左の頬をも向けなさい
気を取り直して、ビンを見る。
「やっぱりレッドスターだったネ」
「こいつはくせぇな」
「今回はぎりぎり吐いてませんよ」
泥酔して反応がなかったシャイロックが、起きたようだ。
「違うシャイロック、そういう意味じゃない」
「っていうか、おい爺ぃ、大丈夫か」
「やっと酒が抜けてきました」
痛みを和らげようと頭を振っている。
「あと一時間ほど待っていただければ、シラフに戻れそうです」
「爺さんとは暫く酒を飲みに行きたくないな」
苦笑しながら大通りをハーローパークへ進む。先頭を歩いていたアニーが、急に立ち止まって振り返った。
「そういえばそろそろマフィアの取引の時間だけど、シャイロックは大丈夫なノ?」
「?」
なんのことを言われているのかわからない、といった顔のシャイロック。
「Oh、覚えてないのカイ?」
「そんな話もしたような、しなかったような」
「シャイロックには悪いが、酒が抜けるまで待ってるわけにはいかなさそうだ」
私達はハーローパークの公園の端にたどり着いていた。昼間の酔っぱらいたちは茂みや屋根のあるところで休んでいるようで、昼間のような賑やかさはない。静かな公園を通り、アニーの言う取引現場を目指した。
公園の並木の向こう、波音が聞こえる方へ歩いて行くと、コンクリートの港が見えた。見晴らしがよい。遠くに、二人の男が立っているのが見えた。
「シャイロック、あのGuysはMr.セイウチのファミリーじゃないのカイ?」
「視界が歪んでよくわかりません」
「Oh, shit!聞いたボクがFoolだったヨ」
アニーがこちらを向く。
「とにかく、きっとあのGuys、これからレッド・スターの仕入れを始めるヨ。ひょっとしたらボブも買いにくるかもしれないネ」
「確か二↑」
アニーの口癖を真似たチャーリーを、アニーが睨みつける。
「チャーリー、アニー真面目なはなししてるノ!邪魔しないデネ」
「悪かった」
「追跡といえば新聞記者、俺の出番だぜ」
「Oh、じゃあピーターに任せるヨ。行ってきて!」
「頼むぜピーター」
送り出されたピーターは、スパイ映画よろしく木の後ろで静止、走り抜けて次の木への移動を繰り返した。だんだんと近づいていって、まだ止まらず、さらに進む。おいおいおい、それ以上近づくと。
さすがに物音に気づいたマフィアが、ピーターの方を振り返る。幸いにピーターが隠れたタイミングだったので見つからなかったようだ。しばらく訝しげな顔でその場所を見つめていた後、そのまま歩み去っていった。しかし、時たまこちらを振り返るので、これ以上の追跡は難しそうだ。
緊張した顔のピーターが、踵を返してこちらに戻ってきた。息を弾ませている。
「すまねぇな、最後までは追跡できなかった。だが、港のあっちのほうに目的地があるらしいってことはわかったぜ」
「それはここからでもわかったヨ。見たらわかるヨ、あっちに行くってことは!」
アニーが珍しく声を荒らげている。
「てめぇ、よくこのゴッサム・シティで生き延びてこれたな」
「すまん、こんなにうかつなやつだとは思わなかったんだ」
呆れ顔のチャーリーに、思わず私が謝った。
「それで、これからどうするノ?皆で行くカイ?」
「アニーはあの二人には顔が割れてるんだよな」
「そうだね、一度あったらフレンズだヨ」
とはいえアニーは非武装、ボディガードが必要だな。自然と全員の視線がチャーリーに集まる。
「あのなぁお前ら。俺マフィアは嫌だっつってんだろ」
「ただとは言わん、秘蔵の酒を分けてやろう」
「酒で命を売れってのか?」
「アスローン・モルト三十年」
「!」
眼の色が変わった。私は視線で、他の3人にも促す。
「アブサンで良ければ。代用品じゃない奴です、うっぷ」
「アニーは、ガメニアン・タイムボムってお酒もってるヨ。フレンドの故郷のお酒らしいけど、アニーお酒は飲まないカラ」
「白乾酒。風邪の時に飲むとキくぜ~」
「そ、そこまで言われちゃぁ仕方がねえなぁ」
一転ほくほく顔のチャーリー、銃弾の予備をポケットに移す。
「俺も行くぜ!」
ピーターの声に、チャーリーとアニーが慌てる。
「いや、お前は来んなよ!バレるだろ!」
