたことはない。
いつだったか裏通りにある情報屋の老人は言ったものだ。似ていると。瑞穂の戦い方は、かつて巷を騒がせた初代冥王に似ていると。柄にもなくうれしくなった。10余年も前の、誰も名を知らぬ先輩。その人物に自分だけが似ているという親近感。ツマラナイ風景でしかないあの学校と瑞穂、そして見知らぬ先輩とを結ぶただ一つの絆。
イメージ。
夜の繁華街、蠢く陰謀、泣き叫ぶ少女。屈強な男たちを前に諦観が少女を支配したその時、響き渡る声。明央の制服に身を包み、月影背負いて朗々と謳いあげる口上は男たちを震えさせる。そして始まる戦い。舞い、飛び、踊る。無駄な動きをそぎ落とした冷徹な武力。圧倒的戦力差。立つ者は一人としておらず、路地にはうめき声が聞こえるばかり。少女に差し出される手。握り返し少女は口を開く、ありがとうと、そして名前をと。だが彼はそっと笑うと夜の闇に消えていくのだ。
瑞穂の幻想。こうあって欲しいという想い。桜子に口を滑らせたら、「瑞穂も案外乙女チックなのね」とか言われて赤面したのを覚えている。乙女で、その、なんだ。何が悪い。
たぶん、瑞穂は焦がれていた。逢ったこともないけれど、自分よりはるかに強く、夜の街に軌跡を描いたその先輩に。それは永遠に叶うことのない淡い片思い、武力だけが取り柄の不器用な少女の夢だった。だからこそ、この称号だけは特別だ。
瑞穂が負けるということは、明央が負けるということ、先輩が負けるということ。自分が勝手に描いた称号の重さ。馬鹿らしいとは思うけれど、一つの原動力には違いなく、瑞穂は負けを知らなかったし、この先も負けるつもりはなかった。
「はぁ、はぁ」
なのに、今のこの状況。息切れ、疲労、先の見えない不安。
幻想の中の少女のように諦観が襲ってくる。助けは来るはずがない。なぜなら、冥王は自分だからだ。いつだって現実は想像、幻想のように甘くはない。
瑞穂は焦燥の中、どうにか一人を掴み関節を極め、流れるような動作で背中からコンクリートに叩きつけてやった。
道場での組み手を思い出せ。ふらふらになっても、腹に力を込めろ。スッと息を吸う。冷気が身体を駆け巡り、弱気になった思考を刺激した。
大丈夫、まだ戦える。
だが。
その一瞬、ありえない一撃が瑞穂を襲った。
きな臭さを伴った衝撃。ギプスが瑞穂の背中に押し当てられている。
「かはっ?」
体が動かない。全身を襲う痺れ、おそらくは電気ショック。
立っていられない。瑞穂の意志とは関係なく足がもつれ無様に倒れる。
「ひ……きょうもの」
暗闇に侵されそうな意識を必死で掴み、瑞穂はギプス男を睨みつけた。こんなことで、地につくわけには。こんなやつらに、負けるわけには。冥王は、あの人は、絶対にこの程度でやられるわけがない。だから、あたしも……。
「ひょー、これが俺らのジャスティスッ」
徐々に暗くなる意識の片隅で耳障りなギプス男の声が聞こえた。
乱暴に担がれる感覚。無造作に硬い座席に押し込められる身体。無情にも意識はどんどん瑞穂の手を離れようとしている。どんなに強く掴んでも、引き留めることはできなかった。車のエンジン音が聞こえた。きっと、どこかに連れ去られるのだろう。幻想の続き、ヒーローの現れない物語がやってくる。
意識はもうほとんど瑞穂の手を離れようとしていた。だから、突然聞こえてきた声も眠りに落ちる前に見るまどろみの様に現実感がなかったし、すがる気にもなれなかった。
「桂木さーんッ」
風景となった男の、のんびりと間の抜けていない、ただ張りのある必死な声など、ひどい冗談だ。
走り去るワンボックスカーに向けて、京一郎は声を張り上げた。けたたましいクラクションとともにその姿はみるみる遠くへ消えていく。
何があったかなどわかるわけがない。彼女たちが消えたと思わしき路地へと来てみれば、車に担ぎ込まれる少女の姿があった。見間違えるはずもなく、それは昼間の生徒、桂木瑞穂。何をどうするなどという思考をふっ飛ばし、声を張り上げたところで車は止まるわけもなく、気を失っているであろう彼女に聞こえているわけもなかった。
頭の中は混乱していたが、シンプルすぎる答えが思考を素早く整頓してくれる。桂木瑞穂が何者かに連れ去られた。過程などどうでもいい。目の前で過ぎ去った事実に京一郎の意思が到達点に向けて疾走する。
ならばやるべきことは?
走って追いかける? 生身の足で車に勝てるわけがない。
警察に連絡? 事情を説明するにも、行動を起こしてくれるのにも時間がかかりすぎる。
ならば、自分がやればいい。
ここで? 軽率な行動では?
