05.天蓋
デレクは朝の微睡みの中、淡々と本の紙を捲っていた。それでも確かに言葉の意味は取れているがその意味を考えてはいない。ふと横に視線を投げると薄らと湯気を立てている紅茶が置かれていることに気がつく。
「俺も衰えたか? 気を抜きすぎたか。ともかくありがとう紫音」
後ろに侍っていた女への言葉を本に向かったまま紡ぎ、引き続き本へ意識を落とす。ただその時間だけが過ぎていく。時折置かれたカップを傾け喉に流し込み、再び視線を落とす。
「……紫音、思うのだが俺のギアス破れるだろ?」
「いえまさか、ご主人様のギアスは私には解呪できません。私は貴方様の血を飲んだのですから」
デレクに内在されている柱、シェトリーの業により彼の血を自らの意思で飲み下したモノは、彼に謀反を働くことは出来ぬ身体となる。
「だがお前も柱の一つだ。ギアスを打ち破れる力がはるはずだ」
口の端をあげながらデレクが小さく笑う。返答に困った紫音は一歩二歩と退き、苦い顔をしたまま部屋を後にする。
「おっと。虐めすぎてしまったか」
口を小さく開けながら笑い、残った紅茶を飲むこともせずに紫音を追って部屋を出る。
「紫音! 出るぞ。ついてこい」
返事を待つこともなく男は脚を外へ向ける。ふと思い出したように付け加えた。
「車は良い。せっかくの招待だ。暇を持て余すのも良いが、行くとするぞ」
小さな足音を立てながら主の後ろに歩み寄る紫音。小さくかしこまりました、と答えどこからか持ってきた長い鞄を両手に抱えながら共に進む。
デレクは振り返ることもなく正面玄関を開け放ち外に出る。すこし立ち止まりに紫音が鍵を閉める音を確認し、空を見上げた。
――荒れるな。
そう思い、薄手の上着なのを思い出したように触るが、次には横に紫音が外套を準備しているのを見ることになる。彼は関心したように手でソレを奪い、声を上げるメイドの言葉を無視して自分で羽織る。
「助かる。では行こう」
「あっ、いえ勿体無いお言葉でございます。はい!」
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「おお君か。よく来てくれた。まだ晩餐会には早いが盟友たる君がわざわざ訪問してくれたのだ。受け入れないわけがない」
盟友、そう思っているのは彼だけかもしれないな。そうデレクは思ってはいたが口にだすことはなかった。男によって彼とその従者が屋敷へ招かれれる。デレクが私兵に阻まれていたのだが騒ぎを怪しんだ屋敷の主人が様子を見に来たところ、友人だということで私兵をなだめたのだった。
「すまないな。招待状をどこかに置いたのを忘れてしまった」
デレクはこれといって詫びる様子も無く苦笑いを浮かべ、外套を紫音に渡す。
「はっはっは。君らしいではないか。学友だった頃から相変わらずだなデレク」
紫音は『学友』という言葉に反応したように顔を少し男へ向けるが、次の瞬間には主人の後ろ姿へ視線を戻した。
「そうかな。まあ君も相変わらずで頼もしいよアシュリー」
アシュリーと呼ばれた男はこれまた口を大きく開け笑い、我が物顔で廊下を歩く。いや、確かにこの廊下は彼のものではあるのだが。
「ああそうだ。客間をひとつ貸してはくれぬか。幾分昼には弱くてな」
おお、やはり以前と変わらぬようだな。とアシュリーは豪快に言い放ち回れ右を急に行うと、後ろには彼のメイドが佇んでいた。
「彼らに一つ部屋を与えてくれ」
メイドはかしこまりました。と淡々と答えるとデレク達へ腰を折り、こちらです。と彼らを導くように前を歩き出す。
「それではまた宴で飲み明かそうぞ!」
「あぁ、それまではまた」
メイドに導かれながら後ろ手に一刻の別れをデレクは告げる。やや歩き階段を六本の脚が鳴らし、そうしてまた再び少し歩くと、メイドが鍵を何時ぞやから手にし、部屋の扉を開ける。
「こちらでございます。お時間になればまたお呼びしますのでそれまでおくつろぎ下さい」
デレクはありがたく使わせていただくよ。と答えながら部屋に入り、紫音は名前も分からぬメイドと視線を交わした後、主人の後を追って入室する。アシュリーのメイドがゆっくりと扉をしめる音が部屋を僅かに震わせた後、静寂が訪れる。
デレクは華美な装飾をあしらった机を前に顔を歪め、ため息をひとつついたあとソファーへ深々と座り、目を閉じる。
「……何か気になったか、紫音」
デレクの後ろに侍る紫音へ言葉を投げかける。彼女はあまりにも突然の質問に驚きながらも、はい。とだけ言葉を紡ぐ。
「言うがいい。この醜悪な部屋や醜悪な香りを吸うよりは、お前の声を聞いていたほうが癒されるというものだ」
さらっと口にした言葉が紫音の耳を鳴らす。先ほど気になった事を忘れかける程衝撃を受けるが己の身体を強く抱きしめ、堪える。
「アシュリー様がご主人様の学友だと言うところに違和感を感じまして」
「様は要らん。アレに敬意を払う必要は皆無だ。そうだな、長く暇だろうからな。まず紅茶を用意してから大学の話をしてやろう」
紫音は部屋の端に備えられた給仕台に歩み寄り、蝋に火をかけ湯を沸かし始める。それを傍目に見ながらデレクはなぜこんな話をしようとしたのかを考えるが、彼の中で答えは出なかった。
「紅茶が入りました」
暫くして紫音が二人分の紅茶を用意すると、デレクは一口喉に通し手でメイドを自分の横に招く。嬉々として、だが顔には必死に出さないように静かに座る。
隣に座った紫音の腰へ手を回し柔らかな女性の身体を抱き寄せながら、男は口を開く。
「さて、どこから話そうか。大学でアレと出会った時あたりがいいか?」
「あ……あの、アシュリーの話は要りません。ご主人様が学生であった頃の話をお願いします」
あきれたように男がメイドの顔を見るが、紫音の顔は既に悦楽に浸っているように呆けていた。デレクはそうだなあと言いながら更に女を抱き寄せながら、ゆっくりと言の葉を紡ぐ。
「大学といっても、俺は優秀な学生では無かったからな、つまらぬかもしれぬがそれも良いだろう」