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単発系まとめ

夏の日の幻影

作者: 長岡壱月

 暦の上ではもう九月の半ばだというのに、外は纏わりつくような熱気で満ちている。

 亮輔はスーツの胸元を更に緩めてパタパタと風を送りながら、眩しげなしかめっ面でつい

とコンクリートジャングルに狭められた空を見上げた。

 確かに空は晴天だった。だがその色彩は何処かくすんだもののように思う。そしてそれは

何も気のせいなだけではない筈だ。

 街のそこかしこから吐き出される様々な排気、暑さに耐えかねてあちこちの部屋から追い

出される排熱。それらが混沌よろしく混ざり合ってこの街の空気を淀ませ、回り回って自分

達自身を余計に苦しめているのだから。

(…………暑ぢぃ)

 それでも、人々は暑さにうだりながらも群れを成して街を歩いている。

 そんな群れを遮断するように道路を駆け抜けていく無数の車。人々はその中に取り残され

るかのように、横断歩道で結ばれたアスファルトのスペースに散在する形になっている。

 そして亮輔もまた、そんな群れの中の一人に過ぎなかった。

 暑さで歪む地面を遠くに見遣りながら、ぼうっと残りの待ち時間をカウントする信号機の

デジタル表示を目に映す。

 機械システムを作ったのは人なのに、人はそれに動かされているようだ──。

(おいおい……。熱に中てられたか)

 ぼうっとしたまま亮輔は頭に過ぎる曖昧な思考を振り解こうとした。

 そうしていると、間の抜けたメロディが響いてくる。信号が青に変わったのだ。

 途端、緩慢から足早に人々の群れがどっと動き始める。

 見えない何者かに押されるかのように蠢く人の波に、亮輔も渋々といった感じで歩を進め

て重苦しく感じる身体を運び出す。

 視線の先には、駅舎が口を開けてそびえる見えている。

 亮輔はこれから幾本か電車に乗り換えて「彼女」の様子を見に行くつもりだった。

(……時間は、まだ大丈夫だな)

 二本目の横断歩道を渡りながら腕時計で時間を確かめる。頭の中で時刻表の頁を開く。

 これなら余裕をもって移動できそうだった。しかしもう一、二時間も経てばこの辺りの人

通りは更に混雑する事だろう。

 やはり早めに仕事を切り上げて正解だった。

 そんな事を思い、少し気持ちが浮つきながら正面のフロアを通り抜けようとする。

 ちょうど、そんな時だった。

(────ん?)

 何故かは分からない。

 だが進行方向の先で、亮輔はふと一人の人影に目を留めていた。

 等間隔に立った構内の円柱一つ。

 そこに一人の少年が背を預けてぼんやりと立っていたのである。

 年格好は中学生、或いは入りたての高校生といった感じだろうか。まだ遠目ではっきりし

ないが、あまり大柄ではないようだ。世代の違いなのか、自分から見れば少し妙なセンスの

服装に身を包んでおり、ぼんやりと中空を見遣っている。

「……」

 その間も亮輔は歩を進めていた筈だが、もしかしたらその時既にもう足は止まりかけてい

たのかもしれない。

 周りを通り過ぎていく人々の足音、ざわつき、気配。

 それらを感じさせる音がそっと遠のいていくような感じがした。それと同時に、彼らの存

在は薄れ、その対比のように自分と視線の先の少年の二人の存在は逆に濃くなるかのような

錯覚に陥る。

「…………」

 いつの間にか、少年が自分の方を見ているのに気が付いた。

 するとぼうっとしていたその表情が、少しだけ引き締まったような気がする。

 始めはそのまま通り過ぎてしまおう、早く彼女に会いに行こう。そう思っていたのに。

「……君、一人かい?」

 なのに亮輔は気付けば結局、少年の近くまで近寄るとそう声を掛けていたのだった。

「……うん」

 遠のいていた周りの気配がざわっと戻ってくるような再びの感覚。

 その雑音の中で、少年はコクリと頷いた。

 初対面……という事もあるのだろうが、彼には何処かおどおどと緊張した様子があった。

 妙だな、とは思った。

 休日ならばまだしも、今日は普通の平日だ。そんな日の夕暮れ前の駅構内で独り、この少

年は何をしていたのだろう。

 一体何を、待っていたのか──。

「見た所一人だけど……待ち合わせかい?」

「ううん。会いに、来たんだ……」

「会いに……? 誰に?」

「……お父さん」

 少年の言葉はどれも断片的なように思えた。

 いきなり見知らぬ大人に声を掛けられて警戒しているのか、或いは元々あまり快活な性格

ではないのか。

「そっか。単身赴任でもしているのかな」

「……」

 しかし少年は黙っていた。

 答える必要がないと踏んだのか、それとも返答に窮しているのか。

(……う~ん、どうしたもんか……)

