庭に舞う蝶
煌々と明かりを灯す歓楽街のある居酒屋で新歓コンパが開かれていた。乾杯の音頭が行われてそれぞれが酒のなみなみ入ったジョッキやグラスを掲げると大いに声を張り上げて乾杯した。
「よーっし、今日は飲むぞー!」
体格のいい男が叫ぶとすぐに決まった合いの手が入る。
「いつも飲んでんだろ!」
「わははははははは」
楽しいひと時が流れていく。多くの男女がその場で様々な事を語らった。
大学一年生の吉田武志もその一人だった。彼は今、引くに引けない状況に陥っていた。目の前にはサークル内のみならず校内で一番の美人と名高い須藤千秋がいたのだ。
校内のほとんどの男子が彼女とすれ違うと振り返った。誰もが認める美人だった。
長い黒髪には艶があり、透き通った瞳には潤んだような光があった。穏やかな表情は母性を見せて男をくすぐる。スマホを操る仕草まで育ちの良さが出ていた。
武志はどうしてこんなサークルに彼女のような女性がいるのか分からなかった。
「ねえ、休日は何して過ごしてるの?」
千秋の隣に座った男が尋ねた。
「うーん、本読んだり、映画を見に行ったり、友達と買い物に行ったり、かな」
「へー、ブランドは好きなのある?」
「ブランドのこだわりはそこまで強くないかな。見て触って合わせてみてそれで良さそうなら買うの」
「けど、今日着てるのってけっこう良い服じゃない?」
「そうでもないよ。普通の服だと思うけど」
男たちはそんな事を聞きながら半信半疑の目を千秋に向けた。その様子に耐えかねた千秋は口を尖らせて言った。
「もー、本当に大したものじゃないから。定価の半額以下で買った物だし、それに買ったのだって去年の春だよ」
拗ねたように見せる表情を見ると新しい一面が見えたような気がして男たちも静まった。
「映画のジャンルは何が好き?」
また別の男が千秋に尋ねた。が、答えたのは数名いる。
「俺、サスペンス」
「俺はスカッとするアクションだな」
「SFが一番面白いって」
武志もその中にいた。映画は人よりも見てきたという自覚が彼の背中を押した。
「いろいろあるね。けど、私は………」
「待って、当てる!」
服について尋ねた男が指一本を千秋の目の前に立てて言った。驚いた千秋はキョトンとした顔をしたが、すぐに微笑んで「いいよ、当ててみて」と受けた。
「よーっし、じゃあね」
男は考え込んだ。素振りをしているように見える。皆が注目していたが武志は男に目を向ける千秋を見ていた。
「ホラーだ!」
「うーん、惜しい。ホラーも結構好きだけどね。映画好きならホラー好きは多いでしょ。違いまーす」
「じゃあ、ドラマ?」
「違うね」
他にもたくさんの映画のジャンルが挙げられたが彼女の好きだというジャンルを当てる事はできなかった。観念した男が「じゃあ、何が好きなのさ?」と尋ねた。
「私の勝ちね。けどまあ、ラブロマンスとかディズニーを最初に出さなかっただけまだ良かったよ。私が好きなのは西部劇です!」
一同は一斉に「分かんねーよ!」と笑って降参した。
「楽しいよー、西部劇。すっごい好きなの。『三時一〇分、決断の時』、『荒野の用心棒』、『明日に向かって撃て』とかたくさんあるんだ」
「今度、映画でも見に行こうよ」
武志が最初に千秋を誘った。先手を打たれた二人の男は驚きに目を見張り、我も我もと誘いをかけていく。
「いいよ、けど本当に行きたいときは私から誘うから。その時はしっかりと来てね」
千秋は笑っていた。
二人は「もちろん!」と答えたが武志はすぐに答えられなかった。
後日、千秋の家で誕生日会が開かれる事になった。武志も誘われたことを嬉しく思ってプレゼントを奮発した。
渡した時の千秋の可愛さを武志は脳裏に焼き付けた。
千秋の自宅は豪邸と呼べるほど広かった。大きな玄関は祝うためにやって来た同級生たちが一度に入り切ってしまうほどで集まった一同を委縮させた。
「今日はみんなありがとう」
千秋の部屋に入ってプレゼントを渡し、祝って写真を撮り、ケーキを食べた。次回の遊ぶ約束を交わしてスケジュールを埋めていく。
「大きな庭があるね」
大騒ぎの渦中から窓際に離れた千秋に武志が話しかけた。