「だから、どうした」
ボソッと呟くと京一郎は携帯電話を取り出し走り始めた。
数コール後、不機嫌な声が飛び込んでくる。
「ハロー、くそったれプルート。何か用か? 厄介事ならご免だし、ペット探しもお断りだ。だいたい二徹明けの朝っぱらに電話をかけてくるなんざ大統領だってゆるさねぇ」
「くそったれでもないし、大統領でもないし、今はプルートじゃないぞ、アレックス。後、ちゃんと寝ろ」
不機嫌な声の主は、けっと悪態をつきながら笑っている。
「余計な御世話なんだよ。それはそうと、冥王星降格騒ぎに乗じて逃げようったってそうはいかないぜ、プルート。おっかねぇマーズだってあんたの休暇を取り消そうとコソコソ動いてるところさ。さっさと天文台に連れ戻される前に帰ってこいよ」
「その話は後でいくらでも聞いてやる。だから、今からいうナンバーを調べてくれ、いいか」
「あぁ、ナンバー? ――ってお前、これ日本のナンバーじゃん。ったく、メンドクセェな。だいたいお前、療養休暇中のくせに何厄介事に首を突っ込んでるわけ?」
「それも後で説明するし、俺もよくわからん」
「なんだよそれ。あぁ、わかった、わかった。その車、三日前から盗難届が出てるな」
「俺の位置からそう遠くないところを走行中なはずだ、捕捉できるか?」
「あんだけ世話になっといて天文台の技術、舐めてんの? 余裕もいいところだぜ」
けっけっけと笑ってアレックスは続けた。
「でもプルート、これ任務じゃなく私的使用なわけだからフツーは通らないな。まぁ、そこはこの銀河よりも広いアレックス様の心のおかげで何とかしてやらぁ。口止め料、期待してるぜ」
「あぁ、ジェリービーンズを山のように買ってやるよ」
「お前、馬鹿にしてるだろ。そんなおこちゃまなお菓子よりドルだよ、ドル」
「わかったよ。どっかのA級スナイパーみたいにスイス銀行の口座へ振り込めばいいのか」
「そのうち請求書送ってやる。あと、その。やっぱジェリービーンズも忘れんなよ」
くだらない問答をしているうちに京一郎は自らのアパートへとたどり着いた。
扉を乱暴に開け放つ。ずかずかと中に入り込み6畳一間の押入れを開け放った。薄型モニターと端末がチカチカと淡い色を放っている。
モニターに白衣姿のあどけない、しかし生意気そうな少女が浮かび上がった。不機嫌な表情、体に不釣り合いな大きい白衣からのぞく手で金髪をくるくるといじっている。
「遅くなったんじゃないの、走るの?」
「そろそろ年かな」
「わかいくせに。サンにぶん殴られるぜ?」
少女――アレックスの映像がモニターの右隅に引っ込み地図が浮かび上がった。赤い光点はおそらく先のワンボックスカーだろう。
「いいか、目標は今国道へ出た。時速80kmで南下している。お前のポンコツなら、まぁ、何とかなるだろう。位置はこのアレックス様がサポートしてやるよ。あぁ、それと、こっちと違って日本はメンドクセェ国だからあんまり派手にドンパチはメーだぞ?」
「ちょっ、どれだけの規模の戦闘を想定してるんだよ」
「あん? だって至福のまどろみからわざわざ私を叩き起して天文台の技術を使わせたんだぞ? VIPクラスがテロリストに拉致られたくらいじゃないと費用対効果が期待できないだろ」
「奪還目標は女子高生だ、以上」
「あぁ、女子高生な、ハイスクールガールな。なるほどなるほど……って待てよ、お前、こら!」
盛大な文句をモニターごと消すと、京一郎はジャケットを着込み、外へ飛び出した。が、何かに気がついたように部屋に戻り、散らかった衣類棚から布きれを取り出す。
「やっぱ変装くらいは必要だろ、常識的に考えて」
わけのわからんことを呟くと京一郎は再び外へと躍り出て、駐車場の一角のシートを払いあげた。
月明かりに黒光りする鋼鉄が居た。
普段は近所のおばちゃんに若気のいたりだねぇと揶揄される不憫な相棒。そのシートに座り、エンジンをかけた。重低音を響かせ、鋼鉄は吸気・圧縮・燃焼・排気を繰り返し咆哮の刻に備える。走行、アパートの駐車場を抜け車道に出る。瞬間、フルスロットル。近所迷惑な音を残し、京一郎は追撃を開始する。
「奪還目標が一般人って、何か頭痛がしてきたぜ」
ヘルメットの内側にアレックスの声が響いた。心底呆れたような口調だ。
「薬を飲んでとっとと寝ろよ、どうせ寝不足だろ」
「なんだとー。せっかく人がサポートしてやるって言ってんだぞ」
「目標座標をディスプレイに送ってくれるだけでいい。無理して頼んでるんだ、これ以上はお前も迷惑だろ」
瞬間、視界の片隅に光点が点滅する地図とアレックスの顔が浮かび上がった。呆れ口調どころか、呆れ顔だ。
「申請許可の下りていない頼み事をされた時点で十分迷惑だっての。そんでもって頼み事を叶えてやった時点で私も同罪だ。まったく、見つかったらじいちゃんにお尻ペンペンだぜ」
「悪かった、報酬上乗せだ。今度会うときはジェリービーンズに加えてたい焼きでも献上いたしましょう、リトルプリンセス」
「お前、私がお菓子で釣れると思ってるだろ?」
言いつつ、アレックスの声にはだんだん不機嫌さがなくなってきているようだった。
「まぁ、でもたい焼きは悪くないな、うん。いつぞやの冷凍ものもなかなか美味だった。今度は出来たてが食いたいな。よし、プルート、今度私が日本へ行ったときは案内しやがれ。それで手打ちだ」