 軽率に話し掛けてしまった自分も自分だが、この子を何となく放っておけなかった。

 見た感じ、この辺りの都会っ子ではないような気がした。

 明確な根拠はないのだが、何となく印象が“見知らぬ場所に来た子供”だったのだ。

 もしこのまま放っておいて、悪い大人に何かされたと知ったら後味が悪い……。

(……仕方ないな)

 だからこそ亮輔は、

「君、そのお父さんは何処にいるのか分かる?」

 少年にそう訊ねたのだが。

「……。来見記念病院」

 彼の口からその場所の名前が出た時は、正直言って驚いた。

「記念病院……? なんだ、俺と同じじゃないか」

 そう、そこは彼女が待っている場所でもあったから。

 思わず亮輔はフッと顔を綻ばせていた。

 少年が、小さな怪訝のような微妙な表情の変化と共に自分を見上げてくる。

「ちょうどいいや。だったら俺についてくるか? 俺もな、ちょうどそこに用があって向か

おうとしてた所なんだよ」

 何という偶然。だがそれなら都合がいい。

 この迷子(?)の少年を送り届けてあげる事と、自分の目的地とが両立できる。

 だったら善は急げだ。

 亮輔は少し屈むと、少年の視線に合わせそう提案してみる。

「……」

 数秒、少年はじっと亮輔の顔を見つめていたが。

「……うん」

 コクリと、ややあって同意の頷きを返してきた。


 そして──電車の中。

「……」

 ソファ型の座席に座る亮輔の隣に、少年はちょこんと座っていた。

 外から注いでくる淡い茜色が車内を静かに染め始めている。

(やれやれ……)

 それにしても、と亮輔は思う。

 自分から誘っておいて何だが、この子は少々危なっかしい。

 目的地が同じだという言葉を真に受け、こうやってホイホイとついてきているが、見知ら

ぬ相手にそんな油断を見せて大丈夫なのかと内心嘆息をつかざるをえない。

 だからこそ自分が最初に気付いてあげられてよかったと思う反面、妙な罪悪感がこうして

いる今もチリチリと胸を刺してくるような心地がする。

「……」

 これで何度目か。亮輔はちらと少年を見遣っていた。

 だが彼はぼうっと外の景色に目を遣ったままじっとしたまま。電車に乗る前、乗ってから

もこの調子だった。どうにも口数が少ない。

 見知らぬ大人と一緒で緊張しているのは仕方ないのかもしれないが、そんなに怖がるなら

断わってくれても良かったのに。

(ま、それもできないくらい大人しい子、って事なのかもしれんが……)

 それに先ほどから時折観察してみるに、何もこの子も完全に怖がっているようではないら

しい事も分かってきたのだ。

「……?」

 時々、彼の方からこちらの様子をじっと窺ってくるのである。

 相変わらず言葉は少なげだったが、その眼差しに怯えはあまり感じられない(と思う)。

 なので亮輔は向けられてくるその視線に、小さく微笑んで応えてあげていた。

「──ッ!」

 だがそうすると、今度は気付かれてしまったと言わんばかりにサッと視線を逸らされ、再

びだんまりを決め込まれてしまう。

 それが、この電車に乗ってから何度と無く繰り返されていた。

(一体、何なんだろうな……)

 まぁ初対面なのだから、相手は子供なんだからと自分に言い聞かせてはいるがそれでも気

にはなってしまう。

 一つ、何故こんな中途半端な時間、場所で父親に会いに来たのか。

 二つ、そのくせ所持金はゼロという無計画ぶり(なので、結局彼の運賃も自分が払う事に

なったのだが)。

 そして三つ目は何よりも……。

「なぁ、君、名前は?」

「……」

 何故か、頑なに教えてくれない少年自身の名前。

「……。まぁ、答えたくないならいいけどさ」

 何度目かの同じ質問をしてみたが、少年はやはりだんまりを貫いていた。

 亮輔は僅かに苦笑を漏らしつつもちらと横目で彼の様子を窺ってみる。

 ちょこんと揃えられた脚の上に乗せられた両手。その拳が心持ちぎゅっと握り締められて

いるようにも見える。そしてその表情も、恐れというよりは……何か困惑に似たものではな

いだろうかと亮輔には思えた。

「う~ん……。別に警察に突き出すとかはしねぇぞ? 何か、悪い事でもしたのか?」

「……してない」

 ぽつり。返ってくる少年の言葉はやはり短く断片的だ。

 そしてここまで来て、亮輔はこれは緊張ではなくこの少年自身の性分によるものなのだろ

うと結論付けようとしていた。

(或いは、そうしないといけない理由でもあるか、だが……)

