幕間、獣王の従者達
―ステージ・0、クリア―
広がる暗闇の中、光の文字列がそう告げた。何はともあれ、僕は山を一つ越えたらしい。しかし、ステージ・0とはなんだ、0とは。始まってすらいないじゃないか。そんな所で二回も殺され、気絶するまで戦わされたのかと思うと……正直、先が思いやられる。出来るなら今直ぐリセットボタンを押して、この世界を構成するゲームソフトをリサイクルショップに170kmオーバーの超速ストレートで投げ込みたい気分だ。しかし、そこにも在庫は山程あって、買い取り不可で場外ホームランされるに違いない。こんなクソゲー、予備知識皆無か余程のマゾじゃない限り手にも取らないだろう。寧ろ販売禁止になるレベルだろ、これ。体感式でリアルに痛いし、死ぬし、殺し合いも全然ゲーム感無いし、色々良くないんじゃないかなぁ……主に脳とか精神衛生的に。
「……でも、そんな世界に残る事を選んじゃったしなぁ」
とはいえ、知ってて選んでしまった物に愚痴を溢していても仕方がない。最後まで責任を持って、クリアまで続けようじゃないか……僕にとって、これは紛れもない現実なのだから。そう自らに言い聞かせた僕は重い瞼を開き、上体を起こして現状を確認する。
「……随分と、様変わりしたな」
死屍累々の王の間を予想していた僕の目に飛び込んできたのは、それとは対照的な平和な景色であった。白色と桃色の二つを基調とした乙女チックな、どちらかと言えば狭めな室内。その雰囲気に合わせたのか、家具も洒落たアンティークを置いている。花瓶とティーセットが置かれたテーブル、それを囲むように配置された三つの椅子の内の一つに、ネイリィと色違いの服を着たウサギのぬいぐるみが、こちらを向いて座っていた。まるで、絵本の一ページをそのまま切り取ったような風景だ。
「御主人様……の、部屋かな」
ネイリィと間違えて、危うくぬいぐるみに声を掛けそうになった自分に失笑し、独り言ちる。どうにもイメージと違うが、人とは得てしてそういうものだろう。あれで中身は可愛らしい乙女……か? 疑問は抜けないが、彼女の部屋以外は考えにくい。何故なら僕は、この部屋の主のベッドの上にいるのだから。
「ん、だとしたら御主人様は何処に……」
思考を巡らせようとした途端に、目の前が暗転した。突然失われた平衡感覚に、僕の身体は柔らかなベッドに倒れ込む。ぼふり、と音を立てて舞い上がるのは芳香だ。清潔な香りの中に少しだけ、嗅ぎ覚えのある女の子の香りが混じる。やはりここは、ネイリィの部屋で間違いなさそうだ。
「無理するなよな、旦那。あれだけ派手にドンパチやらかしたんだ、飯が来るまで休んでいた方が良いぜ」
突然響いた何者かの声に、僕は思わず飛び起きた。周囲を見回せど、声の主らしき人影は見えない。そんな僕に構わず、渋めな声は言葉を続ける。
「旦那に何かあったら、見張りを頼まれたこの俺の命がヤベェんだ。ここは一つ、おとなしくしてくれねぇか?」
そう言って、目の前のティーカップを傾けるウサギのぬいぐるみを僕の目が捉えた。もしかして、ひょっとすると……。
「喋ったのは、貴方ですか?」
「物分かりが早くて助かるぜ、旦那。申し遅れたが、俺の名は“ウォッチ”。しがないオスウサギのぬいぐるみだ。よろしくな」
言葉を終えると、再びティーカップを傾けるウォッチ。その容姿からは、とてもオスとは判別出来ないが……本人、いや、本ウサギが言うのだからオスなのだろう。ぬいぐるみに性別の有無が在るかは別として……。
「……ウォッチさん、ですか」
「おいおい、止してくれよ旦那、“さん”付けなんて……擽ったいからウォッチで良いよ。お嬢もそう呼ぶ」
お嬢とは、ネイリィの事であろうか……。だとしたら、彼女とウォッチはどういう関係なのだろうか……。そんな僕の思案を見透かした様に、ウォッチはその丸っこい手で紅茶のおかわりを器用に注ぎながら言葉を続けた。
