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そんなある日、奇跡とも思えるラブのフラグが立った。
その日、朝から小テストがあった。
全員の机上にあるものが筆箱だけであることが確認されるや、前の席から後ろの席へとテスト用紙が配られていく。
と、斜め前に座る彼が、頭をかき、困ったようにつぶやくのが聞こえた。
「まいったな。消しゴム忘れた……」
そうそう、これこれ。
これぞ鉄板、物を貸し借りしたことをきっかけに二人の男女が親しくなり、やがて恋におちるというパターン。
周囲に先を越されまいと、わたしは急いで筆箱をあけた。
だが血気盛んにひらいた筆箱の中には――絶望しか見当たらなかった。
消しゴムが一つしかない。
しかも消しゴム先輩一つしかない。
この消しゴムと会話するようになってから、わたしはこれとは別の黒い消しゴムを使うようになっていた。なぜなら、先輩の身を削ることに罪悪感をおぼえるから。これ以上汚すことが申し訳なくなるから。
たぶん黒い消しゴムのほうも、刺激の仕方によっては同じように動き語るようになるのだろう。だが幸いなことに、黒い消しゴムはいまだ沈黙を保っており動く気配もない。だから安心して使うことができていた。
なのにテストのある今日にかぎって黒い消しゴムを家に忘れてきてしまったのである。
もうラブだなんだと言っている場合ではない。このうっかりミスにより、受験生にとってもっとも優先すべきテストに支障がでるのは明らかだった。
どうしようどうしよう、と下を向き額に汗が浮かびだしたそのとき、わたしの耳が聞きなれたその声をとらえた。
「……いいわよ。私を存分に使いなさいよ」
はっとして筆箱の中を見ると、消しゴムはただの消しゴムのままだった。
聞き間違えたかと思う間もなく、またその声だけが聞こえた。
「いいのよ。私は消しゴム。私は文字を消すために生まれてきたの」
「で、でも」
「私から消しゴムであるというプライドを奪わないで。消せない消しゴムなんてもう消しゴムじゃないわ。ただのゴムのかたまりよ。味のないチューイングガムのほうが噛めるだけよっぽどまし。そうでしょ?」
「せ、先輩……」
涙ぐみそうになるわたしに、消しゴムはさらなる大胆な提案をしてきた。
「さあ、このテープをはずしなさい」
それはまっぷたつに割れた消しゴムの胴体を繋ぐセロハンテープのことであった。
それを提案してくるということは、消しゴムは先ほどのわたしの好きな人のつぶやきを耳にしたのだろう。
「で、でも、これをはずしたら先輩は」
「大丈夫。たとえ私の体が二つに別たれようとも、私が消しゴムであることには変わりはないわ。それに消しゴムを割って好きな人にあげるなんて、最高にロマンチックじゃない。消しゴムだってロマンは大切にするのよ」
「先輩……」
「さあ、どーんとやっちゃって」
ころん、と消しゴムが筆箱から転がりでてきた。
まるでまな板の上の魚のように、消しゴムはテスト用紙の上でじっとその時を待っている。消しゴムからは覚悟のほどがびしばしと感じられる。
わたしは震える手で消しゴムの体をケースから取り出し、操り人形のようにその身にまとうセロハンテープを剥いでいった。くるくるくる。くるくるくる。消しゴムはその身を回転させながらテープを脱いでいき、気づけばその純白の裸身だけとなっていた。ただし、まっぷたつの、だ。
その白の眩しさに涙がじわりと浮かんだ。
わたしはなんとか涙をこらえ、ぎゅっと消しゴムを両手で握った。
ありがとう。
ありがとう。
限りある時間で、気づけば何度も心でとなえていた。
言わずにはいられない言葉には魂があるのだと思う。
気のせいかもしれないが、手のひらの中で消しゴムが笑った気配を感じた。
その身を小さく震わせ、にっこりとほほ笑んだような気がした。
今、わたしは世界でもっとも小さな聖人とともにいるのではないか。頭に浮かんだその発想は、普段であれば大げさだと一蹴するところだが、今のわたしにはそれこそが真実に思えた。
こんなに美しい生を歩む者が他にあろうか。
己の信念に従い真っ直ぐに生き、わたしのような不肖の後輩のためにその身を割り、汚し、捧げ……。
人間にだってそうそう達成できる生き方ではないだろう。
しかも先輩は消しゴムなのだ。
ああそうだ、人間だから高尚なわけでもなく、消しゴムだから消耗品というわけでもないのだ。心一つで誰もが何者にでもなれるのだ。まだ未熟なわたしだけど、その重要な悟りだけはしみじみと理解できた。すべてはこの消しゴムのおかげだった。
だからわたしはこの消しゴムにかたく誓った。
わたしも先輩のように真っ直ぐに生きます、と。
先輩のように生きます、と。
「後ろまで用紙は回ったかあ」
わたしの熱い内面とは正反対の、気だるげな教師の声にはっと我に返った。
斜め前を見ると、彼は今も困ったような表情をしている。
わたしは勇気をだした。
「ねえ、消しゴム半分あげようか」
*
先輩、見てますか。
わたし、ちゃんと声をかけられましたよ。
好きな人に消しゴムをあげることができましたよ。
すごいでしょ?
