婚約破棄されたので、儚げ美貌の侯爵子息様を守ることにしました
「バイオレット・シーモス! 私は真実の愛を見つけてしまった。悪いが君との婚約を今この場で破棄し、新たにこのリリス・セブレットと婚約を結ぶことにする!!」
その日は王都にある学園の卒業パーティーが開かれていた。
一つ年上のザイル・ブリジール様が卒業生として参加されるため、婚約者である私はパートナーとして同席する予定だった――はずなのだが。
なぜか約束の時間になっても現れず、仕方がないので一人で会場入りしてみれば、別の令嬢を連れたザイル様を発見。
で、理由を尋ねようと近付いた瞬間、会場中に響く大声で宣言されたのだ。
彼が横に抱く女性には見覚えがあった。
伯爵家のご令嬢で、学年もザイル様と同じ。
最近校内でよく二人がくっついている場面を目にしていたので、相手に特に驚きはなかった。
リリス様は色素の薄いピンク色の髪に、人形のような愛らしい顔立ちをした小柄なご令嬢である。
私とは何もかもが正反対なタイプだ。
可愛い。ただひたすらに可愛い。そしてザイル様の好みど真ん中である。
……なら仕方ないか。
「承知いたしました。ですがこのことは両家の当主には報告していますか?」
「え、ほ、報告はその、まだしていない! 今日帰ってからする!」
腕にくっつくリリス様に鼻の下を伸ばすザイル様が、私の言葉に慌てて返す。
同程度の家柄同士で、もちろんそれなりにメリットのある婚約だった。
けれど、こんな扱いをされてまで我が家が我慢して婚約を続けろと言うはずがない。
みんな大激怒するだろうが、落としどころは慰謝料と違約金で決まるだろう。
「では、私は家に戻って報告しますね。どうかお二人とも、お幸せに」
さっさと帰ろうと踵を返しかけると、まさかの人物から待ったの声がかかる。
「あなた、なぜそんな平気な顔をしているの!? 婚約者を奪い取られたっていうのに」
呼び止めたのはリリス様だった。
可愛い子の声って、小鳥の囀りみたいに愛らしいんだな……などと場違いなことを考えつつ、私は顎に手を当てる。
「互いに異性としてあまり認識していなかったから、ですかね。決まってしまった婚約ですし、それなりにうまくやりたいとは思っていましたよ。だから彼の意思を尊重していたつもりです。にもかかわらず彼はあなたの手を取った。真実の愛なら、仕方がないかなって思います」
普通に考えて、大勢の前で婚約破棄宣言をすればどうなるかなんて、子供でも分かる。
ザイル様の両親はまともだし、弟君も優秀だと聞く。
貴族の恥を晒す息子を僻地に飛ばすなり、勘当するなりして表舞台に出さない――それがブリジール家の名誉を守る一番手っ取り早い方法だ。
そんなリスクを背負ってでも、彼はリリス様を選んだのだ。
男気に溢れていていいじゃないか。
元婚約者として祝福しよう。
「あとは、そうですね。彼の好みが私じゃないのは知っていましたので。遅かれ早かれ、こうなると思っていました」
私は女性としては背が高い。
実家のシーモス家は王国騎士団員を多く輩出する家で、私もそれなりに剣が扱える。
その上、顔立ちは「可愛い」より「格好いい」と言われがちだ。
ゆるふわの甘いドレスなんて、壊滅的に似合わない。別に好みじゃないからいいんだけど。
しかし、かつてザイル様に「俺好みの女らしい格好をしろ」と言われ、無理やり着せられた挙句、男が女装してるみたいで気持ち悪いと揶揄されたこともある。
言われた通りに着たのに気持ち悪いと言われるのは、納得がいかなかった。
思えばあの頃から、彼との結婚はできれば断りたいと考えていた。
けれど私から言い出せば違約金はこちら持ちになる。なら放っておけば、そのうち勝手に自爆するだろうと様子を伺っていたのだ。
すると私の言葉に便乗するように、ザイル様はどや顔――からの、意地の悪い笑みを浮かべた。
「ふん、よく分かってるじゃないか。お前はまったく可愛げがないんだよ! 俺よりもデカくて剣も強くて、その上俺よりも女子にモテるのが昔から気に喰わなかったんだ! だからこの婚約がなくなるのは、お前が原因なんだ。つまりお前有責の婚約破棄となる。帰ってからせいぜい違約金の支払いについて、家族と相談でもしておくんだな」
