元婚約者あらためまして
悪役令嬢改めましての元婚約者様のお話。
実は主人公補正はあったりしていた。
俺たちの処遇が決まり、あれよと言う間に、別邸に体よく追い払われた。
あまりの手際の良さに、誰一人として、異論を唱える暇すらなく、気が付けば、気持ちの悪いくらいに快適な空間に押し込められている。
「あいつの仕業か」
衣食住は足りている。軟禁ですらない。俺たちの身の回りをさせるには十分な使用人がいて、生活をするという面では、今までと変わらぬ快適さが保証されていた。ただ、俺と共にここにいる連中は、この処遇が勘当されての手切れ金代わりだと気が付いているのか。
脳天気に阿佐比を囲んでいる連中の顔を見れば、ここを食いつぶせば後がないことが分かっているとは思えない。
多少の援助は期待できるだろうが、一生遊んで暮らせるなどと思っているのであれば甘いことだ。
ほとんどあいつの策略にかかり、現状となっているということの意味を、たぶん、阿佐比 輝袮は気が付くまい。
だいたい俺も、何であんな幼稚なイタズラをあいつがやったなどと思えたのか。今となっては理解できない。と言うのが本音だ。
あの夕顔瀬 絢音があんな稚拙で分かりやすい、所謂、悪戯などと可愛らしく呼べるようなことをするはずがない。
あいつは、バレなければ犯罪ではないと、正面切って言い切るタイプで、かつ、足の着くようなとことなど、天地がひっくり返ってもやるはずがない。
今回のように、じわじわと評判を落とし、人格を否定させ、どんな手を使ったのか、見事に全員を阿佐比に押し付けた。
実にあいつらしい、陰険で、周到で、卒のない仕事だ。
俺が現状を見て、ため息を吐くと阿佐比が心配そうに近寄ってきた。はっきり言って、鬱陶しいので相手にもしたくない。だいたい、俺でなくとも、他に話をしたそうにしているやつはいくらでもいるだろうに。
「大丈夫? 元気出して。ちょっと皆、誤解しちゃっただけだもん。すぐに分かってもらえるよ」
健気な表情を作り笑う姿に、心底冷めていくのが分かった。
俺は、少なくとも、卒業と同時に、ここを出ることができるだけの信用を取り戻さねばならないな。
ここにいれば、確実に底辺にまっしぐらだ。
具体的にどうすればいいかも分からない慰めは、毒以外の何物でもない。しかし、ここで反発をすれば、当面の衣食住すら危うくなるのは必然だ。
だが、一つだけ。
そう、こうなってしまった以上、俺は確実に一つだけしなくてはならないことがある。
あいつ等の目をかいくぐるのは実は面倒だった。
単独行動をすれば、阿佐比にたいしての抜け駆けではないかと、疑心暗鬼にとらわれ、邪魔をしてくるのだ。実にばかばかしいが、今までであれば、同じことを俺もしていたのだから、言えた義理ではないか。
今の俺にとって、阿佐比は完全にどうでも良い存在だ。欲しければあいつらで好きにすれば良い。正し俺を巻き込むな。
心の底からそう思っているが、今はそれを口にするとどうなるかが分からない。言葉通りに取ってくれれば御の字であるが、そうならないであろうことは火を見るより明らかだった。
だからこそ、一人こそこそと事を運ばなければならないというのは、実に面倒臭く、かつ鬱々とする。
早々に用事を済ませてしまいたいとは思うが、それこそ慎重にしなければ、今すぐにでも引導を渡されかねない。物事には順序とタイミングというものがあるのだから、その辺りは諦めるしかないだろうと、溜息一つに留める。
しかし、あいつらの足を引っ張ってくるのとはまた違い、阿佐比が実に面倒臭かった。何故か阿佐比は、他の人間より俺をどうにかしたいらしく、頻りに寄ってくるのだ。俺以外の人間はわざわざ阿佐比が寄るまでもなく阿佐比にまつわりついているから、必然そう言う風に見えることになるのだと気が付いたのは、つい最近であったが、それでも、俺がいずとも他に居るのだから良いのではないかと、正直思う。
まして、その所為で、俺だけ依怙贔屓をされているかのように嫉妬の目を向けられるのは、正直うんざりだ。
そんなものを穏便にいなしつつ、日々を過ごしていれば、やっと環境と手はずが整った。
「それでどういったご用件でしょうか?」
ほんの少しだけ首を傾げ俺を見る姿は、どうしたって、ふてぶてしいという言葉が似合ってしまう。女であるのだから少しは可憐などという形容詞が似合っても良いのではないかとも思うのだが、実際ふてぶてしいのであるから仕方がないだろう。
「いや、お前には謝らなければならないと思っていてな」
俺の言葉に、絢音はあからさまに困惑を表情に乗せる。こいつは悪巧みをするわりにポーカーフェイスを知らない。いや、それが分かっているから、こいつはたいがい裏方でいるのか。
矢面に立つと、こいつは、ポーカーフェイスではなく、アルカイックスマイルで煙に巻く。
曰く、全てを笑って誤魔化せがこいつの信条なのだ。
「何をですか?」
あまりに当たり前のことを聞かれて、俺の方が思わず表情を崩してしまう。
俺が絢音に謝ることなど一つしかない。
「お前は俺の足を引っ張らなかったというのに、俺が脱落して悪かった。心から詫びるよ。絢音」
俺の言葉に絢音は更に驚いた顔をした後、にんまりと笑った。
どうやら俺の対応は紙一重で、正解だったようだ。心臓に悪い。
「そのことでしたらお気になさらず。もし、阿佐比様の悪戯の数々を謝罪されるのでしたらどうしようかと思ったのですけれど」