「イエス、リトルボス」
メーターを振り切るイかれたスピードの中で交渉は成立。すっ飛んで行く景色は建物から木々へと姿を変えていった。街の東端に連なる山々、巨大スキー場を有するリゾート地帯へ至る道を外れたルートには街灯もなく、夜の暗闇がヘッドライトに脅かされていた。
「目標は止まったみたいだぜ。どっかの会社の廃工場か何かだな」
ディスプレイの光点が落ち着き、緩やかな明滅を繰り返していた。点滅の間隔すらも歯がゆさを感じさせる。
「らしくないな、プルート? うちの第一級スターゲイザーはこんな程度じゃ焦らない」
アレックスに指摘され、京一郎はやれやれと笑った。感情が表に出るようでは格下げされても文句は言えまい。
「やっぱりプルートは返上しなきゃな」
「何言ってんだ、天文台はいつでもお前が帰ってくるのを待ってんだぞ。それに、その。私だって――」
ごにょごにょとアレックスがつぶやいた時、暗闇の彼方に明かりが見えた。
「あれか」
「あぁ……。ねぇ、キョウイチロー?」
駆動形式を切り換える。ガソリンを貪るエンジンが咆哮を潜め、電力駆動のモーターが静かな闘志を囁いた。突撃の咆哮と潜入の囁きを両立させたハイブリッドモンスターバイク、カロン。京一郎の愛すべき相棒、若気の至り、昼行燈の真の姿。
「うん?」
「また怪我すんなよ? 久しぶりの実戦が市井の連中だからって甘く見んなよ? なんなら実弾の使用許可だって」
「大丈夫だよ、リトルボス。アレクサンドリア・エアリー天文台副台長殿。プラネッツが9番手、見えざる者、プルートは貴女も知っての通り――」
カロンが無音走行を停止した。ヘルメットに手をかけ、京一郎は画面の向こうの少女を安心させるように笑った。
「あきれるほどしぶといんだ」
「キョウイチロー……」
アレックスの嫌いな笑み。こちらの心配何もかも一切合財に線を引くエージェント・プルートの専売特許。気を使わせない配慮、余計気を遣わせる迷惑。何を言ったところでもはや聞く耳を持たない、昼行燈の真の姿。
「それじゃ、ちょっと行ってくる」
ヘルメットを取り払う。山の夜気が京一郎の顔を包みこんだ。
「――ッ」
冷たいコンクリートの感触に瑞穂は意識を取り戻した。薄らと目をあけると高い天井から弱々しい蛍光灯の明かりが飛び込んでくる。体のしびれはまだ残っているようで、動こうとするとピリピリと刺激が走ってきた。
だが、動けたところで自由は限られているようだった。手が後ろで縛られており、荒縄の無遠慮な感触が腕に伝わってくる。
「ひゃは、お目覚めだぜ」
耳障りなギプス男の声が聞こえてきた。コンクリートに寝かされた状態で周囲を見渡せば、先ほど対峙した五人に加え、やはり同じような格好をした連中が二人ほど増えている。
打ちっぱなしのコンクリートに囲まれただだっ広い空間のほぼ中心に瑞穂たちはいた。奥の方までは蛍光灯の光も届かないようで、どうなっているのか窺うことはできない。おおざっぱに見ると瑞穂の通っている高校の体育館のような構造をしているようだった。2階部分が通路になっており、外へ続くと思われるドアと一階部分へ下るための階段がいくつか見てとれる。
「大層なアジトじゃない」
周囲の景色のように味気なく、瑞穂はただ感想を口にした。
「ここは何年も前に廃業になった工場でな。まぁ、いろいろあって今は俺たちが有効活用してんだがよ。車もめったに通らねぇ山ン中だし、周囲に人気もねぇ。くく、つまりは泣こうが喚こうがどうしようもないラブプリズンってわけよ」
ご丁寧な長身のギプス男の解説、意味のわからない自慢、満悦そうな表情。心の底から嫌悪感が込み上げてくる。我慢する必要もなく嫌悪ごと瑞穂は言葉を吐き出す。
「これからどうしよってわけ?」
「どうする? ひゃ、そりゃお前、ナニするしかないだろう?」
なぁ? と周囲に同意を求めるギプスチビ男。待っていたように零れるのは下卑た笑い、嘲り。すべて規格化されたようなピエロの笑い。どいつもこいつも癪に障る道化野郎のスマイル。
「くはぁ。いいぜ、その眼つきぃ。そそるよ、そそるぅ」
睨み、効果なし。それはそうだ。7対1。瑞穂は手を拘束され、しびれのせいで満足に身体も動かせない。まさにまな板の上の何とやら、だ。
「はぁ、なぁ、もういいだろぅ、兄貴ぃ。わざわざ目を覚ますまで待ったんだからよう。もう、辛抱たまらねぇよ」
弟分の言い分にギブスノッポ男は笑った。
「まぁ、そう焦るんじゃねぇよ兄弟。まだ夜は始まったばかりなんだからな。お楽しみの前に冥王さまの、喧嘩負けなし女王さまのたまんねぇ身体つきをじっくりと観賞してやろうや」
7つの視線。ギラギラと獣じみたピエロどもの目が、瑞穂の頭からからつま先まで舐めまわす。異様な光景。ほんの一動作で決壊しそうなダムの下に住む村人の気分。
やがて瑞穂の豊かな胸元めがけて2本の腕が伸びてきた。道場の組手で何度も迫ってくる手とは違う、欲情を隠そうともしない露骨な動作。ビジョン、7人のピエロどもの――14本の手が自分に迫ってくる感覚。寒気が背中を駆け巡り、反射的に瑞穂は唾を吐きつけた。
「くっ、て、てめぇッ」
「こんなこともしないと女もまともに抱けないのか、この不能者ッ」