いや、そんなこと嫉妬されても……。
それに、ザイル様がモテないのは私のせいではない。
彼は顔はそれなりに整ってるけど、基本的に女性に横柄で、モラハラ気質だからである。顔がよくてもあれは嫌だと、常識的な令嬢ほど避けていた。
あと、なぜこれが私有責になるのか分からない。
どう見ても浮気した側――つまりザイル様が有責で、違約金も慰謝料もブリジール家側が支払う案件だ。
……と説明しても理解できない頭をお持ちなので、私は余計なことは言わず、ザイル様をまるっと無視してリリス様に向き直った。
「私は、むしろザイル様の好みの女性であるあなたが、彼と結ばれてくれてよかったって思っています。何か困ったことがあったら言ってください。いつでも相談に乗りますから」
本心である。
私にとってリリス様は、地獄から救い出してくれた救世主だ。是非とも二人にはうまくいってほしい。
「な、あなた馬鹿にしてるの!?」
もちろん善意が通じるわけがなく、完全に嫌味として取られたらしい。
とにかく、これで本当にこの場に用はない。
「では」
うっかり忘れそうになっていた淑女の礼を残し、私は今度こそ会場を後にした。
◯◯◯◯
「あいつめ! うちの娘をコケにしよって! 拳がうずくわい!」
「親父、一発じゃ足りねぇだろ。十発だ!」
「ですね。追加で反省文を百枚書かせましょう」
「あらあら、暴力はいけませんよ。反省文も読むのが大変だわ。……代わりに、毎朝ここに謝罪に来るようになるまで追い込みましょう。精神的に」
ちなみにこれ、婚約破棄の顛末を説明した直後の、家族の反応である。
社交界シーズン中のため家族は王都に勢ぞろいしており、発言の順は父、長兄、次兄、最後が母だった。
みんな物騒だ。
血気盛んな男連中はともかく、母までおっとりした口調で何を言ってるんだ、という感じである。
けれど私のために怒ってくれる。それだけで十分だった。
「気付かなくてごめんな。よし、今から兄さんが落とし前を付けてきてやる。剣は……あんな男の血で汚れる方が嫌だな。素手でいこう。そしてしっかり骨まで砕いてやるから」
「僕も行きますよ。殺るなら誰にも気付かれないようにしないと。行くなら夜の方がいいですね」
「待って待って、そんなことしなくていいから!」
ゴリゴリマッチョの武闘派、長兄ザック兄さん。
腕もめちゃめちゃ立つ頭脳派、次兄フィン兄さん。
二人が殺気を纏って立ち上がったので、私は慌てて止めた。
すると父が低い声で止める。
「そうだぞ。……気持ちは分かるが、母さんの言う通り、やはり暴力はいかん。それにこちらが手を出してしまえば、せっかくバイオレットが耐えてあちらの有責に持っていった努力を無駄にすることになる」
その一言で、兄たちはどうにかその場に留まる。
父はふぅと息を吐き、今度は私に向き直って眉を下げた。
「バイオレット……お前がそのような扱いを受けていたことを、黙って耐えていたのに気付けなかった己にも腹が立つ。本当にすまなかった」
私は首を横に振る。
「私の方こそ、黙っていてごめんね」
ただ、学園の生徒たちはあの二人の関係に気づいていた。
最近は人目も気にせず、堂々といちゃついていたからだ。
みんなが心配して声をかけてくれていたけれど、私はそのたびに頼んでいた。
――できれば、そのことをあまり周囲に触れ回らないでほしい、と。
なぜなら家族の耳に入った瞬間、特に兄二人が知ったらこうなると分かっていたから。
つまり私の勘は正しかったわけである。
「ねえ、兄さんたち。とにかくあの人に直接手を下すのはなしで」
「……分かった。それがお前の望みというのであれば」
「分かりましたよ。あなたを傷付けたあの男は本当に許せませんが……仕方ありませんね」
「うん、ありがとう。でもね、そもそも私はこの婚約を破棄したかったから。むしろあちらの有責でそれが叶いそうで良かったと思ってるんだよ。それに大して傷付いているわけでもないし」
すると父が黒いオーラをまき散らし、笑う。
「……だが、お前に辛い思いをさせたのは事実だ。大勢の前でお前を陥れるような真似をしたあの輩を、ただでは許さん。せめてしっかりがっぽり慰謝料をもぎ取ってくるから、期待していろ」