「心配なさんな、旦那。俺はお嬢、ネイリィ=ウルファレオの力を分けて貰った、ただのぬいぐるみ。ただの従者。それ以上でも、それ以下でも無い。お嬢のお気に入りは旦那だけだ、心配すんな」
「え、別にそんな心配は……」
「良いって良いって、隠さなくても。ここにいる奴等は大体そう、お嬢にはそれだけの魅力があるのさ。惚れ込んで忠誠を誓うなり、住み着くなり、手伝うなりしてる……旦那もそのクチだろ?」
「……僕は違いますよ」
ニヤリといやらしく笑う彼から視線を逸らす。別に、ウォッチの言葉が図星だったとか、そういう訳ではない。先程から感じる二つ目の視線、それを確認する為だ。
「で、貴方はなんなんです?」
「……!?」
驚いた視線の主は、僕の斜め後ろにいた。枕元にちょこんと座る、手のひらほどの小さなウサギのぬいぐるみ。黒色のローブを纏うそれは、気付かれた事に驚いたのか、ビクリと身を跳ねさせる。次の瞬間、ローブのウサギは目の前から“消失”した。移動の仕草や音すら立てず、瞬く間にその姿を消して見せたのだ。何処に行ったのかと首を回すと、ウォッチが苦笑混じりに声を上げた。
「気を悪くしないでくれ、旦那。俺と違ってシャイなんだよ、コイツは」
その言葉に視線を向けると、テーブルの上のティーポットの後ろから、先程のウサギがチラチラとこちらを窺っている。その仕草が妙に可笑しくて、僕は思わず吹き出した。
「いや、驚かせたのは僕ですし、謝るのはこちらの方かと。すみません、えーと……」
「コイツは“ベル”、俺の妹分だ」
ウォッチに紹介されたベルは、ティーポットの陰から少しだけ顔を出し、ペコリと小さく頭を下げる。それに倣い、僕も頭を下げ返した。
「すみません、ベルさん」
「ベルで良いと思うぜ、旦那」
「そう、ですか?」
本人に確認を取ろうと目を向けたが、恥ずかしそうにティーポットに隠れるばかりで埒が明かない。どうしたものかと思っていると、ウォッチがため息混じりに口を開く。
「ほらよ、ベル。旦那に返事を書いてやりな」
「……!」
ウォッチは、まるで手品のように取り出したメモ帳とペンをテーブルに置いた。それに素早く飛び付いたベルは、身の丈を越すペンを抱え、一生懸命何かを書き綴っている。
「ベルは、喋れないんだ。俺と違ってな」
肩を竦めたウォッチが言った。知らぬ事とはいえ、申し訳無い事をしてしまった。謝ろうかと思っていたら、視界の中のウォッチが首を横に振る。
「なぁに、ベルは気にしちゃいないさ」
謝ればベルが辛くなるだけ、か。ウォッチの言葉に、遅れながらもそれを察した。僕もまだまだ思慮が浅いなと、優しげに微笑むウォッチを見て思い、謝罪の言葉を飲み込んだ。
「!!!」
そんな僕の膝の上、フンスと荒い鼻息を吐き出すのはベル。出来た、と言わんばかりに折り畳んだ紙を掲げている。それを指で詰まんで受け取り、目が合った彼女に微笑み掛けた。
「ありがとう、ベル」
「!!!??」
途端、ベルは驚くほど身を跳ねさせ、僕の膝の上を右往左往した後に姿を消す。自然と微笑みは苦笑へと変わるが、受け取った手紙の開封は止めない。丁寧に折られた手紙を広げると、達筆な文章がみっちりと書き込まれていた。
「……ウォッチ、一つ聞いても?」
「なんだい、旦那。俺に答えられる事なら何でも教えるぜ?」
「……ベルは、貴方の妹分なんですよね?」
「あぁ、ベルもお嬢に力を分けて貰ったぬいぐるみだからな。ベルが生まれたのは、俺よりずっと後だから……ま、年の離れた兄妹みたいなもんさ。それがどうかしたか?」
「……いえ、確認までで深い意味は」
お喋りな所が似ている、とは言わない方が得策だろう。ウサギの兄妹が似た者同士なのは、やはり産みの親のせいなのか。ネイリィも、どちらかと言えばお喋りな方だろうし……。
「あ」
「「?」」
そこで僕は、未だ自己紹介をしていない事に気が付いた。僕も大分お喋りな方だと思うが、こういう所は口数が足りない……どうにも、他者と関わるのは苦手らしい。首を傾げた二人の視線が妙に痛い。
