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たぶん誰でもやったことがあるこの暇つぶし、もとい一人遊び。
ぶすっ。
ぶすぶすぶすっ。
シャープペンシルの先で消しゴムを刺すというこの行為。
単純かつ残忍なこの行為。
刺せば消しゴムに黒くて小さな穴が刻まれる。
だが刺した瞬間のこの感触が、なんともいえず心地いい。
わたしの消しゴムはまだ使い始めたばかりの新品だった。その筐体はまぶしいくらいに白い。その純白の裸身を自分の手で汚しているという背徳感が――また快感なのだ。
わたしは変わり者だろうか?
いや、そんなことはない。
誰だってこのくらいのことはしている。
誰だってしているし、誰もが好きなはずだ。
いつしか教師の声は耳に入ることなく、授業を受けていることすら忘れ、わたしは夢中になって消しゴムを刺し続けていた。
ぶすぶす。ぶすぶす。
一度始めるとやめられなくなるのはわたしの悪癖みたいなものだ。
だがあらかた刺して、ふっと我に返ってその結果を認識するや、わたしは授業中だというのにため息を殺すことができなかった。
KEI。
小さな黒い点のような穴を繋げることで、わたしは愛しい人の名前を消しゴムに刻んでいた。
*
「まずいなあー……」
夜、部屋で勉強をしながら、わたしは何度もこうして独り言をつぶやいている。スマートフォンの画面、盗み撮りした愛しの同級生の彼の写真を見ながら、何度もそればかりをつぶやいている。
「まずいなあー……」
何がまずいのか。
端的に言えば、この片思いのせいで勉強がはかどらないのである。
わたしは受験生で、今は秋。となれば憂いを捨てて勉強一筋に励まなくてはいけない時期なのだ。……なのだが、まったく勉強が手につかない。今もこうして机に向かい問題集を広げているが、気づけば彼のことを思い出し、彼の写真を飽きることなく眺めてしまっている。
「まずいよ、ほんと……」
だがこの前の体育祭がよくなかった。学校生活最後の体育祭、わたし含め大方のクラスメイトはやる気の一つもなくぼやっとしていた。だがその同級生は違った。わたしは彼が玉入れで必死になっている姿に、なぜか胸をずきゅーんと打たれてしまったのである。
なぜにノーマークの彼、なぜに玉入れごときで、と自分でも思う。せめてイケメン、せめてリレーか騎馬戦だろうと思う。……思うのだが、恋とは昔からそういうものなのかもしれない。ある日突然、予告なしにやってくる、それが恋なのだ。一心不乱に玉をかき集めてぽいぽい投げている彼がかっこよく思えてしまったのだから仕方がない。
だが仕方ないでは済まされない事態に陥っているのもまた事実だった。
勉強がまったくはかどらないのである。
この状態が続いてかれこれ二週間が過ぎようとしていて、受験生にとってその期間を無駄にしたという事実は、それだけで精神的に苦しいものがあった。
もう机にしがみついているだけで精一杯のわたしは、なんとか気力だけで座り続けている有様だった。
*
「……おい、いったいどういうことだよ」
「……だってしょうがないじゃない! 私のせいじゃないわよ!」
何やら言い争う声が聞こえ、まどろみの中、寝入ってしまっていたことにわたしは気づいた。だがまだ二人の論争は続いている。
「俺以外の男の名前を体に刻むたあ、お前はとんだ尻軽女だなっ」
「なんですってえ?」
その会話の物騒さに、わたしの頭は次第に覚醒していった。TVもラジオもつけていないはずだしまだ夢を見ているのだろうか、と、頭を振りつつ起き上がると、わたしがいたのはやはり現実、そして予想どおり学習机に突っ伏していたままであった。
だが一つ、わたしの予想を超える事象が目の前で起こっていた。
なんと――消しゴムと付箋紙がぴょこぴょこと机の上で動き回っていたのである。
擬人化といえば説明は簡単なのだろう、消しゴムにはぱっちりと長い睫の瞳があり、付箋紙のほうには太い眉に細い目が付いている。
