12.堕愛
眼の前で少女がプロフェッサーの肉を食いちぎっている。素晴らしい。甘美な世界が眼前に広がっていたのだ、興奮を覚えることは然り、それをもっと見ていたいとも感じる。だがここに居続けてはいずれ自分もアレに食われるだろう、その程度俺にも理解出来る。
どう行動すれば良いか、目の前の女は恐らく今の食事を終えたら即座に次を喰らうか、満腹になるか。試算は出来ない。この人間らしからぬ人間に俺の常識は通じない。そも人間をあれ程喰らうことが無謀なのだ。血を啜り肉を飲み下しているにも関わらず、もう半分以上食い終えている。
「グッ……んふあっ……」
水たまりに縄を何度も打ち立てるような、骨同士をこすりあわせたような音が、女が吐息を漏らすごとに小さく波紋を広げる。その音一つ一つでさえ今の俺には天より降りる鐘の音に感じる。
――どうする。こいつの正体を見極めるべきでは。
思考する。そして意思を決定し、行動を起こす。
意識の海へ自らを落とし、精一杯の断界構成を紡ぐ。声を絶対に出さぬ様、呪文を発生させることなく魔術を展開させる為、緻密な思考を延々と繰り返し世界を侵食する。
つまりは確かめることにしたのだ。彼女の食事が終わるまでに可能な限りの防壁となる魔術を展開し、その正体を。
「んう……ング」
あいも変わらず女は食事を進める。進める。如何な狂気といえど『食事』の限界を超えることは出来ない様で、食事の速度は人間にも可能な速度ではあった。腹が膨れないことを除けばだが。
暫くして彼女が最後の指を食べ終わる。口の周りを腕で拭いゆっくりと立ち上がり目が合う。
「――連鎖展開『断界』『三七束』!」
「ガッア」
女が突貫してくる、が何とか魔術展開が間に合い防壁に激突して空気が悲鳴を上げる。
「ぐっ、三七枚だぞ!」
それだけの枚数の魔術的な歪を用意してもまだ、突き抜ける衝撃に一歩退く。幾枚かは既に打ち破られ俺の神経へ負荷をかけている。思考にまで侵食される前に問わなくてはならない。
「貴様は! 一体何者だ!」
魔術が強引に解かれる反動で節々が若干の歪を生み出し、身体が小さく悲鳴を上げるのを感じるが、構わずに叫ぶ。
「グィア!」
女が悲鳴とも咆哮とも取れる声を上げる。十枚目の魔術が打ち破られ神経を更に侵食していく。だが、ここで思考を止めることは死を意味する。まだだ、まだ倒れる訳にはいかない。
「糞が、墜ちろ! シャックス!」
僅かな希望を込めて業の名を叫ぶ。瞬間、女の腕が魔術より離れる。
「誰」
直立した女が両手を下げ、問う。
「シャックス。お前が背負った業の名ではないのか?」
女は指を咥えこくりと顔を傾ける。女性の顔の美しさや黒黒とした髪――今は黒い血で汚れていたが――が流れる様は可愛げのあるものだ。それが俺を殺せる人間でなければ、だが。
「シャックス……シャックス? 私?」
こくりこくり。右へ左へ顔を傾け幼い仕草を続ける。
「そうだ。お前がシャックスだろう!」
これで違えば、俺は殺されるだろうか。たとえその通りだとしても殺されるのではないだろうか。
「ソロモン王が大いなる鍵七二柱に名を連ねる悪魔! その業をその身に宿し欲望を体現する者! その存在を答えよ!」
最後の言葉。これ以上何かを言うことなど出来ようがない。既に断界を維持出来る程のリソースは無い。この程度。所詮本当にこの程度なんだと理解した。たかだか二十枚の断界を食いちぎられた程度で、もはや一つの蝋燭を灯すことも出来ぬほどに回路が麻痺してしまったこと。魔術師としては致命的な欠点だと。
そこでふと疑問に気がつく。シャックス。かの悪魔は『魔方陣の中で真実を語る』のではなかったか、と。気がついたはいいものの既に何かを成す為に、回路に流す魔力は残っていない。いや、死ぬ気で搾り出せば流体操作くらいは……どうせ死ぬのだろうし、ここは。
「動け……走れぇえ!」
思考内に回路を再び生成し、命から僅かばかり流れでた魔力を走らせる。構成式に則り具象化する魔術は周囲へ散っていた液体を、女の身体へと飛翔させ、幾何的な図面をその肌に描く。
「再び問おう! 汝はソロモン王が大いなる鍵に名を連ねる者か!」
裸体へ血を塗りたくられた――そういえば彼女の身体の返り血は既に消えていた――女は、一瞬だけ目を大きく開くと、こくりと頭を垂れた。が、ややあって顔を上げ口を開く。
「貴方の言う通り。私はシャックス。この身体に宿りし魂の業」
息を呑む。真にソレだとは信じていなかった。信じていなかったのだが、僥倖。そして絶望。本当に柱であるならば俺の死はここで確定したものだ。
「さあ、君の願いを聞こう」
しかし、女から放たれた言葉は予想とは裏腹に、真にソレが柱であることを明確に示していた。意味が分からないが、意味は解っていた。
「君の願いを聞く。と言ったのだ。早くしたまえ」
なるほど。シャックス、か。『魔方陣に在ればそれは主人へ最大の敬意と真実を持って語る』者か。そしてこれは願いを聞くと言っている。この女が真に柱であるからこそ、真に俺は生き延びた。
「大いなる柱シャックスよ。少々待ってもらえはないだろうか。願いは有るがここで告げるのは私が望まない」
先延ばしだ。先延ばしさえ出来れば良い。考え続けることを止めてはならない。俺の家がカウサリサで俺の親が現に三柱を内在しているのだがら、これが最良の手段足るはずだ。
「……良いだろう」
「ならば明後日、太陽が天高く上がったその時に。場所はそうだな――」