『キミはね、壁を作ってるんだよ』
ふと、彼女の言葉が聞こえてくる。それが何時の事かは思い出せないが、彼女の言葉は何時も的を射ていた。成る程、壁か……確かにそうかもしれない。
『壁越しの声に反応しているだけで、キミは相手を見ていない。見ようともしない。何に絶望して、何を恐れているのかな?』
分からない、けど、そうだった気がする。今だって、ウサギ達を警戒している自分がいるのだから。
『私は構わないよ、お陰で君を独り占め出来るんだからね。けど……私の好きなキミが、他者に理解されないのは少しだけ悲しいな。どうかな? 少しだけ、扉を開けてみない?』
そう言われたはずなのに、僕は未だ扉を閉めていた。一体、元の世界で何があったのやら。それはともかく、今は扉を開けてみよう。きっと、それほど悪いものでも無いはずだ。僕は固く閉ざされた扉を、力一杯押してみた。渋い音を立てながら、分厚い鉄扉は開かれる……。
「すみません、二人共……自己紹介を忘れていました。僕の名前は」
「ツクモー? 良い子にしてたかなぁ?」
と、部屋の扉を開いたネイリィの甘ったる声により、僕の決意はものの見事に砕かれた。この幼女は、色々と砕くのが上手いらしい。手間は省けたけど、何だか複雑な気分だ。ため息混じりに目を伏せると、部屋に入ったネイリィの顔から笑顔が消えた。
「ウォーッチ、何をしたのぉ……?」
「お嬢、俺じゃないぜ? 今のはお嬢」
「ツクモを虐めるなって、私、言ったよねぇ……?」
「……おぉっと、こりゃマズイ。聞いちゃいねぇぜ」
ウォッチの言葉通り、話を聞こうともしない真顔のネイリィは、王の間で見せたように身体を獣のそれへと変化させていく。今回は、片腕だけではなく四肢全て。メキメキと音を立てて肥大と縮小を繰り返し、ネイリィの身体のサイズに合わせられる獣の四肢。指は形質を変えて鋭い爪へ、白い肌を侵食する体毛は髪の毛と同じく金色に輝いている。
「私の飼い犬を汚すんじゃねぇよ、この女装趣味の変態ウサギがぁああ!!?」
憤怒を宿した双眸がカッと見開かれた瞬間、叫びも終わらぬ内にネイリィは身体を跳ねさせた。その動きは正に獣そのもの。瞳が捉えた獲物に向かい、一直線に肉薄。鋭い爪を躊躇なく振り抜いた。哀れウサギのぬいぐるみは、その腹から綿を溢す事となる……。
「やれやれ、誰が女装趣味の変態ウサギだ……着せたのはお嬢だろうが。ツクモの旦那、念を押すが俺の趣味じゃねぇぜ?」
今の流れでは間違いなくそうなるはずなのだが、不可思議な事に僕の目に映るのは、ネイリィの背後、開け放たれた部屋の扉に寄りかかる無傷のウォッチだ。動体視力には少々の自信がある僕だが、彼の移動する様子は捉えられなかった。
「……このウサ公、私の仕置きを避けやがったなぁ……!?」
「そりゃ冤罪だ。俺に仕置きされる理由はないぜ。痛いし、縫い糸や綿だってタダじゃないんだ。避けるに決まってるだろ?」
「……ンのウサ公ッ! バラバラにしてやる!」
癇癪を起こしたネイリィが、振り返り様にその爪を振るう。瞬く間に幾度も振るわれた爪の斬撃は、離れた対象すら細切れにしてしまった。尤も、バラバラになった対象は扉なのだが。
「ツクモ!? 待て、よ! 私があのウサギをバラバラにして帰るまで部屋から出ないようにね!?」
早口に捲し立てたネイリィは、跳ねるように部屋から飛び出した。何というか、色々と忙しい御主人様である。やれやれ、と一息吐いて視線を下げると、僕の膝の上にはまたしても小さなウサギが。僕の膝が余程お気に召したようで、小さなティーカップを抱えてほっこりしていた。ちぴちぴと紅茶を啜るその様は、殺伐とした部屋の空気を少しだけ和ませる。
「……まるでスコールだな」
『狼さんだしね』
呆れ混じりの僕の言葉に、返ってくるとは思わなかった反応が一つ。何時の間にやら紅茶を飲み終えたベルが、小さなメモ紙をこちらに向けていた。お陰で顔は見えないが、頑張って僕と会話をしようという意志が見える。それが何だか、少しだけ嬉しく思えた。
