後編
色んな事が急に頭の中に流れ込んできた。
天井の模様を目で追いながら整理しようと努めた。
『俺は日花里が好きだ……』
『昇は綺麗だって言ってくれたんだよ……』
『あいつ、お前の事が好きなんだよ……』
『急性骨髄性白血病……』
『日花里は知ってるのか?……』
本当に本当に頭の中がぐちゃぐちゃになってしまいそうだった。その一番の原因はたぶん、
“俺は日花里が好きだ”という事なのかもしれない。
昇が病気と闘っている。それも人知れず、愚痴も零さずに。俺はその間、のほほんと無駄な時間を過ごしていた。そんな昇と比べたら、俺なんてちっぽけだ。小さすぎて見えないくらいちっぽけだ。そんなちっぽけな俺が、昇が好きな日花里に恋している。それでも、それが恥ずかしい事だとも思っていない。
本当の事を言えば、そうやって闘える昇がかっこよく見えて嫉妬しているのかもしれない。
心のどこかで日花里には昇が相応しいと諦めているのかもしれない。いらない同情をして一人で納得しているだけかもしれない。
汚い人間なのだろうか?俺は素直に、昇と日花里が付き合う事を手助けするべきなのか?だが、もし昇に何かあったら日花里はどうなる?いや、昇に何かなんてあってはならない。そんな事、絶対にあり得ない!
悶々と繰り返される問答に、寝つけない夜のような気持ち悪さを感じた。だが、そんな時に限って時間だけが過ぎて行く。そして一つの答えに辿り着く。
今は、昇が病気を治す事。
そう、それが一番大切な事。
その為に、俺が出来る事は何でもやろうと決心した。
***
その日の夕方、半ば放心状態のままテレビを見ていると、日花里が家にやってきた。
日花里の親が遅くなるのでうちで夕飯を食べて行くという事だ。
そんな日は今まで日常茶飯事で、俺達は兄妹のような状態だから自然だった。
……今までは。
「日花里ちゃん、おかわりは?」
母親が日花里に訊く。日花里は丁重に断って、作り笑顔を作った。
それが日花里がうちに来て交わした会話の殆どだったと思う。
俺も日花里もなぜか無口で、見たくもないテレビに視線を泳がせる。
だんだんと空気が重苦しく感じてきて、とうとう俺の方が根を上げてしまった。
「元気ない」
「……そう?」
「全然」
「……そうかな?」
もしかしたら昇が全てを話したのかもしれない。
だとしたら、日花里が落ち込むのも頷ける話しだ。
ただ、その確証がないから俺から昇の病気の話を切り出すわけにはいかない。
「じゃ、そろそろ帰るね……」
「うん、またな」
時計は八時を回っていた。とうとうこの時間までなんの話もなかった。
だが、慌てる事はない。明日だって明後日だってあるんだ。
「裕樹?」
部屋を出ようとした日花里が、ふと立ち止まり俺の名を呼ぶ。
俺は不意を突かれたフリをして曖昧に返事をした。というのもこの頃、日花里と一緒にいる間は心臓がバクバクしているから、それを感付かれないように平静を装う。
「ちょっと……話があるんだけど」
「……なんだよ、改まってさ」
日花里の家はすぐ隣だから送るほどのものではない。玄関を出て道路に出て家と家の間にある街灯の下に来ると日花里は立ち止まった。
「あのね……こんな事、急でごめんね」
「なんだよ」
「今日、昇から聞いたんだ」
やっぱりそうだ。
俺は一つだけ荷物を下ろしたように肩の力がスッと抜ける感覚になった。
昇が自分の病気の事を正直に打ち明けたんだと思った。
夜の闇が音を吸い取るように静かだった。街灯のランプだけがジジジ……と小さな音をたてている。
長い沈黙だった。
「裕樹が……私のこと好きだって……」
「え?」
「だから、正直に言うね……私も、裕樹の事が……」
おかしな事になってしまった。
昇が日花里に話さなくてはならない事はそういう事じゃないのに……
「ちょ、ちょっと……」
だけど、すでに日花里の目は潤んでいて、気が付けば日花里の頭が俺の胸に当たっていて……
俺の手が……日花里の肩を抱きしめていて……
自分が最低なヤツだと思った。
同時に昇のバカとも思った。
凄い葛藤だった。俺はこれ以上最低な人間になりたくなかった。
歯を食いしばって、日花里の肩をゆっくりと離してゆく。
そして言わなければならない。
「日花里、……の、昇もお前の事が好きなんだ」
その瞬間、日花里の目が何かに気づいたかのように大きくなる。
小さな肩を震わせながら、日花里は言葉を探していた。
「あ、あたしね……本当は怖かったの。こうなる事……怖かったの」
「……うん」
「だって、今まで三人が一緒だったのに、こうなってしまったらどうしていいかわからなくなる」
涙をポロポロと流す日花里も俺と同じ事を考えていたんだ。
この三人の関係がいつか壊れてしまうんじゃないかという事を恐れていたんだ。
それを知って、俺も少しホッとした。なんでホッとしたのかは分からないけど。たぶん同じ心配をしている三人の意識が共有できたからかもしれない。
「昇がどうしてそんな事を日花里に教えたのか、俺は知ってる」
「……病気?」
それも聞いていたのか、それとも……
「昇は教えてくれないけど、あたしは気付いてるのよ?……ねえ、裕樹は全部知ってるの?」
俺は下唇を噛み、コクンと頷いた。
「ねえ……どうして?どうしてあたしだけ除け者にするの……そんなのイヤだよ」
「ゴメン、俺も今日教えて貰ったんだ。いや、無理矢理聞き出した。アイツ、ずっと黙ってんだよ。ズリいよ……」
ズルくなんかない。かっこいいよ。かっこよすぎるよ。昇。
昇には昇の考えがあるんだ。そして自分が病気だと言って同情される事を最も嫌うヤツでもあるんだ。
話せと言ってもアイツはやっぱり……話さないんだろうな。俺はアイツみたいに強くなれるだろうか?
