さようなら、世界
世界は、真っ黒だった。
いや……、現状では真っ暗な世界と言った方が正しいか。僕は今、何も見えぬこの世界で浮遊感に包まれている。ここが何処で、どの様にしてやって来たのか、何一つ分からない。果たして瞳は開いているか、自らの身体は無事なのか、そもそも僕という存在はここにあるのか……光無きこの世界では、それらを確かめる術は無い。
『僕は、何だろう?』
浮かぶ思考に返す記憶は無く、代わりに返事をしたのは鋭い痛みだ。酷い頭痛……まるで僕自身に関する記憶を拒むように走った痛みは、皮肉にも僕の存在の証明となった。
『他には、誰も居ないのかな?』
そう思い、痛みの残る頭を回すも無駄に終わる。ここが暗闇の世界である事を失念していた。自らの愚かさに失笑し、その乾いた笑い声が暗闇に木霊する。反応は、無い。分かってはいたが、少しだけ寂しさを覚える。
『何だろう、この感じ』
痛むはずの無い胸の奥が、悲鳴を上げた。ぽっかりと空いてしまった胸の穴には、一体何が在ったのだろうか。分からない、思い出せない……脳裏に掛かる靄へと一歩踏み出すと走る痛み……空虚と激痛を天秤に掛けた僕は、少しだけ迷って思考を打ち切った。空虚である。
『眠ろう……このまま』
思考を閉ざし、浮遊感に身を任せた。こうすれば、きっと直ぐに意識も飛んで行く。そうすれば、空虚も激痛も消えてなくなる……。さようなら、僕。そんな風に他人行儀な別れを告げて、僕は僕を暗闇に溶かしていった………………。
「おぉー、遂に現れたか伝説の勇者よー。その力で、魔王からこの世界を救いたまえー」
「………………えっ?」
が、溶け始めた僕の意識はあっという間に凝固剤で固められ、僕という存在の出来上がり。漏れ無く世界に認識されるという訳だ、望みの有無など言わせずに。思わず開いた我が眼が最初に映したのは、僕を固めた凝固剤。真正面、少し離れた所に座るそれである。
棒読みの台詞を紡いだであろう薄紅色の唇、豪奢な椅子の上で足を組み、尊大に腰掛ける小さな体躯……。深紅のマントを羽織り、薄い胸元と腰下を申し訳程度に守る衣服を纏うは女性……いや、女性と呼ぶには余りにも幼すぎる幼女。しかし、新雪の様に穢れなく、それでいて健康的なハリを感じさせる肌を惜し気も無く晒す様は妖女……。そんな不思議な雰囲気を持つ彼女は、見つめる僕を見つめ返して首を傾げる。その拍子に、肩ほどまである金糸の様に美しい長髪と、それを纏めたサイドテールが可愛らしく揺れた。
「ふぅん……うふふ、そうなんだ」
何かを納得したように呟いた彼女は、紫色の瞳をスッと細めて笑みを作り、獰猛な獣を思わせる鋭い歯を口許に覗かせる。途端に襲い来る寒気に身を震わせ、僕は視線を僅かに逸らした。
「ふふっ、可愛いィ……まるで怯えた小動物」
歌うように言葉を紡ぐ彼女に然り気無く視線を戻すと、小さな頭には小さな王冠と、本来あるはずもない“獣の耳”らしきものがくっついている。
「ようこそ我が国へ、可愛い勇者くん」
分からない事だらけの現状だが、妙にハッキリと見えた彼女の姿……その素敵な笑顔から、恐ろしい世界にいる事だけはハッキリと確信した。