「……狼?」
『あれ、知らない? スコールって狼さんがいるの』
「……残念ながらね。僕の言ったのは、激しい天候変化を伴う急激な風速増加現象の事だよ」
『知ってる。それと掛けたジョークのつもりだったのに……ガクッ』
「ごめんね、しかし、ベルは物知りなんだね」
『趣味は読書なの』
「書いてあったね、さっきの手紙に……」
打てば響くようなその反応、彼女の高速筆記術に思わず笑みが溢れる。その時、はたと気付いた……自分が直感的に言葉を吐き出している事に。
『ツクモ、優しい顔になった』
「……え?」
『さっきまでは、ちょっと怖かったの。けど、今は怖くない』
そう書いた紙を下げたベルは、僕の目を見てニコリと笑う。扉は、きちんと開け放たれた。そういう事なのだろうか……。
『ベル、ツクモの事が好きになったの』
メモ紙を掲げながら、人の膝上をゴロゴロと転がるベル。彼女以外にも、僕を好きと言ってくれる存在が出来た……それが何だか嬉しくて、口元が緩んだ。
『……ツクモ? 泣いてるの?』
なのに、僕の視界を冷たい雨が歪ませた。頬を伝う雨粒は、一体どんな思いが詰まっているんだろう……今の僕に、それを知る術はない……。
「失礼しまーす、お食事をお持ちしましたうわぁああ!!? と、ととっ、扉がバラバラにぃ!?」
突然響いた新たな声に、僕は雨を振り払い顔を向けた。部屋の入口にて、顔に絶望の色を浮かべるのは背の高い女の子。小綺麗なメイド服に身を包み、赤茶色のツインテールを揺らしている。その両手には、山盛りの料理が乗せられたお盆が器用に乗せられていた。
「あ、ああ……折角直したのに……また、
バラッバラにゃ……」
良く見れば、その頭には獣の耳が、お尻からは細長い二本の尻尾が生えている。彼女もまたネイリィと同じで、僕の知る“人間”では無いのだろう。こちらの視線に気が付いたらしい彼女は、青い顔で疲れた笑みを浮かべた。
「あ、ごめんにゃさい……お食事、冷めちゃいますよね……」
『“テクト”、なんかごめんね?』
「そんにゃ……ベルさん、気を遣わずとも良いんですよ……これも、下っ端メイドの勤めですから……ははっ……」
全身からどんよりとした黒い空気を放つメイド、テクトと呼ばれた彼女は、二本の尻尾で器用にテーブルの上のティーセットを片付けると、両手のお盆を置く。どんな料理かと少し身を乗り出すと、驚くほどの肉、肉、肉。というか、肉しかない。栄養バランスも何も無い、偏りまくりの食卓だ。調理法を変えれば良いという物ではない。一体誰が食べるんだ、こんな量。
「にゃー、ちょっと張り切り過ぎましたかね……でもまぁ、新入りのワンちゃんが入るとかいう話でしたから。ネイリィ様が気に入ったとなれば、それはそれは健啖家の巨大ワンちゃんでしょうし、大丈夫でしょう」
はい、僕でした。薄々分かってはいたが、苦笑いしか出ない。食の細い僕がどれだけ頑張っても、一皿片付けられれば良い方だ。どうしたものかと思案する僕に、元気の戻りつつあるテクトが新しいティーポットで注いだ紅茶を僕に差し出す。
「ほいっ、と……してベルさん、この可愛らしい坊やは誰ですかにゃ? 下っ端メイドはにゃにも聞いてませんのです」
『これが件のワンちゃん、ツクモだよ、テクト。』
「………………は?」
瞬間、テクトの時が止まった。差し出された紅茶はそのままに、人好きのする笑みも固定されている。そして、噴き出した汗と共に時は動き出す。
「ちょっと失礼……耳、なーし! 犬歯の発達、なーし! 尻尾、なーし! にゃーんだ、ワンちゃんじゃなくて人間ですかー! あー、ビックリした! 驚かさないでくださいよ、ベルさん!」
はっはっはっ、とわざとらしい笑い声を上げたテクトは、僕を弄る手を止めた。納得した、というか、現実逃避の材料を揃えられたからだろう。テーブルに置いた紅茶を再び僕に差し出し、自らも淹れた紅茶のカップに口を付けた。