 ではその事情とは何か。しかしそんな事など亮輔が分かる筈もない。少年本人に訊けば済

む事なのだろうが、直接訊いても答えてくれないことはこの十数分間で嫌というほど経験し

ている。

(あんまり、他人に干渉するのは良くないのかね、やっぱり……)

 こうして一時行動を共にしている時点で干渉していないなどとは言えないのだが、それで

も踏み込んでいけない事の一つや二つ、誰にしもあるものだ。

 しかしそれと場の重苦しさを許容できるか否かはまた別の話ではないかと、亮輔は思う。

 何度かチラチラと少年を見遣ってみる。

 やはり、彼も何度かこちらを窺っているようだ。そしてやはりすぐに視線を逸らす……。

(……そうだ)

 だが亮輔はふとある事に思い至った。

 放っておけばいいのに。

 そんな声なき声が周囲の乗客から投げ掛けられているような気もした。だが、亮輔はこの

まま黙って過ごしてしまうのが何故か我慢ならなかった。

 ──今話さないと、きっと後悔する。

 そんな気がして。

「なぁ、君、名前は?」

 もう何度目とも知らない同じ質問。

「……」

 だがやはり、少年は黙り込んだまま困ったような表情を浮かべている。

 しかしそこまでは亮輔が思った通りだった。

「……言えない、か。でもさ、このまま名無し君呼ばわりも不便だろ」

 だからこそ、亮輔は言った。

「とりあえず亮太……でどうだ?」

 少しにんまりとした、兄貴風を吹かせた笑みの下で。

「……え?」

 初めて漏れた、少年の混じり気無しの感情。

 ついと顔を上げて目を瞬かせる彼にもう一度笑い掛け、亮輔は続ける。

「仮の名前。なんつーか、俺も君を君呼ばわりばかりしてるのも手間でさ。苦手なんだよ、

こう堅苦しいのは」

 それはある意味事実ではあった。会社でも、特に目上の上司などでない限りはフランクに

話す方が性に合っている。学生時代のやんちゃな頃の自分が今も響いているのだろう。

「実はな、その亮太ってのは……俺の子供の名前なんだ。あ、いや、まだいる訳じゃないん

だがな。予定ってだけで」

 ちらと車窓から見えるビルの奥を見遣る。

 無数のビルに隠れて見えないが、そこには自分が、そしてこの少年が目指している場所、

記念病院が建っている。

「……俺が今日病院に行くのはさ、入院してるカミさんの様子を見に行く為なんだ。あ、病

気ってわけじゃないんだ。妊娠中なんだよ。近々、生まれる予定なんだ」

「…………」

 最初は少年との話題の種にしようと思っていた。

 なのに亮輔は話している内にだんだん気恥ずかしくなっていく。それはいきなり見も知ら

ない相手、それも子供にする話なのかという自問が顔を出してきた事、そして。

「……そうなんだ」

 その話を聞く少年の表情が、ふっと緩んだのを見てしまったから。

 数拍、時間が停まる。ガタゴトと列車の揺れる音が遠くから耳に入ってくるかのように。

「……ま、まぁそういう訳で亮太ってのはその生まれてくる子の名前なんだ。因みに女の子

なら智子ってつけるつもりだった。俺とカミさん、両方の名前から一文字ずつ取ってな」

 亮輔は区切りをつけるように、わざとらしくコホンと咳払い。

「ま、まぁ、こっちの勝手な呼び方だけどな……。お節介なら──」

「ううん。いい」

 照れも先行し、慌てて話を閉じようとしたのだが、少年はむしろ距離を詰めてきたように

感じた。言い終えるよりも早く、ポツリと彼の承諾が聞こえる。

 亮輔は内心驚いた。

 間を持たせる為に、名無しの迷子君だけで終わらせたくない……そんなこちらの勝手な気

