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次の日、授業を受けつつもわたしは筆箱の中の彼らが気になって仕方がなかった。
まだ一時間目だというのに、大切な数学の時間だというのに、ポーチ型の筆箱の中から消しゴムと付箋紙を出し教科書の上に並べてみる。それらはぴくりとも動かなかった。
昨日までであればそれが当たり前、自然の摂理に何ら反していないことと受け止めるのだが、今日はそういうわけにはいかない。
わたしは彼らの秘密を知ってしまった。
あの後二人は熱い抱擁(腕はないけれどそうとしか思えない)とねばっこい接吻(唇はないけれどたぶんそうなのだと思う)を終えた後、わたしに教えてくれたのだ。
筆記用具は真夜中に動き回っているのだ、と。
どこかの絵本にありそうなありきたりな設定だとは思ったが、彼らいわく、それだけ使い古された設定というのは、つまるところそこに真実があるからなのだそうだ。
「ええっ? じゃあ幽霊とか吸血鬼とかも本当にいるんですか?」
わたしが顔を青くすると、消しゴムは一瞬きょとんとした顔になり、その後「さあねえ」と、にたりと笑った。その後、地獄は本当にあるのか、超能力は、UFOは、とわたしがしつこく問い続けたら、消しゴムはとうとうキレた。
「あなたねえ、そんなのどうでもいいから、もっと私たちに興味持ちなさいよっ!」
そんな表情豊かだったはずの消しゴムは、今はただの消しゴムに戻っている。
厚紙でできたケースをはずすと、そこには昨日のわたしの成果がはっきりと残っていた。
真っ白な体にはKEIと無残に刻まれている。
昨日の痴話げんかを思い出し、気づけばわたしは彼女の体を親指でこすっていた。摩擦熱で指の腹が熱くなったが、それでもぎゅっぎゅっとこすり続ける。やがて黒いぽつぽつは消えていき、わたしはそれに気を良くしてさらに指に力を込めた。これが消えれば二人はもっと仲良くなれるだろう。
と、その時。
「おい、木下」
突然教師に名前を呼ばれ、わたしは動揺のあまりぎゅうっと力強く消しゴムの体をその指で圧迫してしまった。ひとまず手のひらの中にそれを握り、席を立つと、なんとか黒板に書かれた問いに答えてみせた。受験生たる名目を保てたことにほっと一安心して座り直し、手のひらを開け――そこでわたしは驚愕のあまり「おわあっ」と乙女らしからぬ奇声を上げてしまった。
「どうしたあ?」
教師が、クラスメイトが胡乱気にわたしの方を向いた。その中には例の片思いの彼もいて、わたしは恥ずかしさのあまり小さく縮こまるしかなかった。
やがて注目からはずれ、授業が再開され……わたしは覚悟を決めて、机の下、膝の上の手のひらをそっと開いた。
そこにはこの手で下した惨劇の結果があった。
消しゴムの体は中央で真っ二つに割れてしまったのである。
*
どれほど怒られるかと覚悟して夜に臨んだわたしだったが、それは杞憂に終わった。
付箋紙は「消しゴムが二つになろうと俺の愛は変わらないさ」と流し目をくれ、分裂しサイズダウンした消しゴムそれぞれが、「うれしいっ!」「だからダーリンって大好き」などと甘い声を発しながら付箋紙にまとわりついている。どれだけ経験豊富な男、もとい付箋紙なのか。消しゴムはすっかりいちころである。
それでもわたしは床に座り消しゴムに土下座をした。
「本当にすみませんでしたあ!」
生まれて初めて本気で土下座をした。
だが体をちぎってしまったのだから当然だ。
これが人間相手であれば不注意を理由に許してもらえるようなことではない。
「あのあのっ」
わたしは引出しの中から色とりどりのマスキングテープを取り出してみせた。
「これで体をくっつけますから」
それを消しゴムは二対、計四個の大きな瞳でじいっと眺めた。
「どれがいいですかね。これですか、それともこちらですか」
わたしが下手な売り子のように並べていくのに、やがて消しゴムはその目を細めた。
「どれも嫌。そんなのちっともおしゃれじゃない」
「そ、そうですか?」
よかれと思って出したとっておきのマスキングテープだったのに……。
