01.胎動
第一次世界大戦がドイツ等の敗北という形で収束し、ヴェルサイユ体制となった西欧には束の間の平和が訪れていた。世界最悪の戦争が終結したことで、彼らは本当に戦争が醜いものだと悟っていたし、確かにもう二度と繰り返さないと心に決めたはずだ。
だが、そんなことを全く考えない人間もいる。その一人が彼だった。目覚めと共に自室の窓を開け、湿った部屋の空気を入れ替える。英国の”夜”の湿った空気が相も変わらず彼の部屋を循環する。結局湿りっ気は取れないが、そんなことを気にする彼でも無かった。
部屋のドアを叩く音がする、男は「良い」と言い客人を招き入れる。そこに立っていたのは漆黒のメイド服を纏った幼さが抜け切れない女。
ひざ下まであるメイド衣装も黒。伏せがちになっている瞳の色も黒く、伸びた髪も闇よりも深い黒だった。
女性が伏せていた顔をあげて問う。
「おはようございますご主人様。紅茶を淹れましたが飲まれますか?」
男は一言「いただこう」と手を伸ばすと、部屋の外においてあったのだろう給仕台よりティーカップを主人の近くの机へ置き、そうして陶器のポットよりゆっくりと紅茶を淹れる。
夜の英国に相応しい”綻び”に満ちた香りが部屋を包み込む。男は香りを少し楽しむと、一口だけ喉に流し、うむと頷きまたゆっくりと机に戻した。
「して、招待状があると?」
「はい。こちらがそれにございます」
主人が問うと幾分も入れず答え、さっと先ほど郵便受けより持ってきたであろう便箋を渡す。そして差し出し元など見ないまま男はさっと蝋で固められた封を指でなぞる。封は何事も無いように剥がれ、中の縁取られた羊皮紙が現れた。
「――ふん。俺を呼ぶかよアレが。おいシオン。車を出せ。今はあの男へ会いにいくぞ」
「かしこまりましたご主人様」
シオンと呼ばれたメイドは身体を引き、部屋の外へと暫時とせず消えていった。残った男は残った紅茶をゆっくりと飲み干し、封筒をくず入れに投げ入れる。そうして部屋を後にし廊下へと歩みだす。
小さな装飾された廊下というトンネルをホールの方へと進み階段を降りるとそこには既にシオンが外套を腕に抱え佇んでいた。ゆっくりとした動作で階段を降りると、メイドが男の横へ立った。
「シオン。今年の西暦を言ってみろ」
「1928年でございます」
ふん。と鼻で笑う男。メイドが外套を肩に掛けながら答え、彼女の主人がさらに言葉を紡ぐ。
「終戦から20年か。まだ傷が痛むかシオン」
「いえ、そのようなことはありません。ご主人様に救われ私の傷は癒えました」
男は、そうか。と一言吐き捨てた後外套の胸ポケットにあった手袋を嵌める。そうして扉を両手で開けると目の前には車が止まっていた。シオンが前に出てその扉をゆっくりと開けると、男は何も言わずに座る。
「よし。それでは行け」
シオンが運転席に乗り込んだのを確認し、男は手を振り合図する。承知しました、とシオンがアクセルを踏むとロールスロイス社の高級車はその屈強なエンジンを駆動させ、彼らを運んでいった。
「おお。デレクよく来てくれた」
「あぁめんどくさすぎたがな。今宵は暇だったのでな」
深夜五時。時計塔を仰ぎ見るウェストミンスターブリッジで二人の男と一人のメイドが闇に沈んでいた。一人は確かにメイドの主人、今デレクと呼ばれた彼だった。もう一人は深々と帽子をかぶり、ざっくばらんに切られた髪の毛が広がっている中年の男。
「少し仕事が立て込んでな。おまえも既に分かってるだろうがまた『産まれた』からな」
中年の男は安物のタバコにマッチをすり、火をつけながら言葉を続ける。
「それでだ。これまためんどいんだが……」
「言うなめんどくさい。分かっているし理解もしている。あれは面白いな。なんだ男を侵すのか。ふふんシオンどう思う」
「どうと言われましても」
メイドは伏目がちなまま佇み、鞄を手に持ったまま答える。
「おまえのところのメイドは可愛い――いや、なんでもない。やめろ。シオンさんすまんって」