唾が目に直撃したギプスチビ男が、たまらずギプスをしていない右手で瑞穂の頬に平手をくらわせる。だが、瑞穂は平然とチビ男を睨みつけた。
「は、はは。なるほど、あくまでも抵抗するってか。おもしれぇっ、ひゃは、やっぱこうじゃねぇとなぁ。このツンツンがどうなるか見ものだぜ、兄貴、アレ使おうぜ、アレ」
しょうがねぇなと笑うギプスノッポ男。目配せすると群れの一人が注射器を差し出してきた。手に取るとノッポはニヤニヤと瑞穂の横にしゃがみ込み、その針先から液体を滴らせた。手慣れた動作が過去にここで何があったかを容易に連想させてくれる。
「こいつは、ほんの少しでも天国に行けちまうありがたーいお薬さ。あんたみたいに強情な女にゃ特に効果的でな。なかなか手に入らねぇそうなんだけど、在庫は山ほどあるから、さて何本もつか実験してみようや?」
見せつけるように針先から液体が零れる。手に付いた液体を舐めノッポは恍惚の表情を浮かべた。
「はぁはぁ、たまんねぇな。これだけで天国に行っちまいそうだ。さぁ、冥王さんよ、あんたも天国に行こうぜ?」
注射器が首筋に迫ってくる。身をよじって抵抗することもできない。いつの間にか、足を押さえられ、肩を押さえられている。針が迫ってくる。見せつけるように、抵抗できない瑞穂の様を楽しむようにゆっくりと。
ぷすっと首筋に痛みが走り、ノッポが注射器を押し込もうとする。
「くッ――」
流し込まれるであろう快楽を拒絶するように瑞穂は眼を閉じた。
瞬間。
「がッ」
注射器が弾け飛ぶ。
「そこまでだ」
廃墟に声が響き渡った。それは、薄れゆく意識の向こうで聞いたひどい冗談。景色の一部となったはずの男のただ張りのある声。
瑞穂は目を開いた。
正面の二階通路、非常出入り口。開け放たれた夜からのぞく、暗闇に彩られた人型があった。
「せんせ、い?」
一歩、影は通路に踏み出してきた。だらりと垂れ下げた左手に見えるのは拳銃のようなシルエット。
男たちも唖然と闖入者に目を奪われた。
一歩、影が踏み出す。蛍光灯の光が、人影を白日の下に晒した。
「……」
そして、時が止まった。
「おい……」
「なっ」
ざわめく男ども。
ひどい冗談だ。
瑞穂は頭を振った。
「お、おい、あんた。押し入るところ間違えてるぜ?」
おずおずとギプスチビは声を上げる。
本当にひどい冗談だ。
「銀行なら麓の方だ」
「いや、盗る者はここで間違いないんだ」
目だし帽をかぶった、場違いな銀行強盗の格好をしている奴が助けに来るなんて。
二階通路、一階部分の瑞穂たちを見下ろすように目だし帽の男――京一郎。パッと手を広げ手すりに近付いたかと思うと、4mはあろうかという一階部分に向けて飛び降りた。
華麗な動作。
両足を揃え、垂直落下――両足で着地、体を回転。威力を殺しそこね打ちつけられる背中。
「ゲフッ」
低くくぐもった声が聞こえた。
「……」
誰もがその一部始終をポカンと口を開け見守っていた。目だし帽をかぶった男がお楽しみの最中に現れて、あげく飛び降りて身悶えしているなど正気の沙汰ではない。
「ごふ、ごふ。て、手荒な真似はしたくない。正直、君たち程度の連中なら制圧に5分とかからないだろう」
おまけに、痛そうに背中をさすりながら起き上りそんな言葉を吐くのだ。お楽しみを邪魔され、無意味に驚かされた結果が目の前でフラフラと頼りなさそうに立っている男という事実。
「なんだ、てめぇッ。脅かしやがって。ちっ、さっきのやつだってエアガンじゃねぇかッ。なるほど、わかったぜ。てめぇ、この転がってる冥王の連れだな。よくも邪魔しやがって―――」
ギプスノッポが罵声を浴びせかける。本物の拳銃なら話は別だったが、先ほどの音・威力からすればどう見ても京一郎の武装はエアガンだった。当たれば痛いが、本物の拳銃がもたらす破滅には程遠い玩具だ。怯えは怒りに置換される。
目だし帽の京一郎はやれやれと、瑞穂に顔を向けた。目だし帽でよくはわからないが笑っているようだった。
「大丈夫? すぐ終わるからもう少しだけ待ってて」
「てめぇっ、話を聞いてんのかよッ」
沸点に達したギプスノッポの拳が京一郎の右頬に向け放たれた。
「先生ッ」
叫んだ瑞穂の目の前で、拳が盛大に京一郎の顔へめり込んだ。たまらず吹き飛ぶ京一郎。ゴロンごろんと転がって動かなくなる。
先ほど、瑞穂との立ち回りの際に服用した薬の効果はまだまだ効いていた。一時的な身体能力と耐久力の向上をもたらす白い錠剤の福音。7人という数的有利。ギプス男たちの怒りは余裕と融合し嗜虐心を滾らせる。
「ひゃはっ、兄貴、スゲーじゃん。一撃必殺じゃね? ぴくぴく漫画見てぇに動いてるぜ」
「けっ。胸糞悪ぃ。おい、お前ら、好きなだけいたぶっていいぞ。そんで無理やり叩き起こして、ふんじばって楽しいショーの観客にしてやる」
ギプスチビと5人の男たちが倒れた京一郎の背中を蹴り始めた。最初は小突くような蹴りから、次第にサッカーボールでも蹴るような強さで全身をいたぶる。背中、脇腹、太もも、ふくらはぎ、腕、首、頭。蹴るのに飽きると今度は引っ張り起こし拳を叩きつける。再び転がし蹴り始める。そばに落ちていたエアガンで撃ちだす者も現れる始末だ。
「やめろ……。やめさせろ、ちくしょうッ」
