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「本当にありがとうございました。ほら、まあくん。お姉ちゃんにお礼を言いなさい」
「お姉ちゃあん、ありがとー」
涙で顔をぐしょぐしょにしたお母さん。それに引き換え男の子は天真爛漫だ。自分がどれだけ恐ろしい場面にでくわしたのか、まったく気づいていない。
ちなみに鹿は仲間同士で頭をぶつけ、その衝撃で正気に戻ってくれた。「あれ。俺、なにしてたんだろう?」とでも言いたげな顔で。そしてきょろきょろとあたりを見るや、仲良く固まってどこぞへと消えていった。それを機に人だかりも解消し、もうあたりは平常に戻っている。
「本当に、本当にありがとうございました」
「お姉ちゃん、ばいばーい」
親子が仲良く去っていくのを見送る。
二人の姿が遠くなるや、わたしは急いでさっきの現場へと戻った。そしてためらいなく地面に這いつくばった。ちぎった消しゴムを回収するために。
「先輩、いたら返事してくださいよー」
ささやきながら、小石と小石の間とか、溝の間なんかをくまなくチェックしていく。
どうか先輩が食べられていませんように。せめて一つくらい残っていますように。そう祈りをこめながら。
でもなかなか消しゴムのかけらは見つからなかった。
ずっと探していたら、地面についている手のひらも、制服のスカートの裾からのぞく膝も、刺すような痛みを感じ始めた。それでも消しゴムは一つも見つからなかった。
ぽたん、と涙が渇いた地面に落ちた。
涙が吸い込まれるよりも先に、ぽたんぽたんと、新たな涙が落ちていく。
「ううっ……」
声が出そうになって歯をくいしばって耐える。
「うううっ……」
わたしには泣く権利なんてない。その権利があるのは消しゴムだ。身を挺して危機を救ってくれたのは消しゴムで、わたしは消しゴムを犠牲にしたずるい人間なのだから。
でも涙は止まらなかった。
彼にあげた消しゴムは今も彼のもとで生きている。でも鹿に食べられた消しゴムは……さすがに……。
「うううっ……」
もうどうしたらいいのかわからない。
「ううっ、うううっ……」
「どうしたの?」
聞き覚えのある声に顔をあげると、そこには彼の姿があった。彼の後ろには班のみんなもいる。誰もが心配げにわたしを見つめていた。
「け、消しゴムが……」
さっきのお母さんよりもひどい泣き顔で訴えるわたしに、彼は少し不思議そうな顔をした。
「消しゴム? 落としたの?」
「落としたっていうか……」
言葉につまった。
すると彼は背負っていたリュックから筆箱を取り出した。そしてわたしに「はい」と消しゴムをくれた。
「これ……?」
「うん。木下さんにもらった消しゴム。ずっと返してなかったよね。ごめん」
「ううん、これはあげたものだから」
とっさにかぶりを振ってしまった。すると彼はわたしの両手を消しゴムごと握りしめてきた。
「今度は僕が木下さんを助けてあげる番だから」
そう言ってわたしを優しく立たせてくれた。
「さ。落ち着くまであっちのベンチに座ろう? あ、みんなは先にお昼食べてて」
これにみんなが揃って不満顔になった。
まずい、と思った。みんなはわたしのことを悪女だと決めつけているし、佐々木さんの次は彼にターゲットを変えたと思われているに違いない。
「あ、あの」
わたしのことはいい。だけど彼にこれ以上迷惑をかけたくない。みんなにも嫌な思いをさせたくない。そう思ったら声が自然と出ていた。
「佐藤さん。それにみんなもごめんね」
するとみんなの顔がさらに渋くなった。
「なんだよそれ。俺が先に言おうと思ってたのに」
いがぐり頭の栗田くんが鼻をこすりながら言う。
「……え?」
「そうよ。私達の方こそ無視しちゃってよくなかったのに」
ふりふりポニーテールの桑田さんが唇をとがらせて言う。
「木下。ごめんな。俺たち、当事者でもないのに勝手に正義の味方ぶっちゃってた」
フチなし眼鏡をかちゃかちゃ動かしながら小綿くんが言う。
「木下さん。私の方こそごめんなさい」
佐々木さんの目にうっすらと涙が浮かんでいる。
「嫌なことをしたのは私なのに、木下さんばかり悪いみたいな雰囲気にしちゃって、それを変えようともしなくて。ほんとごめんなさい」
だから、と佐々木さんがみんなに目配せする。
そして声をそろえて「みんなで一緒にお昼ご飯食べよう!」と言ってくれた。
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