『比喩だよ、テクト。ワンちゃんみたいな人間って事。ネイリィが異界から呼び出したのは、正真正銘、ベルの横にいるツクモ。テクトの勘違いなの』
だがしかし、テクトにとって都合の良い現実は真っ二つに切り裂かれた。ベルの一刀両断に、彼女は紅茶を勢い良く吹き出した。ご丁寧に、こちらへ向かって霧吹きの如く。
『……テクト、汚い』
「申し訳にゃい……」
ガックリと項垂れる頭は現状への謝罪か、はたまた未来に待ち受ける悲劇への憂鬱か。或いは両方かも知れないがしかし、紅茶を吹き掛けられた僕が、何故こうも悠長に観察していられるのか……それは恐らく、ベルが助けてくれたからだ。
『……ベルにも、何かしらの力がある……御主人様とは異なる力が……』
でなければ、紅茶の飛沫が僕を“すり抜ける”はずがない。恐らく、透明になる事と関係があるのだろう。彼女も僕同様に、紅茶の被害を逃れているのだから……と言っても、まだまだ僕の推測の域でしか無いのだが。何にせよ、ネイリィの言う所の“力”とやらについては理解を深めておいた方が良さそうだ。
『僕が死んでも甦る事と関係があるだろうし……それに、もしもこんな力を敵も持っているとしたら……無知のままは危険だ』
仮にも魔王と呼ばれる奴と対峙するのだ……石橋を叩き過ぎて壊れる事はあるまい。思い立ったが吉日、という訳で、僕は膝の上にいるベルに声を掛けた。
「ベル、ちょっと聞きたいんだけど」
『……力の事については、ちょっとベルじゃ教えられないの』
「おっと、流石に読まれたね。どうして?」
『多分、ネイリィに怒られるの』
真顔のベルの言葉に、ネイリィの激怒する様が容易に浮かんだ。まだまだ短い付き合いだが、今までを考えれば予想は出来る。思わず頬を緩めた僕をジッと見つめるベルは、そのまま言葉を続けた。
『ベルより、ネイリィの方が詳しい。それに……』
「それに?」
『……ネイリィの方が、ずっとツクモの事を理解してるの。ベルには、まだ良く分からない事も』
少しばかり寂しそうな目をしたベルは、くるりと僕に背を向けて跳んで、膝から離れると空気に溶けた。そうして、メイドのテクトと二人きりになってしまった僕は、紅茶に濡れた掛け布団の心地悪さを漸く認識した。
「……力が、解けたのか」
呟き、自らの推測に少しばかり確信を抱いて立ち上がる。それに合わせて暗い顔を上げたテクトは、緩慢にこちらを向いた。ふと視線が合うと、テクトは申し訳無さそうに口を開く。
「あのぅ、そのぅ……ごめんにゃさい。知らぬ事とはいえ、とんだ失礼を……」
「え? あぁ、いや……さっきの事なら気にしてませんから。濡れてませんし」
「それも、そう、なんですが……そのぅ……色々触ったり、坊やとか、言っちゃったし……ヤバいにゃあああんっ!? お願いしますぅうう、何でもしますからネイリィ様には御内密にぃいい!?」
涙目で腰にしがみつき、こちらを見上げて必死に懇願するテクトに、僕はため息で答えた。
「……分かりましたから、早く離れてくれると嬉しいです」
「本当ですか!?」
「……それこそ、こんな状況を見られる方がヤバいと思いますよ」
「それもそうにゃ!」
ハッとしたテクトは、素早く離れてメイド服の乱れを整える。最後に胸元のリボンを結び直すと、納得した様に頷いた。
「完、璧! とても事後とは思えない!」
「まるで僕達の間に何かあったかの様な言い種ですね」
「……あ、いや、そんにゃつもりでは……あ、お布団お布団!」
少しばかり顔を赤くしたテクトは、その独特な猫目を泳がせる。それから直ぐ誤魔化す様に声を上げ、濡れた掛け布団に飛び付いた。
「今から干すんですか?」
「にゃはは、またまたそんなご冗談を! “作り直す”方が手っ取り早いじゃにゃいですか!」
「……はい?」
テクトの言葉に、僕は思わず聞き返す。聞き間違いだろうか……干すより作り直した方が早いなど、そんな馬鹿な話があるだろうか。そんな思いから彼女の動きを目で追うと、僕はその馬鹿な話を目の当たりにする。