瑞穂にとっては風景となったはずの、どんな目に遭おうが関係のないはずの男にもたらされたリンチ。ひどい冗談は最低の結果を伴って目の前に存在した。耐えられなかった。どう見ても暴力とは無縁そうな男が、集団でなぶられている。それも、瑞穂を助けるために飛び込んできて。
「あのサンドバックはお前の彼氏か? 残念だけど、五体満足じゃ帰れねぇなぁ。くく、まぁ、あれを見ながらするってのも一興だぜ」
再び迫るギプスと手。ギラギラと目を光らせてギプスノッポが瑞穂に触れようとした。
「ひゃはは、兄貴ずりーよッ」
ノッポの行動を眼の端にとらえ、チビが宴に加わろうとした。同じくギラギラと目を光らせ、瑞穂に迫ろうとする。
「ひゃ?」
しかし、ギプスチビは突然何もないところでバランスを崩し転んだ。
「くく、おいおい、何やってんだよ。そんなにあわてなくても獲物はここにいるんだぜ?」
「ひゃは、そうだよな。兄貴が抜け駆けしようとするから慌てちまったよ」
チビは起き上がり、一歩踏み出しまた転んだ。
「あれ――?」
二度目。今度は明らかな違和感を伴った。右足首が熱いのだ。
「おかしいな」
また立ち上がり、転ぶ。さすがにおかしかった。恐る恐る足首を見た。
「ひゃ……は? 俺のあし?」
確かに足首はそこにあった。だが、その向きはあらぬ方向へと向いてしまっている。
「うぅ、あ、あぁ、足、足が」
薬のせいで痛みの程度が認識できていなかった。薬がなければ、卒倒していたに違いないであろう痛み。認識してはいけない想像が、薬効の向こう側にある激痛をチビに連れてきた。
「痛ぇ、痛ぇよぅ、足、俺の足、足ぃーーー」
ジタバタとチビは転がり、叫んだ。
ありえない出来事に場が混乱する。ざわつく男たち。
「がぁッ!?」
ざわめきの中に、悲鳴が生まれる。男の一人が倒れた。全員の視線が一点に向く。
倒れ下を向いたままの目だし帽男の右手が、男の右足を掴んでいた。ギチギチと締め上げ、指を喰い込ませていく。
「あ、あぁああああ」
声にならない絶叫が男の口から洩れた。
「痛みの認識に時間があるな。やっぱり薬を使ってるのか」
ボソッとつぶやくと、目だし帽男――京一郎はゆらりと立ち上がった。
「そんなものに頼るから、自分の体に何が起こっているのかわからなくなるんだ。何かで聞いたことがあるだろう。痛みを感じるのは人間の自己防衛だって」
目だし帽から覗く口元の血を拭い、京一郎は手を広げ周りを見渡した。
足元ではうめき声をあげる男。数歩先では叫びながら必死で足をどうにかしようとしているギプスチビ。周囲では恐慌状態になりかけの不良どもが目を血走らせ、チビの向こうでは怒りに震える表情のノッポがいた。瑞穂は唖然とこちらを見ているようだった。
「なんなんだよ、てめぇは」
一瞬の沈黙に耐えきれずノッポが低く呟いた。
「その子の遠い昔の先輩だよ」
チラッと瑞穂の方を向き京一郎は笑った。
「冥王の先輩だぁ? まさか、てめぇも冥王かッ」
「冥王? その子が?」
驚いたように京一郎は言葉を返すと、合点したように手を叩く。
「確かに、あれだけの武勇伝を持っているのならそう呼ばれるのも無理はないか。なるほど、これはいよいよもって後輩だ。うん、しかし、まだあったなんて。懐かしいなぁ」
うんうんと、納得する京一郎。
「おい、おめぇら。いつまで突っ立ってやがる。クスリの効いたおめえらが束になればどうってことはねぇッ。さっさとそのスかした野郎をぶちのめせッ」
ノッポの怒号に量産型不良たちは一斉に構えを取った。だが、得体のしれない目だし帽の男を前に最初の一撃が踏み出せないでいる。
「だってさ?」
手を広げノーガードで京一郎はおどけるように言って見せた。それが引き金だった。
「アーッ」
左右から拳が飛んでくる。
後ろから力任せの蹴りが飛んでくる。
そのすべてが京一郎の左脇腹、右肩、背中に直撃する。
「――ッ」
蹴りを浴びせた男は青ざめた。これでも昔は格闘技に生きた者だ。道を外れ、ルールという縄から解放された自分にとって、目の前の男など紙切れ同然のはずだった。しかも、力が漲り、心が昂るあの薬まで使っているのだ。万が一などあり得ない。
「鉄球とか丸太がさ」
なのに。
「こう、四角い部屋の天井とかからぶら下がっているんだけど。それが、なんどもなんども迫ってきてさ」
目だし帽男は立っているのだ。
「ぶつかるわけだよ。何度も、何度も。それが特訓だったから」
コキコキと首を鳴らして、何かを懐かしむように喋るのだ。
「それに比べたら、君らの攻撃なんて――」
ヒュっと京一郎の体が回転した。
「まるでスポンジだな」
後ろから一撃を見舞った男の鳩尾がベコリとへこむ。
崩れ落ちる男の腕を京一郎はつかんだ。曲がってはいけない方向に力を込め、良心の呵責もなく力を込める。いやな音と共に悲鳴が沸き起こり男は地面に崩れ落ちた。
「くそったれッ」
仲間たちをほんのちょっとの動作で戦えなくした時点で力量の差は明らかだった。戦いにおいては自分より強い者を見極め、手を出さないのもまた一つの生き方だ。
だが、目だし帽男――京一郎はあまりにも普通だった。その気になれば、いつでも簡単に倒せてしまいそうな雰囲気があった。
高揚感は恐怖心と混ざりあい、まともな判断もつかない状態へと男たちを押し上げていく。
同時に飛びかかる三人の男たち。