静かにメイドが男の背後へと忍び寄って何かを突き出してた。
「おいおいシオン止めておけ。こんな男を殺してもお前が汚れるだけだ。俺の手を煩わせたいか?」
デレクの言葉を聞くか聞かないかの時で既にシオンはデレクの後ろへと移動していた。
「帰ったら俺の部屋に来いシオン。それでだアイヴァン。それで”それ”はこちらで処理して構わないのか?」
はい。と短く返すシオンを傍目に、アイヴァンと呼んだ男が加えているタバコをデレクが白い軌跡を描きながら川へ落ちるように叩く。おおうっとアイヴァンが驚きバツが悪そうに一歩の退くと、あーっと口を尖らせ。
「あぁ。被害がなくなるのなら別にそのあとは任せる。死体が出たらこちらに連絡してくれればそういった処理はこちらでやろう。報酬はいつもどおり結果報酬で?」
構わない、それではまた何かあったら連絡するよ。とデレクは踵を返すとシオンは深く身体を傾けた後、同様に身体を反転させ主人の後についた。
「なぁシオン。正直どう思うのだ? おまえは誰かを殺したいと思うか?」
車の扉をシオンに開けさせ、自身は後部座席に腰を下ろしメイドが運転席に座ったのを見計らない、その主人が問う。
「正直に申してもよろしいのでしょうか」
「良いと言ったぞ」
「はい。とてもとてもとてもとても殺したい人間が居ます。ご主人様以外のすべての人を」
車のアクセルを踏み、まだ深夜の有象無象が闊歩する夜を進む車内でシオンの黒い瞳が世界を貫くように輝く。街灯も全く無く、整備されつくした道ではないが車は直進しカーブでは美しい曲線を描いている。
「傷は癒えていないのだな――止めろ」
シオンは普段止めるようにブレーキを入れる。止まれと言ったときは最大努力をするよう務めている。ややあって車が止まるとデレクは自らドアを開け放つ。
「ご主人様」「いや、良い。そこで座っていろ生きていろ」
彼はシオンを静止させると、アパートメントとアパートメントの狭間の路地に目をやる。数分だろうか数秒だろうか、長い時間が流れたようにシオンには感じられた。何より主が外に出ているのに自らが”動けない状況”故にだ。
「……つまらないな。貴様の狂気はその程度か? 顔を見せたまえ。孤独の柱よ」
瞬間、シオンが揺れた。叫べない。許されていないのだから為せるはずはないが、彼女はそれでも外に出ようともがいた。主を一人、かのソロモン王大いなる鍵、その柱の名を取る化物に対峙させる訳にはいかないと。
主の盾となり剣となり露払いをするのが自身の役目だと、そしてそれを為せるだけの力があるという自負が彼女を突き動かしていた。
そうしてデレクは足を大地で鳴らす、と同時に大きな閃光が彼へと突貫してくるが、突如として発現した淡い光によって紡がれた装飾楯によって停止する。弾丸と楯とが激突し、大気がわずかに悲鳴を上げる。
「はははは。シオン、俺のギアスを破れぬようではまだ俺の前で剣になろうとは思わないことだ。して孤独の柱よ。いつまでそこで我の世界を侵そうとしているのだ」
もう一度デレクが足を鳴らす。刹那も経たずに弾丸が大地へと落下する。弾丸の正体はまさしく小さな女。先日、新たに産まれた狂気だと断定して間違いないだろう。
「ぐぎあ、侵すッ殺す!」
大地に見えない何かによって叩きつけられている少女が、両手両足を地面に突きたて立ち上がろうとする。デレクは少しだけ持ち上げられた少女の顔をチラとみると膝を折り、手を伸ばす。そして少女の首を掴み軽々と持ち上げてしまう。
手足を暴れさせるがデレクへは何故か届かない。そうして力を込め――。
「――さて、これを持って帰ろうか」
意識を強制的に飛ばし、デレクが後部座席へと少女を投げ入れ、本人はシオンの隣のドアを開け中に座る。
「ご主人様!」
「落ち着けシオン、いいから車を出せ」
言葉をこらえ、苦い顔を必死に隠しシオンは車をすすめる。デレクはぼうっと外のやや夜が霞がかっているのを見ながら、目を閉じた。