お小遣いをためてこつこつ集めた宝物なのに……。
わたしは唯一の収集品を否定され、がっくりと肩を落とした。すると、消しゴムはそんなわたしに向かって、その顎(なのか?)でくいっと机の隅を指した。
「私はセロハンテープの方がいいわ。透明なテープの方が私のきれいなボディが見えるじゃない」
そう言ってこちらをちらりと見やった消しゴムのその目が、自分の美しさをまったく疑っていない純なもので、わたしは「そうですね。そうですね」と馬鹿みたいに返事するしかなかった。
さあでは、と、重量感のある年季物のセロハンテープ台を手前に移動させると、消しゴムが唐突に一つの望みを口にした。
「その前に、私の体を元の穢れない姿に戻してもらえるかしら?」
「……はい?」
それからわたしはゆうに一時間をかけて、消しゴムの体にエステを施すはめになった。
いや、もちろん本物のエステのわけがない。なんといっても相手は消しゴムなのだ。だがわたしの気分はエステティシャンで、消しゴムはどこぞのセレブのごとくだった。
わたしは久しぶりにカッターナイフを出し、消しゴムの体の表面を削っていったのである。
そうっと、そうっと。
少しずつ少しずつ。
韓国の垢すりエステだって、もっと大胆に痛みを伴ってばんばん垢を生み出すはずなのに、わたしはそれをしなかった。いや、できなかった。また傷つけたら、あまつさえ全壊するようなことになったら、謝るだけでは済まなくなる。しかも施術に使うのは本当に久方ぶりのカッターナイフだ。
ちょろちょろと、削るたびに黒いかすがとれていく。
わたしが彼女につけた残虐な行為の痕が消えていく。
だが痕が消えたからといってわたしの罪が消えるわけではないことは重々承知している。わたしは罪人らしく黙々とその行為を実行し、消しゴムの「もっとこっちも削ってよ」「あら、そこはもういいのよ」といった注文に献身的に従った。それを付箋紙の恋人が真正面からじいっと見つめているから、やりにくいことこの上ない。
やがて、長い時間をかけた甲斐あって、消しゴムはその身をほとんど痩せさせることなく、見事に元の美しいボディを取り戻した。まあ実際には、シャープペンシルの先でぐさぐさと刺したわけだし、その無数にある円形の刻み痕は完全には消えることはないのだが、芯の色が消えただけでもだいぶ違う。わたしは消しゴムの体についた細かいかすを丁寧に取り除き、この作業を終了することにした。
そして次の施術、セロハンテープをその分裂した体に巻く作業へと移行した。
二つに裂かれた消しゴムを合体させ、机の上に置く。消しゴムがやや緊張していることが伝わってくるが、それにわたしまでのまれるわけにはいかない。わたしは施術者であり、冷静に、平常心でもってこの作業を遂行しなくてはならない。
「頑張れ! 俺がついているぞ!」
付箋紙の愛ある応援に、消しゴムが儚げにほほ笑んだような気がした。
びーっとテープを伸ばし、カッター部分でざくっと切る。甲高い音は心臓に悪くどきりとしたが、セロハンテープ台が「音がうるさくてごめんよ」と謝ってくれたので小さくうなずいてみせた。
(お、付箋紙と消しゴム以外で話をしてくれたのはセロハンテープ台か)
頭の片隅でそんなことを思ったが、今は目の前の施術にこそ集中すべきである。
わたしははさみを持つと、千切ったセロハンテープの端、ぎざぎざの部分を真っ直ぐに切り落とした。はさみは無言でいい仕事をしてくれた。両端はこれ以上はできないというほどにきれいに切断されている。さすがは職人芸とでもいうべきか、このはさみとはかれこれ十年の付き合いがあるが、今もこうして最高の切れ味を見せてくれる。
わたしはこの最愛のはさみの改心の出来を無駄にしないよう、心構えを新たにした。なるべくテープに指紋を付けないよう、細心の注意を払いながら消しゴムに巻いていく。ここが一番大事な局面だ。
この部屋にいる誰もが注目する中で無言で事に当たり――やがて消しゴムはその美貌を完全に取り戻し、私は任務を完遂した。
消しゴムの体はまた一つに結合されたのである。