「ピーター余計なことするカラNo!」
「ちぇ、分かった分かった、じゃあ俺は隠れてるからさ。シャッターチャンスが来たらパシャリとやらせてもうだけでいいから」
「その音がいらねぇんだよ!」
ピーターはなおも何が言いたげだが、ここで言い争っていてもしかたがない。
「仕方がないな、ピーター、シャイロックを介抱しながら後ろからついていこう。アニー、チャーリー、十分に距離をとっていれば問題ないだろ?」
「うーん、シャイロックに凍死されても困るしネ」
「そのバカを50メートル以内に近づけなけりゃ、なんでも構わん」
港の先、公園の林で周囲から死角になっている場所で、マフィア達は何かの受け渡しをしていた。傍らには大型の黒いバンが止まっている。彼らに何かを言いながら書類を渡している人物がいた。その顔は間違いなくボブだった。私達より現場の近く、茂みに隠れているアニーが振り返り、口をぱくぱくさせて、”ボ・ブ・だ・ヨ”と言っている。
チャーリーもそれに気づいたようだ。
「何だ。普通のおっさんじゃねえか」
「そりゃ普通のおっさんだよ。一体どんな人物を想像してたんだよ」
「配管工だし、赤い帽子につなぎの、イタリアっぽいヒゲおやじとか」
「水道局員だってば」
聞き耳を立てると、かすかに三人の会話が聞こえてきた。
「…回の分はこんなところです」
「これだけか?もっと増やして欲しいんだが」
「すいません、イワンさんから回せるのはこれだけなんですよ」
どうやら、ボブはあのロシア人とつながっているらしい。
ボブが車に戻ろうとして、すこしよろける。酔っ払っているらしく、足取りがおぼつかない。
バシャリ!
大きな音とフラッシュが焚かれた。左を見ると、さっきまでシャイロックを背負わせていたはずのチャーリーが、カメラを構えていた。シャイロックは地面に寝かされ、ご丁寧にも胸の上に手を組まされている。顔には気遣いに、ハンカチが乗せられていた。
「お、お前何しとんじゃぁ!」
チャーリーが立ち上がって怒鳴った。さっきのシャッター音でもうアウトだが、これで完全に気づかれただろうなぁ。
ピーターが、一仕事終えた満面の笑みでこちらを向く。
「ここで、良いニュースと悪いニュースがある。どちらから聞きたい?」
それ、私も付き合わなければいけないのだろうか。シャイロックの右肩に手を差し入れ、立たせながら答える。
「いいニュースから聞こうか」
「OK!良いニュースは、この取引現場をパッチリ写真に収めることが出来たってことだ」
それ、キャロラインの依頼じゃないけどな。お前以外にとっては別に良いニュースじゃないからな。アニーとボブに振り返って、手で”逃げろ”と指示する。
「…最高だな、そいつは」
「だろ?で、悪いニュースは、奴らに気づかれたってことだ」
聞かなくてもわかるけどな。
「このFucker!✗✗✗!✗✗✗!」
「俺の人生で最悪なニュースは、お前にあったことだぜ!」
ピーターに罵声を浴びせながら、二人がこちらへ走ってきた。すれ違いざま、アニーがシャイロックの左脇を支えあげる。ピーターは、ダメ押しにシャッターを切り続けていた。
「なんだてめえ!」
音に気付いた二人組が、当然こちら側へ走ってくる。彼らの背後では、ボブが反対側に向かって逃げ出しているのが見えた。
「まずい、逃げられるな」
「しゃーねーな、俺が追いかけるわ」
振り返ると、チャーリーが、ボブを指さしてから自分の胸を叩く。小さく敬礼を返すと、彼は巨体に似合わないスピードで茂みに消え去った。
「さて、こちらは囮も兼ねて、逃げまわることにしようか」
シャイロックを支えながら、私は反対側のアニーに声をかける。
「でも、シャイロックがこのままじゃ、そのうち捕まるヨ?」
「最悪、動ける俺達だけなら何とかなるが。爺さんを連れてるときついな」
「公園の広場に押し込んだらどうカナ?酔っぱらいを隠すなら酔っぱらいの中に、だヨ」
「なるほど、悪くない」
公園の林の終わりを目指して駆け出す。ピーターが足止めにぐらいはなってくれているかと思ったが、しっかり走ってついてきていた。シャイロックを抱えてなきゃ、足を引っ掛けて置き去りにしてやるんだが。
