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ペットボトルの涙

作者: 桶乃弥

 それはさっき自動販売機で買った炭酸飲料だった。いつものように手に取ったペットボトルのはずだった。なんでなんだろう。この胸騒ぎの正体は……。


 大好きな彼と初めてのお泊り旅行前夜。仕度は万全だ。明日、あの駅で待っている彼に、見せてつけてやるはずのとっておきの服は、すでにクローゼットのノブに掛けられ熟睡を始めていた。着飾りだけは私の心よりも用意周到らしい。


 別に観る気も無いのに付いているテレビは、何時しか雑踏に姿を変えている。私はただただこの特別な夜、踊る心を持て余し無駄に時間を費やしていくはずだった。


 十年前に仕舞い込んだ私の嘘。その当時と同じ赤いラベル。大粒の水滴を全身に浮かべ、ペットボトルがあの夏を語りかけてくるまでは……。


 子供の頃からバカな事ばっかりやっていたアイツは、私にとって近くて遠い存在だった。小六の頃、「好きな子が出来た」と自慢げに相談なんかしてきた。この私に……。


 忘れるわけが無かった。中学、高校、大学と全然違う道を歩んでも、私の机の引き出しには、アイツの書いた汽車の絵が佇んでいた。


 それは、どうしようもなく下手くそで、構図も色彩感覚もあったもんじゃない絵。たとえ小学生の描いた絵だとしても。


 大学生になった時、独り暮らしを始めた私は、幼少期を過ごしたこの街を選んだ。そして、私は明日、この街から身も心も旅立つはずだった。


 新しい生活への門出になるはずのあの駅で、暑い日差しから逃げるようにホームへと駆け込んできたアイツは、電車から降りてきた私をちゃんと覚えていた。


「あれっ! 久しぶりじゃん」


 私も大げさに驚いた。まともに話したのは十年ぶりだろうか。アイツは知らない。私がまた会える事を期待して、この街に戻ってきたことを。


 嬉しかった。そう、アイツに出会えたことでも、話せたことでもない。嬉しかったのは、自然体を繕う私を覚えていてくれたからだった。


「彼氏出来たのか?」


「出来たよ」


「マジかよ……」


 嘘だ。つい嘘をついてしまった。小六のあの時、嫉妬心からついつい口走った恋愛ゲーム。どっちが先に意中の人を射止めるか。ただし、私の負けはすでにゲームの前から確定していたのだ。


「同じ大学だった先輩」


「あ、そう。へぇ……」


 負けるのが悔しいからじゃない。意地を張ったつもりでもない。かといって、少しは女としてみて欲しかったわけでもない。私のゲームはすでに終わっているんだ。もう十年も前に。


「何だよ……。じゃあ、俺の負けかぁ」


 嬉しかった。アイツが負けたことじゃない。私が自然体を貫けたことじゃない。あんな些細な恋愛ゲームを、アイツはちゃんと覚えていてくれた。


「負けってことは、結局付き合えなかったんだ?」


 同じ中学に行ったはずの彼女とは、結局結ばれなかったらしい。それもそうだ。そんなに上手行くわけない。彼女はクラスのマドンナだった。アイツはただの平凡な男の子。背が高い割に運動神経は鈍いし、勉強だって秀でたわけでもない。むしろ先生に怒られっぱなしだった。


 ……だけど、絵を描いているアイツの横顔は楽しそうだった。あの夏休みの日のアイツは輝いていた。少なくともその横顔だけは私しか知らない。傍らで汗をかく、赤いラベルのペットボトルと共に。


「これ、携帯の番号」


 アイツは時間を惜しむかのように、少し残念そうな声で電車に乗り込んだ。いや、きっとそういう風に見えただけだ。私は精いっぱいの笑みを浮かべ手を振っていた。


 家に帰ってからというもの、その番号の書かれたメモをずっと見つめる私。何て軽いんだろう……。いやいや、別にただの友達なんだから……。そんな葛藤の中、その日の夜アイツに電話をかけた。


 それにしても、アイツの話は当時と同じでやっぱりつまらない。話にオチなんてない。殆ど右から左に流れていく。それなのに、話しているアイツの表情は手に取るように分かる。


「会いたい」


 流石に唐突過ぎて戸惑う私。


「何時?」


「何時でも……。今度の日曜とか」


「ん、でも今週末から旅行なんだ」


「……彼と?」


「……そう」


 驚いた。大好きな彼なのに、その存在を一瞬躊躇した自分に対して。そして心の中で激しく自分を責めた。


 彼は、私を優しく包み込んでくれた。知的で冷静で、私の傲慢も受け止めてくれる大人の男性だった。家族以外に唯一、私が甘えられる初めての場所だった。バカなアイツなんかとは比較にならないほど、頼もしい背中の広い人だった。


「もう、遅いよ」


 アイツが恋愛ゲームの嘘を自白したその後。私は予め決められた台詞のように、その言葉を口にしていた。それに嘘偽りは無かった。少なくともその時は。



 嘘をついていたのは私だ。アイツは一言も『彼女が好きだ』なんて言ってなかった。私が勝手にそう想い込んでいただけだ。だから、私の負けなんだ。


 机の引き出しに忍ばせていたアイツの絵は、一度破られた形跡を残し、すでに茶色く変色したテープによって修復されていた。あの日破ったのは、私の初恋と繕った嘘。


 雑踏の中、私は封印を解くようにペットボトルのキャップを開ける。仕舞っていたはずの汽車の絵は、目の前のテーブルに居場所を移していた。


 この絵はアイツが失くした宝物。私が隠した宝物。あの日、キョロキョロと辺りを探すアイツの姿が可笑しくて、可笑しくて……。私は思わず微笑んだ。あの頃の私と今の私を重ね合わせ、同じように微笑んだ。


「あれ……」


 なんでだろう。涙が止まらない。


「あれ? なんで……」


 拭っても、拭っても零れ落ちる。テレビからの雑踏すらもう耳に入らない。膝を抱えてうずくまる。特別な夜のはずなのに。なんでだろう、涙が止まらない。


 ひとしきり涙が零れ落ちた後、ふと見ればすでにペットボトルは空っぽになっていた。真っ赤になった目を鏡に映したその瞬間、私にとってそれは特別な夜になった。


 私は明日、あの駅に行く。宝物を忍ばせて会いに行く。この夜、ペットボトルの涙で剥がされた、自然体を繕う嘘を清算する為に。


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