気合い負けして、あちらは相当差し出すことになりそうだ。
私は念のため確認する。
「ちなみに、もしもあちらが婚約を再度結びたいと言ってきたら……」
「受けるわけがないだろうそんなもん!!」
よかった。これで一安心だ。
父に任せておけば、今回の件は片がつくだろう。
問題はその後。
婚約が流れた令嬢には、まともな縁談が来にくいことだ。
うちは家柄としては伯爵家。領地は豊かで資金もある。貴族の中では比較的優良物件だと思う。
けれど私自身が嫁げるかと言われると……自分で言うのもなんだけど微妙だ。
見た目はザイル様だけでなく、ほとんどの男性に一般受けしない。顔立ちも身長も変えられないし。
ザイル様との婚約時、私の外見の特徴はあらかじめ伝えてあった。
それでも構わないと言ってきたのはザイル様自身で、顔合わせの時だって「問題ない」と豪語していたのに。
――私の身長が伸びて、彼を越してから機嫌が悪くなった。
結局は、私に負けたのが悔しかったのだろう。
ならいっそ、騎士の道を目指すのも手だ。
そう家族に伝えると、母が穏やかに頷いた。
「そうね。最終的にはその道も取れるわね。けれど、しばらくは様子を見ましょう。それでもあなたに良さそうな相手が現れなければ――ということでどうかしら?」
「分かった」
母の言葉に頷き返す。
――けれど十中八九、騎士の道に進むんだろうな。
そう考えていた私は、一月後、まさかの事態に驚愕することになる。
○○○○
「私に縁談?」
婚約を破棄し、当然だが全面的にこちらの言い分が認められ、相場の倍以上の慰謝料を搾り取った話は、すぐさま貴族たちの間で駆け巡った。
なお、リリス様を選んだザイル様は両親に大激怒され、跡取りの座はまともな弟に譲らされ、余っていた男爵位を渡されてリリス様と共に男爵領へ飛ばされたという。
贅沢な暮らしを夢見ていたリリス様は「こんなつもりじゃなかった」とザイル様を責め立て、屋敷中に罵り合う声が響いているとかいないとか――そんな噂まで広まっていた。
こればっかりは仕方がない。彼が自分で選んだ道だ。
平民落ちしなかっただけマシだろう。男爵領は小さくても、慎ましく暮らす分には十分だ。
……さて。
高貴な血を引く深窓の令嬢ならともかく、一般騎士くらいなら軽く倒せる私は、か弱い令嬢とはかけ離れているから縁談は来ない。
そう思っていたのに……。
「一体どこのどいつなんだよ! ってか、今度こそまともな奴なんだろうな?」
「少なくともバイオレットを大切にしてくれる人でなくては、僕は安心して妹を嫁がせられません」
縁談の話を聞いた兄二人が、私を連れて父の執務室に乗り込んできた。
「二人とも落ち着け」
父が手で制しても、長兄は「落ち着いていられるか!」と吠える。
だが父が低い声で一言。
「話が進められんから黙れ」
さすが、周囲に魔王のようだと恐れられる父だ。
兄たちはひゅうっと息を吸い込み、一瞬で静かになった。
「それで、どんな相手なの?」
ようやく静かになったので、話の続きを聞こうと尋ねると、父はにやりと笑った。
「聞いて驚け。相手はリュースナイト家の、ジェフリー殿だ」
想像していなかった大物の名前に私が驚いて声を上げるより先に、後ろから野太い雄叫びが聞こえた。
「待て待て、あそこって……うちより家格も上の侯爵家だろ?」
「ジェフリー様は、跡継ぎの方ですよね? バイオレット、君、彼に会ったことは?」
「ありませんね」
「会ったこともないバイオレットにいきなり縁談だと!? うちとは何の接点もないのにか!?」
兄たちの動揺も無理はない。
リュースナイト家は発言力もある名門貴族だ。
放っておいても縁談はよりどりみどり。それなのにわざわざ我が家に話が来るなんて、どう考えても怪しい。
「どうした、お前は驚かんのか?」
予想以上に私が落ち着いた反応だったらしく、不思議そうに首を傾げた父に、私は乾いた笑いを上げる。
「驚いてるよ。でも、それを声にするより先に兄さん二人が動揺して絶叫していたから、逆に落ち着いたというか」
しかし、一体何のために?
