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そして消しゴム先輩の発案により、今日、ある計画が実行されることになった。
名付けて「彼と仲良くなろう大作戦」である。
名付けたのはもちろん消しゴム、決戦日を今日としたのは大安だから。
消しゴムのくせに大安?と思わないでもなかったが、先輩がそう決めたのであるから恋愛シロウトのわたしに逆らう権利などない。
その日の授業中、わたしは「えいっ」と消しゴムを床に落とした。
狙うは当然、斜め前に席る好きな人。
こんな長方形でよくもまあ、と思うくらい、消しゴムは滑らかに狙い定めた方へと転がり、ぴたりと最高の位置で止まった。オリンピックであれば金メダル級の難易度だろう。昼は表舞台では動かないはずの消しゴムだが、隠し持っている特殊なパワーでもあるのかもしれない。
あとは彼がいつ消しゴムを見つけてくれるか、だ。拾ってくれたら満面の笑みで「ありがとう」と言う手順になっている。わたしの笑顔にきっと彼も胸が高鳴るはずだ。わたしは笑顔に自信があった。毎朝登校前に鏡の中の自分にほほ笑んでみせるのが小学校入学前からの習慣なのだが、我ながら相当魅力的だと思う。
さあ、長年の練習の成果を見せるときがついにやって来た。
今か今かと、わたしは彼の上履きのすぐそばに位置する消しゴムを、じりじりとした思いで睨み続けた。
と、わたしの中ではすでに存在自体が希薄となっていた壇上の教師が、何を思ったか「木下あ」と声をかけてきた。なぜかここのところよくこの教師に指される。
不愉快な面持ちで教師を見ると、目が合ったとたん、その教師のほうが苦々しい顔をしてわたしを睨んできた。
「おい木下、今は授業中だぞ。早く前に出て問題を解け」
「で、でも」
今は彼が消しゴムを拾う瞬間に集中していたいんです。
それが本心だったが、もちろんこの状況――クラスメイトの視線を一身に集めた状態では言えるわけがない。わたしは前に出て黒板に答えを書いた。
壇上から自分の席へと戻る途中、見れば彼は熱心にノートをとり、教科書をめくっていた。この分かりにくいことで定評のある教師の授業でここまで真剣になれる生徒は彼くらいなものだろう。
本当に彼ってすてきだなあ……などと感動しつつ、ふとその足元に視線をうつした。まだ消しゴムはいるだろうか、こうなったら休憩時間に拾いに行って声をかけてみよう、などと己を鼓舞しながら。
が、視線の先の現状に、まだ授業中だというのに、わたしは「うわあああっ」とあらんかぎりの声で叫んでしまった。
下を向いて教科書を熟読していた彼が、わたしの声の大きさと突飛さにびくりと反応し、その顔をあげた。
わたしと彼の目が合った。
だがそのことに素直に喜べる状況ではない。
わたしは彼の席の前まで足早に行くとしゃがみこみ、彼の片足を両手で掴み、なんら説明することなくぐいっと持ち上げた。
「うわっ」
突然のことに彼が姿勢を崩し、滑らかな木肌の椅子の上で尻が滑る奇怪な音が鳴った。
が、それに動揺している場合ではない。
持ち上げた足の下、彼の上履きの下から、わたしが転がした消しゴムがひっそりと現れた。
この数分間でどうして、と疑いたくなるくらい、あれほど白く光り輝いていた消しゴムのボディは薄汚れてしまっていたのである。
*
「すみませんでしたあっ」
消しゴムに頭を下げるのは何度目だろう。もう数えたくもない。
だが消しゴムは明らかにわたしのためにその身を汚し、あまつさえ踏みにじられてしまったのだ、文字通りに。
そしてわたしは謝罪を繰り返しながらも、消しゴムを元の清楚な姿に戻すべく、迅速にカッターナイフを動かしていった。謝るだけなら誰でもできる。今わたしがすべきことは、誠心誠意、消しゴムに尽くすことだ。昨夜と同じ作業であるから、コツをつかんだのもあり、消しゴムはあっというまに生まれたてのような無垢な美しさを取り戻した。
そんなわたしとは正反対に、消しゴムは今夜も最初からずっと能天気だった。
「いいっていいって。文房具ってのはね、踏まれてもまれて、失くされて捨てられて、そういうのはしょっちゅうなんだから。宿命よ、宿命」
「え、そうなんですか?」
言葉通りに納得しかけたところを、消しゴムが鬼の形相で睨んできた。
「だからって私が聖女だと思ったら勘違いよっ。もちろんマゾっ気もないんだから!」
「そのとおりでございます。すみませんすみません」
ぺこぺこと頭を下げると、消しゴムはそのぱっちりとした瞳をやや細めてみせた。
「……ねえあなた。消しゴムを踏むような男が本当にいいわけ?」
言葉の意味を咀嚼するのにしばらく時間がかかったが、わたしは思ったとおりに答えた。
「でも消しゴムが下にあったら踏んじゃうことくらいよくあるし」
「ふうん……。あなたって意外と薄情な女なのね」
「ど、どういうことですか」
「私とこうして師弟関係を結んだくせに、その師を足蹴にした男が好きだなんて」
えええっと驚きをあらわにしたかったが、これ以上消しゴムの気分を害するのは明らかに得策ではない。
「じゃあ、もしもわたしが彼と恋人になれたら、もう二度と消しゴムは踏まないようにきつく言っておきますね」
最大限の譲歩ともいえる提案に、しかし消しゴムは小さく頭を振るだけだった。
「あなたは間違っているわ」
「え?」
「一つ。あなたは彼に告白する勇気なんかない。一つ。彼はあなたに告白するほどのパッションを塵ほどにも感じていない。いいこと、この二つで十分に分かるでしょ。あなたは彼とは恋人にはなれない。だからあなたは彼に『消しゴムを踏んだらいけない』と忠告することはできない」
饒舌に語られた洞察結果は不愉快きわまりないものだったが、消しゴムの性分を学習済のわたしは「そうですねえ」と、へらりと受け流した。
消しゴムはわたしを虫けらでも見るかのような目つきで眺め、やがて苦々しげに笑った。
「ほんと、恋は偶然の産物とはよく言ったものだわ。あなたには何か恋に効く偶然が必要なんでしょうね」
「ほんとそうですよ。小説や漫画のような展開でも起こってくれればって思いますもん」
たしかに今のわたしに必要なものは、文房具が動くなんていうコメディタッチな展開ではなく、恋が成就するラブリーな展開だ。激しく同意していると、そこに付箋紙が割り込んできた。
「おい消しゴム。お前と俺は偶然なんつう適当なもんで繋がっちゃいねえぞ」
「うんもう、分かってるわよ。私とダーリンは運命の恋人ですもんね。うふふ」
「よしよし。可愛いなあお前」
「いやーん」
そして今日も、この二人の笑っていいのかどうか分かりかねる漫才によって一日が締めくくられていった。