薬効がありえないスピードを彼らにもたらす。まるでビデオのコマ送り。くるくるとせわしなく動き、せわしなく攻めの手が飛んでくる。
京一郎が掴もうとしても寸前で避ける。
「速いなやっぱり」
うんと、うなずくと京一郎は軽くステップを踏み動き出した。
京一郎が拳を突き出した。避けられる。蹴りを繰り出した。避けられる。掴みに行こうとした。避けられる。もう一度拳を突き出した。直撃。
クロスした腕が前と右、二人の男に向けられている。右腕はストレートの形。左腕は右腕の下を通り右側の男の腕を掴んでいる。前方の男は吹き飛び倒れた。
「双蛇の……型?」
繰り広げられる戦いの中で、瑞穂の驚きが言葉になる。滅茶苦茶な戦いの中で、見慣れた技がそこにあったのだ。
京一郎の左手が男の右手を掴んでいる。左手を引き、男を近づける。ストレートを放った右腕が裏拳の形で男の顔面を打ち付ける。そのまま右腕は男の下半身へ近づき、左太ももを掴んだ。勢いのままに男の体が回転し背中からコンクリートに叩きつけられる。
「な、なんで」
京一郎の一挙一動が、瑞穂の中の技と重なっていく。
今でこそ総合格闘技の看板を掲げているが、瑞穂の家は代々続く古流武術の流れを組んでいた。家伝によれば戦国の時代、武器を折られた雑兵が生き抜くために編み出した徒手空拳がその原型となったそうだ。武器を失ったその手に掴むのは刀ではない。戦場で一体複数を前提に編み出された打・投・極の技の数々、己一つを刀以上の業物にするための術だった。
あの回し蹴りも、あの投げも、あの関節折りもすべてが瑞穂の身につけた技と重なっていく。そして、ずれていく。より効率的に壊すために。過剰すぎる破壊の業。現代の護身用では不要とされたかつての姿が露わになっていく。
ノッポ男は眼前の光景を唖然と見つめていた。目だし帽男が何かしらの動きをするたびに仲間の体が破壊されていくのだ。曲げられ、折られ、捻られて次々と使い物にならなくなっていく男達。スピードで圧倒していたのも最初だけ。徐々に呼吸を合わせられ、タイミングを合わせられ、動きが殺されていく。仲間たちの必死の動きはただの滑稽な踊りに見えた。
最後の一人が腕の関節を外された。ぶらんと垂れさがる右腕。容赦なくその腕に蹴りを叩きこんで目だし帽男はノッポ男を振り向いた。穏やかと言っていいほどの瞳が、目だし穴から覗いている。しかしそれは出会ってはいけない瞳だった。どこの世界にあんな穏やかな目で、この凄惨な様を生み出すやつが居るというのだ。
ドサッと目だし帽男――京一郎の背後で最後の男が倒れた。周りではただ呻き声だけが聞こえている。薬の効果が切れたとき、彼らには今以上の痛みが襲ってくるはずだ。
「気の毒だ」
無造作に転がされたエアガンを拾うと、京一郎はノッポへ向けて歩き出した。
「痛みを感じないから自分が強くなっている。そう錯覚させるには十分な効果だったようだけど、実際は痛みを先延ばしにしているだけさ。今までの喧嘩くらいなら薬効が切れる前に痛みが弱まっているだろうけど、今回はそうはいかないな」
懐へ玩具をしまい込み、京一郎は歩を進める。
「く、来るな、来るんじゃねぇッ」
一歩近づかれるごとにノッポは自分の心臓が鼓動を速めていくのがわかった。目だし帽からのぞく目は相変わらず穏やかだ。
ちょっと脅してやればすぐにでも腰が引けそうなその男が、目の前の光景を作った。にわかには信じられない事実。あってはいけない現実。薬をくれた連中でさえ、ここまで底冷えするような光景を作れるだろうか?
「何を使ってたんだい? ブースト? それともルナティック?」
「なっ?」
そして男が口にした言葉は、ノッポを驚愕させた。
ブーストにルナティック。何れもノッポが提供を受けた錠剤の名称。精神を高揚させ、身体機能を高める某国軍の次期採用薬物だ。
「懐かしい。まだこんなものに頼っている連中がいるなんて」
「なつ、かしい……だと? ば、馬鹿な事を言うんじゃねぇ。そいつはまだ世間に出回ってもいねぇ代物だぞ。それをなんでてめぇが知ってやがるッ」
「知っているも何も」
さらに近づき京一郎は答える。
「10年前に、そいつの製造工場をぶっ壊したことがあってさ。あのときは結構大変だったなぁ」
「なにぃ……ッ」
「どっかの軍の採用品だって話でしょ? まぁ、当たらずも遠からずだけど、そいつに関してはとんだ粗雑品だよ。身体と心を蝕む狂気からの贈り物さ。まだ精製されてたのか、それとも過剰在庫だったのか、それとも――」
「だ、黙れッ。畜生、出まかせ言ってるんじゃねぇよッ」
「新しい薬のモルモットだったのか」
ノッポの頭は混乱していた。絶対安全と言われ渡された薬、安全性の確認された期待の新薬。昂揚し力がみなぎる素晴らしい薬。だけど、そうだけど。最近は何もなくても、そいつが欲しくてたまらない時があった。考えてはいけなかった不安。そいつがいきなり、目だし帽の言葉で肥大する。
「出まかせだ、畜生。俺らはモルモットじゃねぇッ」
威圧感などまるでない、間抜けそうな目だし帽が迫ってくる。口にする言葉はまるで冗談のようなことばかり。そして、冗談を真実にするかのような無言の弁舌――のたうち回り、体を壊された男たちの群れ。
「先生」
瑞穂の中に恐怖の感情はなかった。正確には驚きと疑問にかき消されていたといった方がいいのかもしれない。