正直、仮にこの婚約が成立したとしても、あちらにメリットなんてほとんどないに等しい。
「確かジェフリー様は幼い頃から病弱で、最近まで空気の綺麗な領地で静養されていたと聞いてたけど……体はもう大丈夫なのかな」
「問題ないそうだ。お前が通っている学園に編入することも決まっておる」
私は、どこかの引退した商人の後家になる覚悟も密かに持っていたし、婚約を結ぶ相手としてはむしろ条件が良すぎるくらいだ。
結論。
相手に私を選ぶなんて、やはり裏があるとしか思えない。
「俺は反対だ!! 絶対裏があるに決まってるだろ!」
「例えば正妻に迎えて体裁を整え、白い結婚を要求しておいて、自分は愛人と真実の愛を育むから認めろ、とか」
「なにっ!? そんな屈辱を俺の妹に……許すまじ!!」
兄二人は勝手に盛り上がっている。
気遣いはありがたいが、兄たちの中でジェフリー様がろくでもない男に確定しつつあるのが怖い。
ここが家の中でよかった。
外で言えば不敬罪が適用されそうだ。
「二人とも落ち着いて、お茶でも飲もう」
そう声をかけると、ぴたっと止まり、兄たちはソファに座って紅茶を啜りはじめた。
私も向かいに腰を下ろし、まだ不満げな二人を眺めながら考える。
一番ありえそうなのは、次兄が最初に話していた、他に愛人がいて……というパターンか。
でも、そもそもそんな要求を我が家がのむわけないし、のむ必要もない。
あと、気になることが他にもう一つ。
父の顔が、妙に穏やかで落ち着いているのだ。
「父さんはこの婚約について、どう思っているの?」
すると、父は笑みを深くして私を見据える。
「お前を傷付ける意図がある縁談なら、断固として拒否するつもりだった。今回もそうだ。たとえ権力で命じられようと屈するつもりはなかった」
そこで父は一拍置く。
「だが理由を聞いたら、お前にとっても悪い話ではないと思ってな」
「どういうこと?」
首を傾げても、父は笑みを深くしただけで、それ以上は何も言わなかった。
代わりに、三日後に顔合わせをするから準備しろと言われる。
「一度会ってみて、嫌なら断って構わん。断ったからといって圧力をかけられないことも、誓約書にしてある。ほれ」
渡された書類には父の言った通りの内容が記され、両家当主の名前と指印が押されていた。
……ますます謎が深まる。
ただ、この反応を見る限り、我が家の名誉が傷つく話でも、私が不幸になる話でもないのは確かだ。
私が納得したのを見た長兄は、「もし本当に屑だったらぶっ飛ばすから遠慮なく言え」と私の肩を叩く。
次兄は眼鏡を押し上げ、「証拠も残さず消し炭にしてあげますからね」と薄く笑った。
……本気でやりかねないから怖い。
○○○○
「ジェフリー・リュースナイトです。あなたに会えると思うと嬉しくて、待ちきれなくて先走ってここまで迎えに来てしまいました」
顔合わせの日、会場として指定されたリュースナイト邸へ出向こうとしたところで、なぜか外には侯爵家の紋章が描かれた馬車が止まっていた。
どういうことかと思っていたら、中から背の高い青年が出てきて、私の姿を確認するや否や走ってきて私の前に跪き、頭を垂れてそう口にした。
「えっと、……もしかして、その」
すごく聞き覚えのある名前だ。
というか、今から会いに行こうとしてた婚約者候補の名前だった。
まさか迎えに来てくれるとは思いもしなかった。
「とりあえず、頭を上げてください」
するとジェフリー様はがばっと頭を上げ、彼の顔をここでようやく確認することができた。
第一印象は、これまでお目にかかったことがないくらい、ものすごいイケメンだなというもの。
この見た目ならたとえ貴族でなくとも、引く手あまただろう。
だからこそなぜ私をこんなキラキライケメンの婚約者に選ぼうとしているのか、ますますリュースナイト家の思惑が分からない。
けれどいまだにこちらを見つめる彼と視線を交錯させていた私は、その時ふとあることに気付く。
この、エメラルドの様に光る緑の瞳と、右目の下にある泣きぼくろ。遠い昔に見たことがある気がする。
あれはどこだったかな――と記憶を探ったところで、彼の耳元で揺れるダイヤのピアスが目に入った。
「もしかして、子供の時に呼ばれた、お城のお茶会の時の……?」
その言葉に彼は大きく目を見開いた後、見る見る間に顔をほころばせる。
「覚えていて、いただいてたんですか?」
身長も雰囲気も当時とは随分と変わってしまっているけど、その顔は昔と全く同じで、ああ、やっぱりあの時の子で間違いないなと確信する。
にしても、「嬉しくて」とか「待ちきれなくて」とか。
予想外すぎる単語にお尻がむず痒くなる。
だって私は今たった今、彼のことを思い出したくらいで――むしろ忘れていたに等しいのに。