「はあ? 何でそれを謝る必要がある?」
思わず絢音の言葉に態度悪く返すと、あいつは、阿佐比と確執が起こる前、所謂まだ普通の婚約者同士であった頃に見せた、無防備な笑みを口に乗せた。
「お前がどう思っているかは分からんが、あれに関して俺は謝罪はしないぞ。謝罪というのは、お前が俺を許すかどうかと言うことだ。少なくとも俺は、あれに関してお前に許しを乞いたいとは思わん。お前はお前の好きなように俺を許すかどうかを決めろ。許す上で謝罪が欲しいというのであれば、幾らでも望むように謝罪しよう」
俺の言葉に、絢音の笑みが深くなる。
本心を言っているだけであるのに、そんな嬉しそうにされるのは、どうにも据わりが悪い。
「では、一つだけ私から」
「なんだ?」
「阿佐比様をどう思っていらっしゃいますか?」
はっきり言って、絢音とは、政略的な意味での婚約者であるという以上でも以下でもない間柄で、恋愛感情などほぼ皆無と言って良いだろう。それは絢音と俺の共通認識だ。そうなれば、この言葉は少々意味が違ってくる。
「正直に言って良いか?」
俺がそう前置きを刷ると、絢音はゆっくりと頷いた。
「実のところ、自分でも、何であんなに入れあげていたのか、本当に分からん」
はっきり言って、絢音が阿佐比をいじめているという話が上がるまで、俺にとって、阿佐比は有象無象の一人でしかなかった。
それが気が付けば、昼夜を問わず恋い焦がれるような気持ちにとらわれ、いつでも行動を共にしたい。阿佐比がいればそれで良い。
そんな恐ろしい妄想に囚われていた。
阿佐比中心に世界など回せるはずがない。俺は少なくとも、跡取りとして、そう言う考え方からほど遠い教育をされてきたし、それが当たり前だと理解するだけの頭も持っていた。
だからこその夕顔瀬 絢音との婚約であったわけだ。
「やはりですか。分かりました。既に今となりましては、元というしかございませんが、少々ではありますが、婚約者であった貴方に助力をいたしましょう」
「絢音?」
「這い上がるための道ぐらいは出来るようにして差し上げますわ」
今のままでは何の足がかりもない。俺は出来上がっているものを維持することは得意であるが、無から有を作り出すのは不得意だ。そう言う意味で、現状俺の人生は詰んだも同然だった。
「いいのか?」
「ええ。脱落を詫びてくださったのであれば、這い上がる気概があるのでしょう」
嬉しそうに笑う絢音に、俺は苦笑を返す。
こいつは、本当に甘いのだ。敵対すれば完膚なきまでに相手を下すことも厭いはしないが、基本が事なかれ主義で、出来れば隠居していたいと言いそうな勢いだ。
けれども、自分の力も知っているこいつは、その手腕を発揮することは躊躇わない。そこに、自分が守りたいものがあればなおのこと。
今回の件は、どう考えてもこいつのプライドがずたずただろうと、今の俺には分かる。どうせやるならばあんな稚拙で幼稚な手は使わないし、そんなことをするなどと思われるのは、心底不愉快だったはずだ。
そうでなければ、ある意味人畜無害を装っているし、身内のように感じていた人間に対しては、少々甘い。俺に対する処遇も、俺が婚約者であった頃と実は変わっていなかったと分かったせいで、こいつの庇護の対象に少しばかり返り咲いてしまったのだろう。
けれども、今はそれをすらも利用しなければならない。
「絢音。お前の思惑以上になることを約束しよう」
俺が微笑み返せば、絢音はただ頷いた。
もう一度婚約者になりたいのかと問われれば、返答に詰まるところであるが、もう一度、対等な立場になりたいのかと問われれば、胸を張って頷ける。
「その時を楽しみにしていますわ」
いずれ、その言葉に報いることが出来たときは、礼を言えるように望もう。
謝罪など俺には似合わないし、それをこいつに受け入れさせるのもご免だ。
失ったものを取り戻すことは出来ない。だが新たに手に入れるチャンスを貰った以上、俺のするべき事は決まっていた。
できうる限り早急に、あのぬるま湯から逃げ出す算段をしなくてはならないだろう。
俺がいなくなったことで、少しでもあそこにいる連中が危機感を持ってくれればとは思うが、俺は親切な人間ではない。自滅をしたければ勝手にすれば良い。
気が付くことが出来なければ、所詮その程度でしかないのだから。
あいつの用意した籠が、快適なのは当たり前なのだ。
あいつは何よりも面倒くさがりで、最後まで面倒ごとに関わるのが嫌で仕方がない。だからこそ、その面倒ごとの種であった俺たちを全員阿佐比に押しつけたのだ。
そうして、勘当させてしまえば、あいつの行動範囲に俺たちは存在できなくなる。下手に動いてまた返り咲かれるのもあいつにとっては面倒以外の何物でもない。
だからこそ、生かさず殺さず。そして、簡単に抜け出したいと思わないようなぬるま湯の快適。
「鬼だな」
利己の為だけに特化しているのに気が付かなければ、優しいとも取れなくはないが蓋を開ければとんでもない。
慣れてしまう前に逃げ出すのが一番なのだと、俺の本能的なところも警鐘を鳴らしている。
「とりあえず、お父様とお母様に、陳情申し上げるか」
這い上がるために不要なプライドは捨てて、兎に角新たな基盤を手に入れようと、俺はとりあえず両親に泣きつくことにした。
あれに気が付いて逃げ出したいのだと言えば、四畳一間のアパートだろうと用意してくれるだろう。
これから忙しくなるなと独りごち。とりあえずは、ぬるま湯の鳥籠に戻ることにした。