恐ろしいまでの身のこなし。自らの家の流派と同じ型。しかし、門下生にあんな男が居たためしはない。
先ほど京一郎は言った。自分は瑞穂の遠い昔の先輩だと。
記憶を辿る。4月、最初の授業。眠気眼に聞いていた生物教師、風見京一郎の自己紹介。名前もろくに覚えていなかった瑞穂の中でほんのちょっとだけ引っかかったキーワード。
「卒業生……、明央の」
疑問の点が少しずつ繋がり始めていた。
裏通りの情報屋がかつて瑞穂に言った言葉。
「似ているって。私の戦い方が」
答えは喉まで出てきている。だが、それを口にするのは憚られた。だって、そんなことってあるだろうか。
「あの人と――」
あの人。
巷で囁かれる都市伝説の冗談めいた武勇伝に登場する明央生。
其れは畏怖を込めて囁かれる言葉遊び。
「――かはっ」
呟こうとした瑞穂の首が絞められた。
しゃがんだノッポの右腕が瑞穂の首を絞めている。ノッポは左手のギプスを地面に叩きつけた。石膏とともに鞘に入った幾つものナイフが現れる。腕はとっくに完治しているようだった。手近なナイフを拾い上げると、瑞穂の顔へ刃を向けた。
「そ、そこを動くんじゃねぇ。なんだかわけがわからねぇが、てめぇは危険だ。俺の薬に妙なケチをつけるんじゃねぇッ。無害そうな目で酷ぇことしやがるんじゃねぇッ」
「無害そうって……。勝手にイメージを決めつけられても困るし、事実を言ったまでだし」
「うるせぇッ。ちょっとでも妙な真似をしてみろ。こいつがどうなってもいいのかッ」
ジリッと瑞穂の眉間にナイフが迫ってくる。先ほどの注射といい、先端恐怖症にでもなったらどうしてくれるのだろう。身体はまだしびれていた。だが、先ほどよりはだいぶマシだ。それに、少しだけ力が湧いていた。一人じゃないという安心感。ヒーローのいない物語は終わりを告げたのだ。
瑞穂は瞳を閉じた。頭の上の方で、ノッポの荒い呼吸が聞こえる。何やら罵る汚らしい声を一刻も早く消してやりたかった。身体に力を込める。一度くらいなら満足に動けそうだった。眼を開ける。京一郎の目だし帽から覗く目と視線があった。穏やかな瞳。困った瞳。だけど、どこかに獣を飼っているような油断のならない視線。昼間とはまるで別人だ。風景から自分を助けに来てくれた酷く冗談めいたヒーロー。
瑞穂はふっと笑った。聞きたいことが一晩で随分できた。
「な、なんだ、てめぇ何笑ってやがるッ」
絞められた首ごと瑞穂は身体を沈めこんだ。同時に後ろ手に縛られた両手で地面を押しつけ反動で足から身体を浮かせる。しなやかに揃えられたつま先が弧を描くかのようにノッポの顔面を強襲した。
「う、があ!?」
流派「くずしろ」に伝わる捕縛時の奇襲体術。
「三日月だって?」
一瞬驚いた京一郎だが、瑞穂とノッポが離れた瞬間を逃すわけはなかった。
一歩で迫り、ノッポの首を掴み持ち上げる。
「詰めだよ、大将」
懐からエアガンを取り出し、京一郎はノッポの鼻先に近づけた。
「おっと妙な真似はしない方が身のためだよ。たかがエアガン、されどエアガン。玩具だからといっても使用には十分ご注意ください、だろ?」
鼻先に強引に突きつけられた玩具の凶器、耳元で穏やかに突きつけられた言葉の狂気。ノッポは目の前の玩具と男に同じモノを感じていた。ただの玩具、ただの男。だが、扱いを間違えればご覧の通りの状況だった。
違うとすればエアガンは本物の銃を模した玩具であり、男は一般人を模した本物の危険人物だった。
関わってはいけない類の人間、関わったとしても怒らせてはいけない人間。薬をくれた連中と同じ匂いをようやくノッポは感じることができた。
「質問いいかな?」
ユルッとそんな言葉が飛んでくるが、ノッポの耳にはまるで地の底から這ってくるような言葉に聞こえた。
「君らに薬をくれたのは誰だい?」
チャキッと映画でよくある拳銃を突きつけられたときの音がノッポの耳に聞こえた。無論空耳だったろうが、恐怖は映画のそれを遥かに上回っていた。
「し、知らねぇ。顔も、名前も知らねぇッ。本当、本当なんだッ」
あぁ、なんて映画通りのセリフを吐いてしまうのだろう。ノッポは冷汗と悪寒の中でそんなことを考えていた。
「あ、そう」
京一郎はそれじゃしょうがないと言わんばかりの表情で頷く。ノッポは胸をなで下ろそうとして、しかしなお一層顔を凍りつかせた。京一郎はその表情とは裏腹にエアガンの銃口をノッポの鼻先に押しつけてきたのだ。
「……独り言なんだけどさ。このエアガン、空き缶を打ち抜くくらいの威力はあるんだよね。で、まぁ、なんていうかさ。ちょうど君の鼻先につけたまま、俺がうっかり引き金を引いちゃったらどうなるんだろう」
見せつけるように京一郎は左手で二、三度引き金を引く真似をして見せた。まるで子供が注意書きで咎められた遊びをする時のような顔だった。無垢ゆえに取り返しのつかないことをしてしまう児戯の脅威。無垢をなくしたがゆえに取り返しのつかないことを想像してしまったノッポの脳裏。
「ま、待ってくれ! 話す、話すよッ」
ノッポは洗いざらいぶちまけた。夜の街で薄暗いコートに身を包んだ連中から薬を持ちかけられたこと。コートの連中は日本語の発音はうまいが、おそらく欧米系の人間であること。そして、自らを「影蛇の友人」と名乗ったこと。早口でまくし立て、途中何を言っているのかわからなくなったが、とにかくすべてを吐きだした。