――彼と会ったのは今から七年ほど前。
十二歳以下の子供だけが招待された、王妃様主催のお茶会に出席した時のことだ。
王子殿下の婚約者探しだとか、その側近探しだとか噂されていたけど、私が選ばれることはない。
そう判断した私は、こっそり会場を抜け出して、滅多に入れない城の庭を散歩していた。
すると、大人の目も届かないような庭の奥の木陰から、言い争う声が聞こえてきた。
覗けば、数人の体格のいい男の子たちが、一人の小柄な子を囲んで揶揄している。
どうもその小柄な子の手のひらサイズの白いテディベアを奪ったようだった。
「や、やめてよ、それ、一生懸命作ったやつで」
嗚咽混じりにその子がそう言うけど、彼らは聞く耳を持たない。
「男のくせにこんなの作るとか意味分かんねぇ」
「刺繍もするんだってさ」
「お菓子作りも趣味とか終わってる」
「ダサいなぁ」
笑いながら、中心にいた男の子がそれを地面に叩きつけようとした瞬間。
「何してるんですか?」
私は反射で駆け出し、その手を掴んだ。
「は? なんだお前……」
「ああ、どうも。私はシーモス家のバイオレットと申します。で、それ、この子のですよね。返してください」
するとその男の子はふんっと鼻を鳴らす。
「公爵家の俺様に逆らうとか、上下関係を分からせた方が良さそうだな。女でも俺は容赦しない……」
口上の途中でほんの少しだけ力を加えたら、小さく声を上げながら力が緩む。
そのすきに手の中のテディベアを奪還し、泣いていたその子に手渡す。
そうしたら、男の子たちは完全に切れた顔でこちらへと向かってきた。
「危ない!」
目元まで隠れるほどの長い前髪をした、さらりと風になびく黒髪の少年が声を上げたけど、私は大丈夫だよと安心させるように片目をつぶって見せ、彼らに向き直る。
彼らのうち二人は、ただ腕を大きく振りかぶるだけの単調な攻撃だったので、普通に避けると、力の行き先を見失った体がそのまま地面に激突した。
顔面からいったからさぞかし痛いだろうなぁと、心の中で合掌していたら、最後の一人が木剣を持って私に向かってきた。
少しは腕に覚えがあるのか、なかなか綺麗な太刀筋だなと密かに感心しながら、すいっと避ける。
で、腕を振り下げ終わった瞬間を狙って相手の手を思いっきり蹴り上げる。
ドレスで普段より動きにくいけど、問題なく足は動いた。
「ぎゃっ!」
持っていた木剣は衝撃で空中へと吹っ飛び、綺麗な軌道を描いて落ちてきたところをすかさず受け止める。
そのあと尻もちをついていた彼らに切っ先を向けた。
「ひぃぃ!!」
叫び声を上げる彼らに私は言った。
「ところで、あなたたちよりも明らかに年下の女である私に手も足も出ないのって――それこそダサいってことじゃないんですか?」
すると、彼らは顔を真っ赤にして震え上がり、捨て台詞を吐いて逃げていった。
一瞬、相手が相手だからまずかったかなとも思ったけど……。
まあ、告げ口されてもその時はその時だ。
第一、先に手を出してきたのはあっちだし。
目の前で困っている人を助けないほうが、シーモス家の人間としては失格だから。
それよりも。
「あなた、大丈夫だった?」
座り込んでテディベアを抱きしめていた少年の前に屈み、私は声をかけた。
「怪我はない?」
「ぼ、ぼくは大丈夫……! それよりあなたは?」
「私は平気。テディベアも汚れてない?」
少年は涙をぽろぽろ零しながら、テディベアを見せてくれた。
雪みたいに白くて、つぶらな瞳をした小さな子は、赤と白のギンガムチェックの服を着ている。
「ねえ、さっき聞こえてきたんだけど、これ、あなたが作ったの?」
「!?」
体をびくりと動かした少年は俯き、そしてゆっくりと頷いた。
「お母さんが、刺繍とかお菓子作りとか、そういうのがすごく上手で……僕も教えてもらってたんだ。これは、お母さんの誕生日に作った初めてのぬいぐるみで……『ダリア』って名前もつけてくれて……」
そこで少年の声が震える。
「でもお母さん、去年病気で死んじゃって……。忘れたくなくて、刺繍とか続けてたけど……男のくせに気持ち悪いって、みんな言うんだ。それに小さくて可愛いものが好きなのもおかしいって」
「……」
私の胸がきゅっと痛んだ。
どうして男の子がそういったことをするのが恥ずかしいことになるのだろう。
例えば可愛いものを好きだったり刺繍が得意だったり、お菓子を作るのが趣味なのは女性だけじゃないといけないという決まりがあるわけでもないのに。
……そしてその考え方でいくと、私という存在もおかしいということになる。
我が家では女である私が兄や他の騎士志望の人たちに混じって、嬉々として筋トレや剣の修行に励んでいても、何も言われなかった。