だから先輩、安心してください。
もう先輩がいなくても大丈夫です。
先輩がいなくなるのは悲しいけれど、わたし、一人で頑張りますから。
だから先輩、ゆっくり休んでくださいね。
空からわたしのことを温かく見守ってくださいね。
先輩――ありがとうございました。
本当に本当にありがとうございました。
わたし、絶対に先輩のことを忘れません。
絶対に忘れません……。
「だからさあ、何よそのお涙ちょうだい的な思考は」
そして今夜もまた学習机の上では変わらぬ光景がある。
文房具たちはわいわいがやがや、騒がしいことこのうえない。
そしてその中心には――半分になった消しゴムもいた。
「私が死んだと勘違いした? ばかねえ、前にも同じようなことがあったじゃない」
今日、家に戻ってから、わたしはずっと部屋にこもっていた。ベッドにつっぷしたとたん、ここまで我慢していた涙腺がもろくも決壊したのである。それほどまでに消しゴムとの別離が堪えていた。
これほど泣いたのはいつだったかというくらいたくさん泣いた。夕食もとらずにわんわんと泣き続けた。泣き疲れ、気づいたら眠っており、目が覚めたら深夜に近い時間帯になっていた。
そして顔を上げ、重い瞼を向こうにやったところ、文房具たちが動き回る様子が目に飛び込んできたのである。
それはもう仰天した。
なぜなら、半身になった消しゴムが普通に動いて言葉を発しているから。ぱっちりとした目が全体的に縮小されているが、そのデフォルメはやはり先輩と呼ぶ唯一の消しゴムのものだ。
消しゴムに飛びつき、頬ずりし、おおいおおいと歓喜の涙を流すわたしに、消しゴムはあっけにとられていた。が、やがて落ち着きを取り戻してきたわたしがぽつぽつと語った話に、消しゴムはくふくふと笑ったのだった。
消しゴムは二つに分裂しても死ぬわけではない。その事実を指摘され、確かに同じ過去があったことを思いだし、わたしはとたんに恥ずかしくなった。子供のように取り乱して泣いて馬鹿みたいだ。
そう言うと、消しゴムは「いいじゃない馬鹿だって。そういう馬鹿は好きよ」と、惚れてしまいそうなことを軽々と言ってのけた。
「それで例の彼とはどうなのよ」
「はい、無事に消しゴムを渡せました。ちょっと驚いていたけど、ありがとうって言ってくれて、それに手渡しするときにちょっと彼に触っちゃったんですよお」
「あらまあ。私が死んだと勘違いしていたくせに、ちゃっかり興奮してたってわけ」
冷めた目で見られ、わたしはえへへと笑ってごまかした。
「だってちゃんと会話したのも初めてなのに、さ、触っちゃったんですよ! 肌に直にっ!」
「はいはい。分かってるわよ。私もその場にいたし、見聞きしているから知ってる。で、他にはないの」
「え?」
「うんもう。だから、他にはないかって訊いてるのよ」
「……いえ? 特には」
「もう! そんなんじゃいつになったら恋は進展するのよ!」
いきり立つ消しゴムに、「でも」と言うと、「でも何よ」と間髪入れずに返された。
「でも先輩のことが気になって、もうそれ以上のことまでは考えられなかったんです」
そのわたしの発言がいたいけな後輩そのものに思えたのだろう、消しゴムがふるふるとその身を震わせた。
「よおし、分かった。じゃあこれから私の半身と通信してみるわ」
「通信?」
「そう。彼のところにいったもう一人の私に、これまでのことを聞いてみる。彼と一日一緒にいて、家にまで連れていかれたのよ。彼のあんなことやこんなことまで知っていると思うの」
「あんなことやこんなこと?」
一体どんなことだろうと、かーっとなった頭で想像していると、その隙に消しゴムは念のようなもので己の分身との会話をすませてしまった。
「早いですね。で、どうでしたか」
がっつくわたしを、消しゴムはじいっとその瞳で見つめ、やがてはーっとため息をついた。
「……あなたって可哀想な人ね」
「な、なんですか」
「だって彼にとってのあなたの印象って、『人の足を突然触ってくる変態』なんですもの」
「……ええーっ!」
それはたしかにわたしがやったことで、否定できない事実だった。だがまさか変態のらく印を押されていたとは……。
「ああでも安心していいわよ。今日のことでただの変態から『消しゴムをくれる心優しい変態』に昇格したみたいだから。よかったわね」
そう言って片目をつぶる消しゴムに、わたしは思わず叫んでいた。
「先輩のせいで変態扱いされたんですよっ! 責任とってください!」
言い過ぎた、と口を押さえ後悔したところで、消しゴムはなんら傷ついた様子もなく、逆に貫禄のある様子でうなずいてみせた。
「ええ。きっちり責任もって彼との恋を成就させてあげるわ。これだけやりがいのある恋って初めてだわあ。でも障害があるほど燃えるっていうしね」
するとずっと黙ってそばにいた付箋紙が口を開いた。
「俺たちの間にも障害は必要か?」
「んもう、そんなのあってもなくても同じよ。もう私たちの愛は完璧でしょ?」
「ああ、そのとおりだ。お前は最高の女だよ」
恒例のいちゃつきタイムが始まったか、と、気が緩みかけたところ、突如消しゴムが振り返った。
「あなたもそう思うでしょ?」
突然の問いかけに、わたしはびしっと姿勢を正すや、たった一つの答えを返した。
「はい、先輩は完璧で最高です!」