「えいじゃ――シャドウスネイク、か。こりゃまた妙な連中が紛れ込んでるな」
右手で頭を掻きながら、京一郎はグリグリとノッポの鼻先に銃口を押しつけた。
「吸収合併でもされたのか、後始末が不十分だったのか。10年、地盤を回復するには十分すぎる年月だし。参ったな。知らなきゃ知らないで済んだのに。あぁ、もう」
グリグリ。右手の動きと連動して銃口が動く。意図的であるにしろないにしろ、解放されると思っていたノッポにとっては拷問以外の何物でもなかった。
「あッ」
うっかり京一郎は手に力を込めてしまった。カチッと乾いた音がした。引き金が引かれているのを見た瞬間、ノッポは口から泡を吹き意識を飛ばした。
「別に弾は空だったのに。……。まぁ、何はともあれ制圧完了。あなたの魂に安らぎがありますように」
申し訳なさそうに京一郎はノッポをコンクリートに寝かせ、合唱を捧げた。
「や、まだ生きてるじゃん。それに何教の祈りよ、それ」
京一郎の背後から透き通った声が聞こえてきた。
「桂木さん」
急いで振り向くと、頬を膨らまして瑞穂が京一郎を睨んでいる。
「ったく、人を放置して勝手に話すすめないでよね」
「す、すいません」
京一郎は心底申し訳なさそうに口を開いた。
「桂木さんはケガとかはない? 何かひどいことされなかった?」
先ほどまでとは違う狼狽したような表情が京一郎の顔に浮かび上がるのを見て、瑞穂は思わずクスッと笑った。
京一郎は慌てて瑞穂の腕の縄を解いている。
「大丈夫だよ。先生が助けに来てくれたし」
支えられ瑞穂は立ち上がった。痺れはどうにか治まっていたが、最後の蹴りでどうにも体力を使ってしまったようだ。フラッと揺れる身体を京一郎が抱きとめる。
「……」
「……」
一瞬、時が止まった。
これで京一郎が目出し帽さえ被ってなければ、随分ロマンチックにもなりそうなものだ。
「ぷ、くふふ」
思わず瑞穂は笑った。ホント、可笑しい人だ。その目だし帽のセンスには脱帽せざるを得ない。
「――?」
笑いの意図がよく汲み取れないまま京一郎は、瑞穂を連れて外へ出た。
木々の上に春の夜が広がっていた。スピカとアルクトゥールスがひときわ輝いている。京一郎は軽く星々に向かって頷いた。無言の報告。夜に生きる天文台のエージェント、スターゲイザー達の流儀。
また、違う目。今度のは穏やかだけど、どこか毅然とした態度が見て取れる瞳。猫の目のように変わるのは先生の方じゃないか。思いながら瑞穂は口を開いた。
「先生。さっきもそうだったけど。どっちが本当の先生なの?」
「いや、どっちとかそういうんじゃなくて。……って、違う、私は先生じゃなくて銀行強盗のコスプレをした通りすがりの旅の者です」
「や、声、声。バレバレっていうか。その格好で何したいわけ?」
「し、しまった」
手をジタバタ振りながら慌てふためくこの男が、後ろの工場に広がる光景を作り上げた。
ひどい冗談だ。何の漫画だ、何のアニメだ、何の映画だ。
だけど。
「先生、名前、もう一回教えてよ」
「え?」
「だから、名前」
「ひ、ひどい。いくら桂木さんの日常の中ではモブキャラだからって。名前も知らないだなんてあんまりだ」
「だから、聞いてるんじゃないッ。背景から主要人物に一気に昇格よッ。どんだけ光栄なのよ」
自分で言っていて瑞穂自身わけがわからなかった。
だけども。
京一郎は目だし帽を脱ぎ、空を仰いだ。そして、瑞穂へ振り向くとそっと言葉を紡ぐ。
「風見、風見京一郎。明央高校出身、出戻りの理科教師。趣味はバイクと天体観測」
明央高校2年7組
星見る教師と夢見る乙女
― Stargazer and Dreamer ―
聞きたいことが山のようにあった。
「風見、先生」
知りたいことが山のようにできた。
「助けに来てくれてありがとう」
出会いは始まり。
春、透き通った夜空の下で。
新たな物語が幕を開ける。
第一話 プルート、二人
END
「うぅ、キョウイチロー。シュークリームもってこーい。パフェ追加だー」
電気の落とされた廊下を老人は歩いていた。カツカツと自分の足音だけが足跡を残すかのようにリノリウムの床に響いている。
ふと半開きの部屋から明かりが漏れていた。
老人は、そっと扉を開くと部屋の主に呼びかける。
「アレックス、アレックス。なんだ、寝ているのかね」
デスクに涎でも垂らしそうな勢いで眠る少女に近付き、老人は手近な服を小さな背中にかけてやった。
「おや?」
ディスプレイに映像が浮かんでいる。暗闇の中、徐々に近づいてくる男女の姿。その中に見知った男の顔があった。
「キョウイチロー」
おそらくヘルメットに外部カメラが搭載されているのだろう。男の手が延ばされ、世界が揺れ、一瞬だけ満天の星空がディスプレイに浮かび上がった。
「天文台が誇る第一級スターゲイザー。プラネッツがロストナンバー――九番手――プルート」
通信コールが響いてきた。
老人はそっと待機返答のキー押してやる。少女を起こすのは忍びなかったし、何より自分が応答しては相手も肝を冷やすだろう。
「もう元気そうじゃないか。マーズの件、検討してみるかね。いや、それよりもあいつに教えてやろうか。きっと喜ぶ」
老人は小さく笑うと、そっと部屋を後にした。