それでも貴族令嬢としてはやっぱり異質らしく、たまにこういった場に出ると、はしたない趣味だとか令嬢らしくないと陰口を叩かれる。
けれどもそんなのは余計なお世話だ。
礼儀作法は習得しているし、勉強だって苦手だけど努力もしている。貴族としてやるべきことはきっちりこなしている。
誰に迷惑をかけるわけでもないのに、人の趣味にまで口を出さないでほしい。
――彼だって同じだ。
私は一つ深呼吸をしたあと、ゆっくりと口を開いた。
「あのね、私は女だけど刺繍とかはからっきしで。でも剣の練習や乗馬は好き。それを淑女らしくないって言ってくる人はいるけど、そういうことで淑女というものが決まるなら、私は別に淑女になれなくてもいい。好きなものを好きって言えない方が辛いから。だからえーと」
本当はもっとうまくまとめて、びしっとカッコよく決めたかったんだけど、私にはあまり文才はない。
だから、とりあえず何が言いたいかというと、と口ごもりながら、私は少年の肩に手を置く。
「刺繍が好きなあなたも、ぬいぐるみ作りが好きなあなたも、可愛いものやお菓子作りが好きなあなたも、全然恥ずかしくない。好きなら好きって、堂々としてていいと思う。――そんな人たちの言葉で、自分の『好き』を捨てなくていいから、今の気持ちを大切にしてあげて。その方がお母さんもきっと、喜ぶと思うから」
こんな言葉だけど少しは伝わったかな……と多少の不安を抱えながら少年を見つめていると、ゆっくりと彼が顔を上げる。
その時になって私は初めて、彼の顔を正面からきちんと見た。
髪の間から覗く緑の瞳と、目元の小さなほくろ。
とても綺麗な顔をした男の子は、泣きながら、花が綻ぶみたいに笑ってみせた――。
回想を終え、現実に戻ってきた私は、ジェフリー様と改めて向き合う。
ここはリュースナイト家の邸宅である。
彼の父であり当主であるゼノン様の隣で、ジェフリー様は相変わらずニコニコと私を見つめている。
あの時の私は、名前を聞くこともなくその場を去った。
まさか助けた少年が、こんな高位の貴族だったなんて思いもしなかったのだ。
……知っていたら、あんな偉そうなことは言わなかっただろうに。
会ったのはあの一度きりのはずだ。
その後私は領地で兄たちと体を鍛えることに熱中していたし、ジェフリー様は体調を崩して領地へ戻り、そのまま静養していたと聞いている。
ちなみにあの時ちょっかいをかけていた男の子たちだけど。
よほどあの日のことを黙っててほしいのか、顔を合わせると怯えたような表情を浮かべてそそくさと逃げ出すので、報復されなくてよかったと内心胸を撫で下ろしていた。
もし何かされたら、相手が公爵家とか関係なく、物理的に何かしらしでかしそうな兄が二人ほどいるので。
それにしても。
あの時の少年がジェフリー様だということは分かったが、それで、何がどうして私が彼の婚約者候補になるのか。
私の疑問をよそに、ジェフリー様ははにかむように笑うと、懐から何かを取り出して私に手渡す。
「あなたにあの時おかしくないと言ってもらってから、僕も自分が好きなことに胸を張れるようになりました。それでこれ、あなたをイメージして作ってみたんです。……もしよければ受け取ってください」
それは、見事なスミレが刺繍されたハンカチだった。
花の部分は何色もの青や紫系統の色の糸を組み合わせており、普段は手を拭ければ何でもいいと思っている私は、繊細で美しい糸の花に思わず言葉を失って見惚れてしまった。
同じものを作れと言われてもまず出来ない。せいぜい不格好な一色のみを使用した花を一輪縫うのが精いっぱいだろう。
しかもそれを、わざわざ私のために作ってもらったと知り、胸がジンと熱くなる。
「ありがとうございます。大切に使わせていただきます」
聞けばジェフリー様は、刺繍やぬいぐるみ作りだけでなく、服作りにも挑戦しているらしい。
さらに技術を孤児院の子どもたちに教え、彼らを雇い入れ、商会まで立ち上げたという。
――最近私でもよく耳にする流行の店は、どうも彼のものだったようだ。
が、可愛いものが好きな彼が選ぶなら、もっと小柄で愛らしくて、砂糖菓子みたいに甘いご令嬢の方が似合うはずだ。
例えば……元婚約者の浮気相手みたいな。
もしくはあの時の言葉で救われたというならば、私を不憫に思って、恩返しのつもりで……。
「バイオレット、ジェフリー殿と話してみてどうだった」
ジェフリー様との顔合わせを終えてもうんうん唸っていたら、帰りの馬車の中で父がそう尋ねてくる。
「楽しかったよ。話も弾んだと思う」
それは素直な感想だ。
けれどやっぱり、どうして私なのかが分からない。
やっぱり私が先ほどまで考えていたようなのが理由なのだろうと思い、父にそう言ってみたら、ため息をつかれてしまった。
「違う。お前の考えているような理由ではない」
