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翌日も班のみんなとの関係は好転しなかった。
わたしが謝らないのだから当然といえば当然なのだが。
いや、それどころか状況は悪化していた。
今日も班ごとに寺社を巡っているのだけど、わたしはみんなに空気のように扱われていた。
何度か彼からもの言いたげな視線を感じた。けれど気にしないように努めた。彼に迷惑をかけたくなかったし、同情されたくもなかった。……きっと班長ゆえの責任感でもってわたしのことが気になるのだろうけど。
そして、今。
公園でみんなが鹿にせんべいをあげている間もわたしは一人でベンチに座っていた。誰も誘ってくれなかったし、自分から混ざりに行く気にもなれなくて。そろそろ正午だけど、このままだとわたしは一人で弁当を食べるはめになりそうだ。
「ううう……」
しかも、鹿せんべいを手にしているのに、鹿ですらわたしに寄ってこないときた。辛気臭い顔をしているせいだろうか。それとも今のわたしは嫌われ要素マックスなのだろうか。ずっと握っていて湿気ってしまった鹿せんべいをベンチに置き、手をぱんぱんと払う。
そしてわたしの手は自然とリュックの中に入っていった。取り出したのは、もちろん筆箱。弁当でも水筒でも、ぱりぱりの鹿せんべいでもない。
「……せんぱーい」
消しゴムは昼間はよっぽどのことがない限りしゃべることも動くこともない。それでも消しゴムだけが今のわたしの心の拠り所だった。
「……謝るって、どう謝ったらいいんですかー」
消しゴムは当然何も言わない。
でも……それでもいいから話しかけていたかった。
「もう彼と仲良くなる以前のピンチですう……」
そっと額に手をやると、にきびはちょっと硬くなっていた。このにきびさえなければ今頃は……と詮無いことを思う。でもにきびはここにある。現実から目を背けることはゆるされないというわけだ。
あらためて手のひらの中の消しゴムを見つめた。
わたしがこの手で半分に割った、消しゴムを。
わたしという人間はひどく利己的なのかもしれない。そんなことを唐突に思った。彼にいいところを見せたくて、先輩の体を真っ二つに両断したのはこのわたしだ。そして今はちっぽけなプライドが邪魔をして謝れずにいる。たかがにきびのことで。
でも……彼はにきびの有無で女子を好きになったり嫌ったりするような人ではないと思う。
うん、絶対にそうだ。昨夜だって彼はわたしのことを心配してくれていた。わたしのことは急に足を触ってくる変態だと思っているはずなのに。
「……このまま彼に迷惑をかけっぱなしで本当にいいの?」
ぎゅっと、手のひらに消しゴムを握りしめる。
「……このまま修学旅行が終わってしまっても、いいの?」
昨夜の風呂上りの彼を思い出すだけで喜び満たされていたら、わたしは本当にただの変態になってしまう。
「……行動するなら、今しかないんじゃないの?」
と、その時。
地響きのような低音のリズムが聞こえてきて、視線をあげるや――唖然とした。
「な、なんなの……?」
唖然とするしかなかった。
「……鹿?」
鹿が見える。
いや、数頭、数十頭どころの話ではない。それくらいでは驚かない。千はくだらない鹿がものすごい勢いでこちらに向かって駆けてきているのだ。
「ななな、なんで?」
「理由なんてどうでもいいでしょうっ?」
「先輩……!」
汗ばんだ手のひらの中で先輩がぶるぶると震えた。しかしそれは恐怖によるものではなかった。
「ほら、早く逃げるのよ! あれだけの鹿に突進されたら、あなた、無事じゃすまないわよ!」
もう一度、わたしを叱咤するために消しゴムが大きく震えた。
ここでわたしの頭が瞬時に結論を導いた。鹿の大群はまっすぐにわたしに向かってきている。ということは、わたしは真横に逃げれば回避できるはずだ。
立ち上がるや九十度回転し、走り出す。
するとなんということか、鹿までもが進行方向を変えてきた。つまり、わたしの方に。
「なんでえー?」
「いいからさっさと走りなさいっ!」
「はいいーっ!」
消しゴムの檄に、速度をあげつつ念のためもう一度進む方向を変えてみる。やっぱりというかなんというか、鹿はわたしに合わせた焦点を変えるつもりはないらしく、速度をゆるめることなく猛然と駆けてくるではないか。
「まずいまずいまずい……!」
この状況でしゃべりながら走るのはよくない。でもしゃべらずにはいられない。
「このままだと追いつかれちゃうよー!」
鹿のくせに、いや鹿だから中三のわたしよりも断然速い。
必死で逃げるわたしのことを周囲の人たちはぽかんと見ているだけだ。いや、あっけにとられているのだろう。鹿と戯れていて状況が悪化しただけのように見えなくても……ない。ほら、犬に追いかけられている子供みたいな?