***
翌日、俺と日花里は朝から昇の家に上がりこんだ。
そして俺が開口一番に言う。
「昇!俺は日花里が好きだ!」
突然の俺の言動に、昇だけじゃなく、日花里まで驚きの表情を作る。
だけど、そんなのに構わず、俺は話を続けた。
「だけど、アンフェアな戦いは嫌いだ。まずはお前が病気を治してから、正々堂々と日花里を奪いに行く!いいな!?」
一瞬空気が固まったような気がした。
その空気をクスクスと笑って和らげてくれた。
「あのぉ……その相手が目の前にいるんですけどぉ……」
日花里はついには笑いを抑えられなくなって、俺の不器用さをからかい始めると、昇も噴出した。
「裕樹ってやっぱり昔っから変なヤツだよな」
「変なヤツなんて言うな」
「ウンウン!変なヤツ~」
もう俺達に嘘や隠し事なんていらない。
日花里が今は俺の事が好きかもしれないが、昇が本気を出したらすぐに奪われてしまうに違いない。
あいつは男の俺から見てもかっこいい奴だ。
「だから……絶対に治せよな?」
俺の問いに昇の顔から笑顔が取れ、少し陰りが見えてきてしまった。
「八月二〇日、午前九時……骨髄移植の手術を受ける事になったんだ」
八月二〇日は毎年恒例の花火大会の日だった。
日花里が浴衣を新調してまで楽しみにしていた日。それは間違いなく俺と昇にとっても同じだったハズだ。
「楽しみにしていた花火大会、行けなくてごめんな……」
「何言ってんの!そんなの来年一緒に行けばいいじゃない!」
「そうだ、二〇日は俺も日花里もお前の傍にいるからな!」
昇は俺と日花里の顔を交互に見たあとにボソっと呟く。
「……抜け駆けすんなよ」
昇のその言葉を聞いて、今度は俺が吹き出す。そしてすごく大きな安堵に包まれた。
「当たり前だ!お前とは正々堂々と戦うんだからな」
「もう……あたしモテモテじゃない」
「自分で言うなって!」
俺と昇に同時ツッこまれた日花里が笑い出し、俺も昇も笑い出した。
***
八月二〇日。
この日の朝は、俺も日花里も気が気じゃなかった。
手術自体は決して難しいものではないらしい。
ただ、この手術が成功しても、助かるかどうかはその後の経過を見ないとわからないそうだ。
命が助かった場合でも、再発しないとも限らない。
「今日の太陽が一番高くなった時に手術が終わるんだって……」
日花里が妙な事を言った。
「あたし、昨日調べたんだけど、今日の太陽の最高高度って66.2°なの」
「どうしてそんな事を?」
「うん……なんかね、昇って名前にちなんで、太陽が昇っている間に手術が成功すればいいなって……あたし変かな?」
俺は日花里の気持ちが痛いほどわかる。
何かに祈りたい気持ち、何かに縋りたい気持ち、それは今の俺達が抱いている気持ちなんだろう。
きっと上手く行く。
あいつは……昇はいつだって上を目指している。
俺達三人は出来る限り長く三人でいたい。
「あいつ、絶対に治すって約束してくれたんだ」
「うん……昇が約束破ったこと……ないもんね」
「ああ」
既に太陽は高くなり初めていた。
ジリジリと照りつける熱線は、気温をどんどん高くして行く。
きっと大丈夫。
昇はきっと戻ってくる。太陽が66.2°まで上がった時、あいつは約束を果たしてくれるだろう。
了
ありがとうございました。