「にゃんにゃかにゃんにゃんにゃかにゃんにゃーん、新品お布団ふっかふかー」
鼻歌混じりに動くテクトの手は白光を帯び、濡れた掛け布団を宙に浮かび上がらせた。浮かぶ布団もその手と同様に光輝き、手の動きと合わせて組み換えられていく。僕が唖然とした数秒の間に、言葉通りの新品お布団がベッドに舞い降りた。恐る恐る手を伸ばし触れてみると、先程の湿り気は綺麗さっぱり消えている。
「何を……? いや、これがテクトさんの力なんですね」
答えとばかりに満面の笑顔を浮かべたテクトは、続けてその手を動かして僕の視線を誘導する。その先は、ネイリィにバラバラにされた入口だ。
「んにゃ、その通り。これが下っ端メイド、テクトさんの特技ですよー。人呼んで“再生職猫”」
言葉が終わると共に、扉だった破片が光輝いた。布団の時と同様、光となって組み立てられた破片は元通り、扉として入口に佇んでいる。
「……凄い」
「にゃははははっ! 作るのが得意なので、コックさんも兼任してるのですよ! ささ、ツクモ様、折角ですから食べてくださいにゃ!」
僕の素直な感心の言葉に気を良くしたのか、ふにゃりと猫の様な笑みを浮かべたテクト。僕の背を押し、料理が並ぶテーブルの前へ座らせた。少し時間が経ってしまったが、今尚湯気を立ち上らせる肉達は香ばしい匂いで僕を誘惑する。そういえば、こちらに来てから何も食べていなかった。空腹とは、意識すれば殊更に強くなるもので……僕の喉とお腹が鳴るのに、そう時間は掛からなかった。
「にゃは、可愛らしい音……一杯食べてくださいね、お代わりは幾らでも用意できますから」
くすりと笑うテクトから、紅茶と切り分けられた肉を受け取り、僕は妙に熱い顔を意識しながらフォークを手に取る。フォークを突き刺した温かい肉を口元まで運んで、ふと思う。
『そういえば、御主人様は何処まで行ったのやら……』
小さく開けた口の中に肉を放り込んだ瞬間、轟音と共に部屋が揺れた。
「んぐっ!?」
「ふぎゃあ!!! またネイリィ様の癇癪ですか!? 勘弁して欲しいにゃ、もう!」
頭を抱えて喚くテクトを横目に、僕はフォークをテーブルに置く。こういう時こそ冷静にならなければいけない。先ずはそう……紅茶だ。
「あれ、ツクモ様?」
しかし、信じられない事に先程の衝撃で僕のカップはひっくり返っていた。テーブルを伝い床に滴る紅茶を眺め、何か他に手はないかを考える。
「顔、真っ青ですけど……もしかして、詰まったのかにゃ?」
気付いてくれたらしいテクトだが、残念ながら手遅れだ。ポットは床に落ちて粉々、今から入れ直しに行っても間に合わないだろう。周囲に水道的な物も無し。吐き出そうにも、変な引っ掛かり方をしていて出てこない。詰んだ。誰がこんな地味で切ない、しかしリアリティ溢れる死に方をすると予想出来たか……。
『……もしまた生き返れたら、揺れの後にゆっくり食べよう……』
ぼやける視界の中でそう決意し、瞼を落とした僕は何ともいえない最後を迎えた……。
「……非常時だし、許して貰えるにゃ」
「………………?」
と、思ったのだが……不意に耳元で聞こえたテクトの声に、僕の意識は途切れずに済んだ。目を開くと、そこは先程と変わらぬ風景で、少しばかり視界が傾いている。支えられている感触から、テクトが介抱してくれたのが容易に想像出来た。
「ありがとう、テク、ト、さん……?」
顔を上げた僕の目に映ったのは、口の回りを赤く汚したテクトである。その赤が血液である事は、彼女の口からはみ出した赤黒い物体を見て察した。荒い鼻息、陶酔した瞳……そして、くちゅくちゅと音を立てて咀嚼する彼女は、先程とは違う雰囲気を纏っている。その雰囲気に飲まれた僕が見守る中で、テクトははみ出した物体をじゅるりと吸い込み更に咀嚼……十分な咀嚼の後に、口の中のそれが音を立てて嚥下した。
「あぁ……トッテモ、オイシイ……」
