2
「うぎゃー!」
母に体をゆすられて目を開いたら、まさかの寝坊をしていた。
「もう! どうして起こしてくれなかったのよ!」
興奮しすぎてなかなか眠りにつけなかったから、寝坊したのは自業自得なのだろう。でも誰かに責任転嫁をしたいのがこの年頃の女の子なわけで。
あわてて制服に着替えて洗面台に行く。どんな事態でも鏡の前で笑顔の確認は欠かせない。だけど鏡面を見るや、「ぎゃー!」と叫んでいた。
「に、にきびが……!」
思春期女子の敵、にきびがおでこの真ん中にぽつんとできているではないか。
「どどど、どうしよう……!」
恋をするときれいになるはずが、その真逆だ。
だけどもうほんとに時間がない。急いで髪をとかし、にっこりと笑う。うん、にきびはあるものの今日もわたしの笑顔は最高だ。それから食パンを口にくわえて走る。とにかく走る。
集合場所である駅には全クラスがほぼ集合していた。急いで列に加わったが教師の目はごまかせなかった。
「木下、遅いぞー」
「すみません! あ、みんなもごめんね」
同じ班の人たちを見つけるや近づいて頭を下げる。
と、一同、わたしの顔を見てぷぷっと噴き出した。
「あはは! 本当に食パンを口にくわえて走ってくる人がいるんだ!」
「しかも髪、ぼさぼさー!」
女子の一人、佐藤さんが「急いで来たんだね」と、わたしの前髪をなでつけてくれた。佐藤さんはわたしが好きな彼、沢村くんと出席番号が同じで、何かあるたびに彼と組んでいるから、勝手にライバル視している。その佐藤さんの目がまん丸になった。
「うわあ。大きなにきびだねえ」
佐藤さんの一言に班員の視線がわたしの額に集中した。その中にはもちろん彼もいる。
「やめて……っ!」
ぱんっ……。
反射的に払った手は思いのほか強く佐藤さんの手を打ち、そして大きな音を立てた。
「痛いっ!」
佐藤さんが胸元に手を引き寄せる。
まずいことをしてしまった、とすぐにわかった。
「あ……」
「ごめんね」
佐藤さんに謝られた。だけどわたしの頭はフリーズしていてうまく動かなかった。言葉も出てこなかった。
*
「ううう……」
「まったく、いつまでそうしてるのよ」
「だって、だって……」
初日はあっという間に過ぎ、今はホテル、しかも夜。入浴の時間だ。わたしは一人早めに風呂から出て、ホテルのロビーの隅の方で消しゴム相手に今日の報告をしていた。
「修学旅行、すごく楽しみにしてたのに……」
佐藤さん含め、班のみんなとは普通に会話ができる仲だったのに、今朝の一件のせいでぎくしゃくしてしまった。新幹線の中でもその空気を解消できなかった結果、現地、奈良についてからもずっと気まずいままでいる。
佐藤さんは自分が悪かったという態度をとってくれているけど、他のみんなは手を叩かれた佐藤さんに同情していて……少なくともわたしにはそのように感じられた。
「その佐藤さんていう子に謝っちゃえばいいのに」
手のひらの上では消しゴムがけだるげに寝転がっている。修学旅行中に知り得たことをメモするために全員筆記用具は持参していて、わたしはそこにいつものごとく先輩を忍ばせていた。
ちなみに恋人の付箋紙はお留守番だ。必要ないし。消しゴムも「たまには恋人のいない夜もいいわよね」だなんて乗り気でついてきてくれたのである。
なのに……わたしがこうもグズグズしているから、さすがの消しゴムも興ざめしている。
「謝れば済む話だと思うのにどうして謝らないわけ?」
「……それができたら苦労しないですよ」
今朝、佐藤さんに謝ってもらった際にわたしからも謝っておくべきだったのだ。だけど彼の前で額のにきびに言及されたこと、それに払った手の感触や音に我が事ながら驚いてしまい――それで何も言えず、結果、わたしは謝るべきタイミングを失ってしまったのである。
「でも謝らないかぎり明日も同じ状態が続くわよ?」
消しゴムの正論にぐっと息がつまる。
「それはそう……なんですけど」
「いやあねえ。女たるもの、もっとしゃきっとしなさいよ。恋をする以前の話よ」
「そうしたいん……ですけど」
「ああもう!」
手のひらの上で消しゴムが十センチほどぴょこんと跳ね、立ち上がった。そしてまたも跳躍し――消しゴムの飛び蹴りがわたしの額の中央、にきびに命中した。
「いたあっ!」
めっちゃ痛い。
めちゃくちゃ痛い。
でも涙目のわたしが口を開くよりも先に――。
「木下さん?」
名を呼ばれて顔を上げると、そこにはなんと彼がいた。しかも風呂上りだと一目でわかる姿で。
「どうしたのこんなところで」
ぽたん、と彼の前髪の先からしずくが落ちた。
それとともにわたしの胸がどきんと跳ねた。
「誰かと話してたの?」
きょろきょろと周囲を見る彼の髪から、ぽたんぽたんとしずくが散った。
わたしの胸もどきんどきんと高鳴っている。
「あれ。誰もいないね」
彼が少し身を乗り出し、石鹸の香りが鼻先をかすめた。
興奮で頭に一気に血が昇った。
「な……」
「な?」
ほんのりと赤くなっている彼の頬が近づいてくるものだから――。
「なんでもない……!」
叫ぶや、わたしはその場から脱兎のごとく逃げたのだった。手で顔を覆ったのは鼻血が出てきそうで怖かったから。
*