そうか、違うのか。
とすると他に思い当たる理由は……。
悩む私に、正面に座る母がさらりと言う。
「もう一度、ジェフリー様の様子を思い出してみたら?」
なので言われた通り脳内で思い出す。
身長が高い割には、彼の体躯は細かった。
私と話している時に、暑かったのか顔が赤く火照っていたが、その赤みがはっきりと分かるほどに肌も白い。あまり日光に当たる機会もなかったのだろう。
療養を終えたとはいえ、まだまだ万全とは言い難い気がした。
それこそ、激しい運動なんてしたら、貧血を起こして倒れそうな気がする。
見た目は儚げな美青年そのもので、その上、侯爵家の跡取り息子。
もし彼を狙うご令嬢が現れて――勢いで押し倒されたら、彼は抵抗できないかもしれない。女性の力って、案外侮れないから。
しかしどんな理由であれ、そうなるとジェフリー様は責任を取らなければいけなくなる。
あと、仮に誰かと婚約なり結婚したとしても、あの見た目ならばそれでも尚襲われる可能性は高い。
そして私は合点がいった。
なるほど、リュースナイト家は、私に彼を守る騎士役として婚約者になってほしいのだ。
つまり――私の身体が目当てと。
騎士として求められるのは、我がシーモス家にとっては最大の誉れだ。父がこの話にご満悦なのも頷ける。
ついでに私は丈夫だ。風邪一つ引いたことがない。
強靭な肉体の持ち主であるシーモス家の血を取り入れることは、きっと後世にも役立つだろう。
問題があるとすれば、ジェフリー様が私を異性として見られるかどうかだが――まあ、世の中には色んな方法がある。
それに侯爵家の夫人としてやれるかどうかも心配だったが、まあ大丈夫だろう。
学園では同性の友人も多いし、頼まれて護身術講座まで開いている。参加者はご夫人も多く、満員御礼だ。
「なるほど、リュースナイト家が私を婚約者にしたい理由は、理解しました」
私はついに答えに行きつき、両親に向って満面の笑みを浮かべて見せる。
「そうか、わしらが答えを言わずとも気付いたか」
「はい」
全ての憂いから、ジェフリー様を守ってみせよう。
そんな風に心の中で決意する私を見て、父も母もまた安心したように微笑んだ。
「それならばこの話は、断る理由はないな。すぐにジェフリー殿とお前の婚約、すすめさせてもらう」
父の言葉に、私は大きく頷いてみせた。
◯○◯○
「バイオレット様!!」
ジェフリー様と婚約が決まった直後、新学期が始まった。
学年が一つ上がり、最高学年に上がった私は、学園に到着するや否やたくさんの女子生徒に囲まれる。
「聞きましたわ! 婚約を破棄されたって」
「卒業パーティーで浮気相手を連れて宣言するなんて……あんな方と結婚せずに済んで、むしろよかったですわ」
「元気を出して下さいませ。バイオレット様にはきっと良い方が見つかりますわ!」
こんな感じで事のてん末は当然学園中にも知られており、事情を知った友人や後輩の子たちは、かわるがわるやってきては口々に私を慰めてくれる。
「よろしければ私の弟を紹介いたしますわ! 優しいとてもいい子ですの」
「でしたら私の従妹もご紹介したいですね。伯爵家の三男で今は文官として働いております。なかなか優秀だと上の方の覚えもめでたいのです」
「はいはい! なら私も! うちの兄もおすすめです! 子爵家ですけど、最近鉱山が見つかって収入は右肩上がりなのでバイオレット様に苦労はかけません。人見知りな性格でちょっともっさりした見た目ですけど、鉱石と同じで磨けば光る原石です!」
そして、私に新たな婚約者候補を勧めるべく、気付けば皆が手を上げ、弁舌を振るいはじめた。
彼女たちの気遣いを嬉しく思うと同時に、伝わってくるもの凄い熱量に頭がくらくらする。
とてもありがたい話だけど、どんなにいい相手だとしてもそれを受けることはできない。
その説明をすべく、私は声を張り上げようと息を吸い込んだその時――。
「僕の婚約者に別の人を紹介されるのは、ちょっと困りますね」
透明感のある深い声が人だかりの向こうから聞こえてきて、皆がそちらへと一斉に顔を向ける。
大人顔負けの色香を放つその青年は学園の制服に身を包んでおり、赤いタイを締めているので私と同じ最高学年だと分かる。
明らかに高貴な空気を纏っているので貴族だろうとは推測できても、これまで彼の姿が表に出てきたことはほぼなかった。
だからあれは誰なんだろうと、周囲が動揺している様子が見ていて伝わってくる。
「……誰?」
「三年生よね? あんな人、いたかしら」
「待って……さっき、婚約者って」
騒動が徐々に大きくなりそうだったので、早めに説明しようと彼の名を呼んでこちらへ呼び寄せる。
「ジェフリー様。まだ皆には話していなかったんです。ちょうど今から説明するところでした」