「……テクト?」
呼び掛けると、テクトはハッとして僕を見つめる。視線が絡むと、彼女は取り繕ったような笑顔を浮かべた。
「……にゃははっ、見て、ました?」
「……目に焼き付いてます」
「そう、ですか」
何処か怯えの色を宿したその瞳。僕の脳裏に、ある可能性が映像として浮上する。余りにグロテスクな可能性だが、不思議と僕は冷静でいられた。それ故にか……余りに軽々しく、僕の口は言葉を溢した。
「僕の喉、美味しかったですか?」
「ッ!!?」
テクトの顔が悲痛に歪むのを捉えたと思った瞬間、視界の高速下降。テクトという支えを失った僕の身体は、自然の法則によって床に叩き付けられる。痛みに顔が歪むのを感じながら立ち上がった僕の視界には、誰も居なかった。開け放たれた扉が、後悔を強く僕に刻んだ。
「……僕もまだまだ思慮が浅いな」
小さなため息と共に、僕は頭を抱えて項垂れる。もう少し言葉を選べたはずなのに、よりによって一番最悪な言葉を選んでしまった。考えれば分かる事だったのに、傷付いた心を更に抉る真似をしたのだ。またしても僕は選択を誤って……またしても?
「……痛ッ」
浮かびかけた記憶の一枚は、鋭い頭痛によってビリビリに引き裂かれた。余り、深く考えない方が良さそうだ。それより今、大切なのは……。
「……謝った方が、良いよね……方法はどうあれ、助けて貰った訳だし」
飛び出したテクトを探して、謝る事だろう。何時までも戻らないネイリィとウォッチ、消えたベルの事も気掛かりだし、何はともあれ部屋を出よう。ふと視界に入った肉を口に放り込んで、旨味の広がる塊を良く咀嚼してから飲み込んだ。今度は詰まったりはしない。
「美味しかった、かな……いや、先ずは謝ってから……うーん」
新しくなったらしい喉を触りながら、テクトに会った時の発言を吟味する僕は開け放たれた扉から部屋を出た。待て、と言われていた気がしたが、今回は忘れた事にしておこう。
「さて、と……どっちかな?」
予想以上に重い扉を押し閉めて、一息ついた僕は辺りを見回した。王の間の広さから、何となく想像は付いていたが……城内はとんでもなく広いらしい。右に左に、象牙色の廊下が何処までも続いている。等間隔に配置された扉が、歩く者を狂気へと導きそうな雰囲気だ。
「……左に行ってみよう」
何度か辺りを確認し、僕は爪先を左へと向けた。右の廊下には、ネイリィが通ったと思しき無数の爪痕が残っていたからだ。他人が見たら、この捻くれ者、と罵りそうだがこれで良い。ネイリィが通ったという事は、ウォッチがそちらへ逃げたという事。この城を知る物が、わざわざ狭い方へ逃げるだろうか……答えは否だ。より広く、複雑で、追手を撒ける様な方向へ逃げるのが定石だろう。まして追手はあのネイリィ、敢えて定石の逆を行く、なんて小細工が通用する相手ではないだろう。つまり……。
「右に比べて、左は狭くて単純って事……だよね?」
同意を求める言葉は、長い通路に反響するばかり……誰の言葉も返ってはこない。誰になく呟いたのだから、当たり前なのだが。
「……さて、探検に出発だ」
小さくため息を吐いた僕は、 ネイリィの部屋の扉を一瞥して歩き始めた。右の廊下の爪痕が、彼女の部屋の目印になる。最悪、危なそうなら戻ってこよう。命あっての物種だ、旅は安全でなくてはならない。その内、ネイリィが戻ってくるだろうから……。そんな思いから出発した僕は、迫る危険を警戒しながら廊下を進む。
「……しかしまぁ、見渡す限りの同じ壁と扉だなぁ。何処まで続くのやら」
歩く度に視界の端で通り過ぎるのは、同じ扉と壁面の照明器具。別に、敵や罠に遭遇したい訳でもないが……こうも何も無いと退屈ではある。長いのは重々承知していたし、厄介事にならないよう、扉も眺めるに留めていた。やる事と言えば、こうしてぼやきながら周囲を観察する事だけ。
「……そういや部屋の中も廊下も、窓もないのに明るいけど……この城の照明器具ってどうなってるんだろ……?」