持ちで語りかけた言葉に思いがけず答えてくれて。

「……その名前で、いいよ」

 相変わらず内気そうな感じのままだったが、少年は確かにそうはにかんで言う。

「あ、あぁ……。分かったよ」

 数秒。亮輔は呆気に取られていたが、次の瞬間には思わず自分もくすりと笑って。 

「……亮太」

 確認するように、少年をその名で呼ぶ。


 ──だけど、この時に俺は気付くべきだったんだ。

 この少年の奇妙な言動に、その存在する意味に。


「……え? 路線を変えろって?」

 電車を降り、乗り換えのホームへと向かおうとしていた亮輔を止めたのは、他ならぬリョ

ウタだった。

 亮輔は改札に入る寸前で、ぐいと彼に腕の袖を引っ張られた形で立ち止まっていた。

「うん。そこに行っちゃ、駄目……」

 その左右を、行き交う後続の人々が迷惑そうに掻き分けて先に改札を抜けていく。

 亮輔はばつが悪そうに苦笑して彼らに小さく頭を下げながら、袖を掴んだリョウタを伴っ

てとりあえず構内の端へと移動する。

「駄目って……。病院にはあそこの快速に乗るのが一番早いんだぞ?」

「ううん……。あっちがいい」

「え? いや、だからな。話聞いてたか? それにそっちの路線じゃ遠回り──」

「お願いだから」

 その時のリョウタの声は、思いもかけないほど強い意志が篭っているように感じられた。

「…………お願い、だから」

 予定していた路線のある方へ視線を向けようとしていた亮輔をぐいっと引き留める、ある

種の懇願のような眼差し。

 その頑なまでの声色と真剣な表情かおに、思わず亮輔は押し黙る。

「……分かったよ」

 ポリポリと。亮輔は暫くリョウタを見下ろし、そして観念するように言った。

「お前の言う通りにしてやるよ。別の路を行けばいいんだろ、行けば」

「……! うんっ」

 するとリョウタの表情が一気に綻んだ。

 喜び──否、違う。これは……安堵?

(……。何なんだよ一体……)

 その様子に、亮輔は流石に怪訝に思いつつも、結局渋々方向を変えて歩き出していた。

 構内を交差していく人々の群れ。その中を縫って、リョウタはしっかりとついて来る。

 そんな姿を、小走りで傍らに追いついてくる姿を確認すると、亮輔は密かにため息交じり

の声を漏らしていた。

「……電車賃、余分に払わねぇといけねぇじゃんか……」


 そうして遠回りな路を通った事で、案の定、到着するのに予定以上の時間が経っていた。

「……はぁ、やっと着いた」

 最初は僅かに混じるだけだった夕陽の茜色も、今はすっかり濃くなり日没までのカウント

ダウンを告げている。

 ようやく記念病院のロビーに入った亮輔は小さく息をつきながら、脱いでいたスーツの上

着をひょいと肩に掛け直すと、早速妻のいる病室へと向かおうとする。

「さて……。リョウタ、着いたけどお前の親父さんは……あれ?」

 だが、歩きながら呼び掛けた筈の相手──リョウタの姿がいつの間にか無かった。

 振り返り、辺りを見渡す。

 しかし夕暮れ時というのに院内は中々の混みっぷりを発揮しており、小さな少年一人を見

つけるのは容易な事ではなかった。

 もしかして、もう父親の所に向かってしまったのだろうか?

(……だとしても一言ぐらい俺に礼を言ってからにしろよなー……)

 ツカツカとタイル質の床の上を歩きながら、亮輔は辺りを見渡しつつ思う。

 奇妙な感覚だ。

 ほんの小一時間くらいしか一緒にいなかった相手の、歳も離れた子供の事を、これほど心

配している自分がいるなんて。

(それも、やっぱ近々俺が父親になるからなのかな……)