「せんぱーい! 助けてくださーい!」
「こんなときに消しゴムにできることなんかあるわけないでしょうっ?」
「あ、それもそっか」
納得する。
でも現実問題、このまずい状況を打破しないわけにはいかない。
というか、もうすぐそこまで鹿が来ている。石の歩道で蹄が鳴る音がやけに大きく聞こえる。荒い鼻息が至近距離で聞こえる。鹿に突進されるまであと一分もないだろう。それがわたしの命が尽きる時だ。あれほどの大群、どれほど能天気なわたしでも怪我で済むとは到底思えない。
「どこか逃げ込める場所はないのっ?」
「確かに!」
このまま走っていても逃げ切ることは不可能だ。受験勉強は死ぬほどいやだと思っていたが、鹿にぶつかって死ぬくらいなら受験勉強の方が絶対にいい。佐藤さんにだって何回でも謝る。土下座してたっていい。今の状況よりも……よっぽどいい!
と、わたしのすぐ後ろを保育園児くらいの男の子がとてとてと駆けていった。
「わーい、鹿さんだあ」
ちょっと舌ったらずな声が耳に入り、とっさに振り向くと、男の子は両手を前に出して鹿の大群に突っ込んでいこうとしていた。
「まあくん……!」
お母さんらしき女の人の絶叫が聞こえた。
先陣を切る鹿と男の子の距離は、ざっと二、三十メートル。いや、もっと近いかもしれないし遠いかもしれない。でも正確な数字なんてどうでもいい。男の子の甘ったるい声と、男の子に襲い掛かる鹿の群れと、女の人の絶叫と。この三つがそろった瞬間、わたしの体は自然と動いていた。
きゅっとかかとに力を入れ、その場に急停止。
そうしながらも手の内で消しゴムがまとうカバーを破りすてていた。
「先輩!」
「分かってるわ!」
「……ごめんなさい!」
「いいのよ、やっちゃって!」
以心伝心、阿吽の呼吸。わたしが何をしようとしているのか、先輩にはお見通しだったらしい。
男の子を追いかける。
そうしながらも消しゴムの体をちぎっていく。
今回は真っ二つなんて生易しいものではない。ぶちぶちとちぎっている。そして手のひらに蓄えた消しゴムの分身、総勢五体。その五体を、男の子を背にかばうや、鹿に向かって一気に放った。
きらきら――。
強い日光に照らされながら、消しゴムの白い体が弧を描いて鹿の大群の中へと落ちていく。
これは――賭けだった。
さっきまで鹿せんべいを握っていたわたしの手にはまだ鹿せんべいのにおいがついている。カスだってついていたはずだ。そしてずっと握りしめていた消しゴムの体にもそれらがついていないわけがない。
だから、消しゴムを鹿に向かって投げた。
消しゴムの体をちぎったのは、その方がたくさんの鹿の注目を集めそうだから。それと消しゴムを食べてしまった鹿がいても体に悪影響がないように。……こんなときだというのにそこまで考えてのとっさの判断だったのである。
でも作戦は成功した。すべての鹿が足を止めたのだ。そしてそれぞれがそれぞれにもっとも近い消しゴムに猛然と突っ込んでいったのである。
粉塵が宙に盛大に舞った。
*
当たり前ですが、実際に鹿に消しゴムを投げてはいけません!