どこかでこういうアニメでも見たのかと、もしくは夢でも見ているのかと目をこすったが、何度見ても現実は変わることはなかった。わたしの目の前で、わたしの机の上で、細長い新品の消しゴムと正方形の分厚い付箋紙が白熱した言い争いを続けている。
「だって私、消しゴムなんだからしょうがないじゃないっ」
「しょうがなくなんかないだろ! お前も俺っていう男がいるんだから死ぬ気で体を守ってみろってんだ」
「なによそれ! 私が昼間はただの消しゴムになるって分かってて言ってるわけ? もし分かってて言ってるんだったら、もう……もうダーリンとは別れる!」
「おうおう、上等だっつーの。お前みたいな女とは俺もすっぱり縁を切ってやらあ」
いつの間にか、修羅場が別れ話にまで発展している。
繰り返すが、わたしの部屋で、わたしの机の上で、消しゴムと付箋紙が、である。
「あ、あのう」
気づいたら、わたしは言葉を発していた。
だけど二人(と言っていいのか、二個と言うべきか)はわたしにまったく頓着せず、とうとう消しゴムの大きな瞳からぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「わたしたち、もうおしまいね……」
「……そうだな。もともと、消しゴムと付箋紙じゃあうまくいきっこなかったんだ」
「そうよね、付箋紙使うときって普通はペンで書くもんね。消しゴム使うくらいなら、書き損じた付箋紙は捨てちゃうもんね」
確かにそうだ、と自身の行いを顧みつつ、だが、
(違う違う、今は納得してる場合じゃない!)
と、腹にぐっと力を入れて、わたしは自室でめったに出さない大声をあげた。
「……わ、わたしがやりました!」
びくり、と二人(二個? いやもういい、これからは二人と言うことにする)が震え、ゆっくりとこちらを振り返った。
二人の目がわたしを認め、とたんに固まった。
今さらただの文房具のふりをしようというのか、それとも驚きで固まっただけなのか。
だがわたしは一気に語った。
「すみません、わたしが消しゴムをぶすぶすやったんです。ぶすぶすやると気持ちよくってついやっちゃうんです。癖なんです。本当にすみません! 二度としません! だからどうか、消しゴムさんのことはゆるしてあげてください!」
ばっと頭を下げると、しばらくして消しゴムが言った。
「あなた……私たちが話したり動いたりして驚かないの?」
「え?」
頭を上げると、二人がじっとわたしのことを見ていた。
わたしは乾いた唇をなめ、ゆっくりと、だが正直に答えた。
「それはもちろん驚いていますよ。……でも、今はお二人のことの方が大事ですから」
別にいい子ぶっているわけではなく、それがわたしの偽らざる本心だった。
消しゴムが動こうが付箋紙が話そうが、そんなことは小さなことだ。それよりも、わたしの行いによってこの愛し合う二人が別れてしまう方がよっぽど切実なことではないか。
わたしは今、片思いに胸を焦がす一人の乙女だった。だからこのありえない状況について問うよりも、二人の愛の行く末の方がよほど心配だったのである。
わたしがじっと二人のことを見つめると、二人もわたしが真実そう思っていることを感じとってくれたのだろう、やがて付箋紙がゆっくりと消しゴムのほうに近寄っていった。
「……俺が悪かった」
ぽつりとつぶやかれた謝罪に、消しゴムが大きく頭(なのか?)を振った。
「ううん、ううん! 私が悪かったの! 私も今度からは刺されそうになったら転がって机の上から落ちるくらいのことはするから!」
「いいや、俺もお前が刺される前にこの体から一枚剥いでお前の体にかけてやればよかったんだ」
「ううん、そんなことない! 私が悪かったの!」
「いいや俺だ! 俺が悪かったんだ!」
「ううん私が」
堂々巡りの二人の会話に、たまらずわたしは割り込んでいた。
「はいはい、じゃあ仲直りってことでいいですか?」
するとそれを合図にしたかのように、二人はひしと抱き合った。