 母性ならぬ、父性本能とでもいうのだろうか。

 でもまだやんちゃな頃の血が残っている自分が父親なんて……とも思い、苦笑する。

「お、いたいた……」

 そうして探す事二、三分。リョウタはそこにいた。

 待合所の一角、天井からテレビが下がっている椅子とテーブルが複数並んだスペースの人

だかりの中にぽつねんと、リョウタがじっとテレビ画面を見ていたのである。

「ったく、急にいなくなるなって。一応送り届けてきた訳だから、俺も最後まで責任がある

だろ……?」

 だがリョウタは背を向けたまま応えなかった。

 じっと、先程から同じ方向を──テレビ画面を見つめている。

「……リョウタ?」

 小さく呼びかけ、眉根を上げる。

 そして亮輔もそっと彼の傍に近づくと、彼の見つめている画面を見上げた。

『──事故現場上空から中継です。現在、来見東駅を中心に三両の電車が捻れるように横転

しているのが見えるでしょうか? この事故は午後四時四十七分頃、同駅手前七百メートル

にて突然制御を失った──』

「…………」

 そこには、予想もしなかった惨状が映し出されていた。

 上空からのヘリ中継の映像。そこには複数の車両がぶつかり、まるでほつれた糸のように

絡まって線路上に倒れている様子が映し出されている。燃料系統に損傷が起きているのか、

所々から火の手も上がり、関係者による消火作業も行われているようだ。

 列車同士の衝突。

 レポーターから聞こえてきた言葉に、亮輔は背筋が凍る思いがした。

 それはこの街のど真ん中でこんな酷い事故が起きた事だけではない。

「……ちょっと待て、あれって、俺が乗ろうとしてた路線じゃねぇか……」

 本来、一番早くこの病院に繋がっていた路線。

 その路線がまさに、今中継映像の如き惨状の中にあったからである。

「……」

 亮輔は暫くそれから次の言葉が出なかった。

 もしあの時予定通り、あの路線に乗っていたら自分も無事では済まなかっただろう。

 或いは、もう既にこの世には──。

「……。亮太」

 そうだ。亮輔はそこでやっと気付く。

 あの路線は駄目だと言ったのは、リョウタだった。

 何故だ? これじゃあまるであいつが──。

「……。いない……」

 しかし視線を傍らに立っていた筈のリョウタに向けた時には、既にその姿は無かった。

 慌てて亮輔は辺りを見渡す。

(もしかして……)

 信じられないが、もしそうだと仮定すれば……全ての説明がつく。

 何故、自分の前に現れたのか。

 何故、自分と同じ場所へ行こうとしていたのか。

 何故、自分が乗るであろう路線を駄目だと言い切れたのか。

 何故、自分の名前を……名乗らなかったのか。

(もしかして、あいつは……)

 いや、名乗らなかったのではない。名乗れなかったのだとしたら……?

「──ッ! 亮太!」

 思考がかき混ぜられる。

 その中で、リョウタは自分を見つめて立っていた。

 自分から離れた、廊下の奥まった所に立って、自分をじっと見つめて立っていた。

「……」

 リョウタは、とても穏やかな表情をしていた。

 そこには最初に会った時の初対面の相手への緊張の様子は微塵もない。

 いや、厳密には初対面ではなかったのだ。少なくとも……リョウタにとっては。

「お前……」

 身体ごと振り向いて、亮輔は愕然と呟く。

 だが廊下の奥で、差し込んでくる夕陽を浴びながら、リョウタは微笑んでいた。

「……よかった」

 ぼそりと。だけど、亮輔にははっきりそれと聞こえる声で。

「これで、もう大丈夫」

「……」

「これで、もう離れ離れになる事はないと思うよ……。お母さんの事、よろしくね……」

 その言葉で、亮輔は確信した。

 信じられなかったが、やはりそうなのか? お前は、俺の──。

「待ってくれ! 亮太っ! お前は……!」

 亮輔はもう夢中で駆け出していた。

 分かってしまったからこそ、もう届かない所にあいつはいる。だけど、このままさよなら

なんて……無いだろ。

「──ッ!」

 しかし、その目の前を大きなカートを押した清掃員が横切ってきた。

 進路を塞がれる。亮輔はおそらく人生で一番慌てた形相で、そのカートの脇を走り抜けよ

うと、地面を蹴って駆け出そうとする。

「……大丈夫だよ。また、きっと会える筈だから」

 カートの陰に遮られたままリョウタの声だけが耳に入ってくる。

 亮輔はカートの脇を抜けようとしていた。

 もう少しで……もう少しで、届く……。

「────ありがとう。お父さん」

 その言葉が最後だった。

 カートが通り過ぎていく、亮輔がその脇を駆け出す。

 だが次の瞬間には、そこにリョウタの姿は無かった。

 少年の姿は無かった。ただそこには病院の奥へと続く、夕陽の光が注がれた廊下が静かに

延びているだけ。

「亮太……」

 呆然として、亮輔はやがて力なくその場に膝をついていた。

 背後からは未だに断続的な惨劇のニュースが流れている。

 だがその情報は今の亮輔には遠い感覚の出来事のようにしか思えない。

 同じ真実。だが、列車事故よりも重く大事なものが、今目の前で“帰って”しまった。

「…………こっちこそ、ありがとな……」

 急激に跳ね上がって息切れる呼吸。色んな思いが混ざり合って震える声。

 しかしその動揺を必死に収めながら、亮輔は長い長い沈黙の後に呟いていた。

「きっと、未来で──」

 時を越えて自分ちちおやを救いに来てくれた、我が息子に。

                                      (了)

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