ふとした疑問に足を止め、僕は壁に備え付けられた照明へと目を向ける。銀色の台座に、花の形を模した半透明のパーツを先端に拵えた照明だ。先端はガラス細工だろうか、良く見れば内側に光る物が見える。
「……この世界にも、電気があるのかな」
だとすれば、ゲーム機なんかも有るかもしれない。少しばかり咲いた期待という花は、不意に感じた濃厚な獣臭に踏み潰された。
「……なんだ?」
瞬間的に思考を切り替え、周囲の情報を収集する。背後、前方、天井、床……変化は見られない。ならば臭いの発生源は、はたして何処に。
「きゃあああああ!?」
瞬間、女性のものらしき悲鳴が廊下に木霊した。どうやら前方からだ。僕は直ぐに思考を巡らせ、自らの身の振り方を考える。確かめに行くべきか、それとも戻って部屋に隠れるか……。
「……行くか」
危険は犯したくは無い。しかし、僕はもう進み過ぎていた。良く前を見てみれば、そこは直ぐに曲がり角。悲鳴と獣臭は、恐らくその角の先だ。それにもし、今の悲鳴が飛び出して行ったテクトだったら……そう考えると、僕は進まずにいられなかった。僕はゆっくりと歩を進め、角のギリギリで壁に張り付く。そして、向こう側の様子を伺うべく少しだけ顔を出した。
「……!?」
そこには、思わず息を飲む光景が広がっていた。象牙色の廊下は、見るも無惨に赤黒く染められていたのだ。その原因は、恐怖に顔を歪めたまま固まるメイド姿の知らない女性。彼女の血だ。整った顔に、細く綺麗な腕……美しい人だったのだろう……パーツが“全て揃っていた”生前は。今の彼女は、床に転がる人間だった物のパーツでしかない。その残りは何処に行ったのか……それは、その光景で一番目を引く“赤目の怪物”の口の中だ。夜の闇の様に黒く、怪しく蠢いているその姿は狼の様であり、広い廊下の半分を埋めてしまう程に巨大である。
『さて、どうするか……仮に狙われたら、今の僕じゃ一溜まりもない』
淡々と肉を貪る怪物を前に、僕は頭を引っ込めた。犠牲者はテクトではないと分かった以上、ここに留まる必要もない。しかし、あの怪物に気付かれる事無く部屋まで逃げ切れるだろうか。恐らく、不可能だ。こうなれば危険を覚悟で、手近な部屋に逃げ込むしかない。僕は視線を正面に向け、眼前に広がる扉を見比べる。すると、壁に手摺が付いているのを発見した。先程は照明に気を取られて見過ごしていたが、壁と同色の小さな扉があるようだ。扉には、うっすらと“てくとのへや”と刻まれている。
『テクト!』
心の中で歓喜の悲鳴を上げながら、僕は静かに扉へと歩み寄った。状況が状況なのでノックはせず、おそるおそる手摺に手を掛ける。鍵は掛かっておらず、手前に引くと簡単に開ける事が出来た。
「……お邪魔しま」
「ふにゃ~、さっぱりしたぁ……?」
この時、僕は悟る。またまた僕は、選択を謝ったのだと。静かに部屋へと足を踏み入れると、目の前にバスタオルで頭を拭いているテクトが現れた。一糸纏わぬその姿は風呂上がりなのか、しっとりとした健康的な肌が見える。ふと、部屋の主であるテクトが此方を見た。必然的に、視線が絡み合う。どんなに愚かでも、この先に待つ未来は予想出来よう。
「に、にゃあああああああああ!!?」
みるみる内に顔を真っ赤に染め上げたテクトは、手にしたバスタオルを投げ付けてきた。それは凄まじい速度で僕の顔面にめり込み、その身体を部屋から叩き出す。部屋を飛び出した僕の身体は、廊下の壁に激突する事で漸く静止した。頭を強く打ったらしく、思考がまるで働かない。
「……テクトの身体、綺麗だったよ」
らしくもない感想を呟いて、顔面に纏わりつくテクトの使用済みタオルの匂いを思い切り吸い込んでからため息を吐いた。僕が強烈な獣臭に包まれたのは、その直後の話である。
“ライフ”×96。
―ステージ・1、スタート―
“セーブ”が可能となりました。
“ブラックボックス”が使用可能となりました。