「うん、あれはお婆ちゃんが手入れしてるのよ。毎年の母の日にはカーネーションの種をあげるの。向こうに咲いてるのが去年のよ。今年はまだ植えてないけど」
「すごいね。たくさんある。ここからの眺めが一番きれいじゃない?」
「うん、じつはそうなのよ。私の部屋は絶好のスポットなの。私だけの秘密だったのにな」
秘密が知られてしまったと千秋が照れたように笑うので武志はそれに見惚れた。
「本当にきれいだと思うよ。あ、蝶が飛んでる」
「え、どこ?」
窓際で二人は肩を並べて同じ場所を見た。触れ合うほどに千秋の顔が武志に近づいている。武志はかつてないほど鼓動が高鳴った。武志は蝶よりも千秋の横顔を見た。今、もし彼女が振り返ったらと考えがよぎると武志は自分が心底から千秋に惚れ込んでいることを知った。
「私ね、蝶が大好きなの」
それを聞いて武志は蝶を象ったプレゼントを持って告白する決意を固めた。
美しい庭が見える。蝶がひらひらと花の上を舞っている。葉の上に停まってゆっくりと羽を開いては閉じるのを見ていると魔法にかけられたように時間を忘れてしまう。
武志は酒を飲んだ酔った気分で窓際で過ごしていた。時に会話に飽きて外を眺めると美しく広い庭を見た。心が安らいだ。
千秋は輪の中心で笑っている。武志には眩しすぎる光景だった。長い時間を千秋の部屋で一同は過ごした。
日が沈むころに解散となって帰路に着いた。
月を跨がずにたった数日で再び千秋の自宅でのパーティーに招待された。前回と同じメンバーが呼ばれていたが武志は行けなかった。
ひどい風邪にかかっていて高熱が出ていたのだ。その旨を告げて誘いを断ると「そっか、お大事にね。また明日も調子悪かったらみんなでお見舞いに行くよ」と千秋に気を遣われるとひどく落ち込んだ。
その夜、武志はうんうんと呻きながら孤独に過ごした。みんなが千秋の自宅で楽しく過ごしていることばかりを考えて疲れた曇った思考で星に願った。
「ああ、蝶になって彼女の元へ飛んでいきたい」
願いを口にしながら武志は眠りに就いた。
翌日の朝、武志は解熱して身体が楽になり、すっきりとした晴れやかな表情で目を覚ました。前日の辛さが嘘のように良くなっていたので武志は悔しがった。
立ち上がって伸びをすると武志は口の中が異様に甘ったるく、粘っこいことに気が付いた。非常に喉が渇いている。
「口呼吸になってたのか」
喉元を撫でながら武志は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと飲み口を開けた。口を付けようと近づけていくと武志の喉の奥から口吻が伸びてきて水を吸い上げていく。十分に喉が潤うとミネラルウォーターを片づけた。武志は異常な光景に全く気付いた様子もなく学校へ向かう支度を始めた。
学校に着いたが武志は千秋を見つけられなかった。一昨日のメッセージのお礼を言おうとしていた。「元気をもらった気がするんだ」と伝えるつもりだった。
ようやく千秋の友人を見つけて話を聞くとどうやらかなり落ち込んだ様子で学校にも来られないほどショックなことがあったらしい。
「何があったんだ?」
「それがね、庭の花が全部、枯れちゃったんだって」
「庭の花が?」
「そう、千秋って庭の花をすごい大切にしてたから。ショックなんだと思うよ、電話で話したら泣いてたもん」
武志は話を聞いていてショックを受けた千秋に同情した。
「また明日にでもみんなでお見舞いに行こうかって言ってるの。病み上がりだけど武志くんも行くでしょ?」
千秋の友人が離れていく武志の背に聞くと項垂れた頭がかすかに動くのを見た。
その夜、武志は自宅の窓を開け放しにして立っていた。
涼しい風が部屋の中に入り込んでくる。武志は一歩前に踏み出した。右手にはミネラルウォーターを持っている。口を付けるとやはり喉の奥から口吻が伸びてきて水を吸い上げた。
「出来る気がする。やれる気がする」
武志はベランダに出ると縁に手を乗せて体をぐいと持ち上げた。一息にその上に立った。
「羽がある気がするんだ」
そして彼は二階から飛び立った。向かう先はあの美しい庭。