林の切れ目、茂みの中にシャイロックを押し込む。これでモブの仲間入りのはずだ。
振り返ると、マフィアのうちの一人がピーターに襲いかかっているところだった。体を沈めた姿勢から、ピーターの腹にボディーブローを放つ。
「やべえ!」
ピーターが転がりながら体勢を立て直し、無駄のない動きで逃走しようとする。が、木の根に躓いてそのまま転んだ。手元に持っていたカメラが転がって、後から歩いてきたマフィアとピーターの間に投げ出された。
「この糞餓鬼が!」
ボディーブロー男が、今度はピーターに蹴りを突き立てた。悠然と歩いてくる小柄な方のマフィアが、途中でチャーリーのカメラを拾う。片手で弄びながら、チャーリーに歩み寄った。腹をけられながらも、ピーターが懇願する。
「ごめんなさいごめんなさい!となりのアベックを撮ってただけなんですよぅ。お兄さんたちの怪しい取引なんて撮ってませんよぅ。カメラ返してくださいよぅ」
兄貴分のマフィアは、カメラをピーターの目の前に落とし、それに革靴を踏み下ろしたグシャリ、と盛大な音がしてカメラがひしゃげる。持ち上げてストラップを肩にかけ、転がったピーターの頭を蹴り上げる。
さすがに見捨ててはおけない私たちは、現場へ引き返す。私達が到着した時、二人のマフィアがぐったりしたピーターを見下ろしているところだった。二人の手元で、何かがきらりと光るのが見えた。走り寄った私たちを見つけ、まずいところを見られた、という顔つきになる。それから、背の高い方のマフィアがアニーの姿に気づく。
「こりゃアニーさん、いらっしゃんですか」
「Mr.セイウチに、ここに来ればレッドスターが変えるって聞いたからネ」
「そうすか。ところでこのカメコ、アニーさんの知り合いで?」
私とアニーは一瞬目を合わせ、声をそろえていう。
「No!」
「知らんな」
「そうすか」
「この人何かしたノ?」
「この餓鬼、俺らの仕事場で出歯亀しとったんですわ。とりあえずカメラいわしたんで大丈夫ですけんど」
弟分が答えている間、兄貴分が手元の書類をチェックしていた。何かトラブルがあったらしく、苛ただしげに舌打ちをしてからこっちへ向き直る。
「アニーさん申し訳ない、こいつのせいで取引にケチがつきまして。酒はまた今度、うちの事務所に来てもらえませんか?ボスには話つけときます」
「ンー、今日買うのはどうしても無理カイ?」
「すんません、もともと今日は、思った以上に量が少なかったんです。正直今お渡しできる分がないんですわ」
「それなら仕方がないネ。わかったヨ」
「助かります」
それから、二人はうつ伏せのままのピーターに顔を向ける。本当は手元のナニかでナニをアレするつもりだったのだろうが、さすがに我々の前ではやりにくいようだ。
「兄貴?」
「まぁカメラは取り上げたしな、大丈夫だろう」
言って、二人は取引現場に歩み去っていった。
二人が声の届かない距離に行くのを見届けてから、アニーがピーターに話しかける。
「ピーター、ピーター生きてル?」
声を聴いた途端、ピーターはケロッとした顔で立ち上がった。あれだけ蹴られたのに、意識を失ってなかったのか。顔はぼこぼこだが、ダメージも案外少ないようだ。蜘蛛並の生命力だな。
「俺のニコンがぁ」
「まったく、自業自得ダヨ」
「死ななかっただけありがたいと思え」
しばらく泣きそうな顔のままだったが、思いついたように腰に手をやる。どこにそんなスペースがあったのか、無傷のインスタントカメラを取り出した。
「しかたねーな、ポロライドで我慢すっか」
アニーと私の顔が引きつる。もう勘弁してくれ。
しばらくして、チャーリーが戻ってきた。腫れたままのピーターの顔を見て吹き出す。
「おうピーター、いい顔になったじゃねぜか」
「うっせ」
「ピーターはいいから。チャーリー、どうだったか?」
「あぁ、ボブな、公衆トイレみたいな建物に入ってたぞ」
「トイレ?」
「あぁ、あれは多分…まぁみりゃわかる」
チャーリーの案内で、私たちは移動する。途中で酔っ払い広場からシャイロックを見つけて引っ張りだした。シャイロックは意識を取り戻したようで、頭を振りながら歩いてついてきた。その後ろを、むしろ蹴られて元気になったぐらいのチャーリーが続く。