「確かに、正式にはまだ発表できていませんでしたね」
彼が歩みを進めるたび、女の子たちが割れて真ん中に道ができる。そこを通ってまっすぐ私の元へやってきたジェフリー様は、柔らかな笑みを浮かべて見せた。
「皆さん、初めまして。ジェフリー・リュースナイトです。幼少期は病弱で領地におりましたが、完治しましたので今年度から編入しました。そして、つい先日、こちらのバイオレットと婚約が決まりました」
その瞬間、周囲からは割れんばかりの歓声が響き渡る。
これまで姿を見せず、謎の存在だったリュースナイト家の嫡男であるジェフリー様が、遂に表舞台に姿を現したのだ。
しかもその本人は見目麗しく、その上この前婚約破棄をしたばかりの私の婚約者になった。
当然学園中がその話で持ちきりとなり、私たちはその後、みんなから質問攻めにあうことになった。
「……大変な目に遭いましたね。ジェフリー様、お疲れではないですか?」
放課後になると、ようやく周囲も、朝よりは落ち着きを見せた。
けれど、慣れない王都暮らし、初めての学園、そして絶え間なく押し寄せる生徒たちに応対するのはかなり大変だっただろう。
が、予想に反してジェフリー様の顔に、そこまで疲労の色は浮かんでいなかった。
「いえ、このくらいは平気です。それに僕も体力を付けようと、バイオレットには遠く及ばないかもしれませんが、少しは鍛えていますから。いつまでも病弱の印象を与えていてはだめですしね」
けれどそう言って微笑む姿は、やっぱり儚げな雰囲気を醸し出す美青年だ。そこはかとなく色気が漂っている。
それを隣で眺めながら、なかなかに大変な役目を引き受けたかもしれないと考える。
そんなつもりがなくとも、花に引き寄せられた蝶が蜜を求めてやってくるように、彼の色香に当てられた女子がやってこないとも限らない。
傍にいられるときはなるべく一緒にいるように心がけることにしよう。
学園内だからって安心できるとは限らないのだ。
現に近くにいた女子生徒数人がこちらを見ていて、そのうちの一人がそれに当てられたのか、ふらふらっと友人に寄りかかっているのが見えた。
原因は多分ジェフリー様だけど、体調不良からくる急な立ち眩みの可能性も考慮し、私は彼女たちの元へ駆け寄る。
「大丈夫? 眩暈、とかかな。もし動けなさそうなら私で良ければ保健室に運ぶけど」
すると彼女たちは、滅相もないとばかりに首をぶんぶんと横に振る。
「いえいえいえいえ、平気ですわ! ご心配には及びません!」
「本当に?」
「はい、大丈夫ですわ」
それならまあいいかと、その場を離れた私は、ジェフリー様の耳元に口を寄せる。
「ジェフリー様、あなたの笑顔は数多の女性を惑わせるほどの力を秘めていますので気を付けてください」
しかしジェフリー様はうーんと言いながら苦笑いを浮かべる。
「多分、彼女の立ち眩みの原因は、僕だけではないかと」
「いいえジェフリー様。あなたはもっとご自分の美貌を自覚すべきです」
そんな私たちの後ろで、さっきの女子生徒たちがこっそりと、
「儚げ美貌のリュースナイト様の笑顔……尊いですわ」
「しかもそれが麗しのバイオレット様に向けられているという奇跡」
「推し×推し……推すしかありませんわね」
という会話をしていたとは、私は露ほども知らなかった。
○○○○
学園生活は意外なほどに順調で、熱い視線は向けられても、表立ってジェフリー様に仕掛けてくる生徒はいなかった。
ジェフリー様は言葉通り、体質もかなり改善しているようだった。
ひ弱そうに見えて、剣を使う授業も他の生徒と同じようにこなしている。しかも息切れ一つせず、涼しい顔で。
それでも油断は禁物だ。
ついでに、ジェフリー様と同じクラスの男子たちにも、
「もしも彼に手を出そうものならどうなるか、覚悟してね」
と指をぽきぽき鳴らしながら満面の笑顔で伝えたら、全員コクコク頷いていた。よし。
一緒にいると、必然的に会話の時間も増える。
得意な教科、苦手な教科。好きな食べ物に、嫌いなもの。
意外と笑いの沸点が低いことや、困った時は、右の眉だけほんの少し下がること。
あと、ジェフリー様は聞き上手で、私の話でも楽しそうに聞いてくれる。
私が何か言おうとするたびに先に自分の話で遮ってきた元婚約者とは、大違いである。
私もジェフリー様の話を聞くのは楽しいので、一緒にいる時間は自然と心地よいものになる。
他にも、
「バイオレット。こちらに段差があります」
そう言ってこちらに手を差し出したり。
「一緒に運びます。僕にも少し分けてください」
教師から教室に運んでほしいと頼まれ教材を運んでいたら、少しどころかそのほとんどをジェフリー様が持ってくれたり。
他にも必ず私の歩幅に合わせてくれたり、変な輩に絡まれそうになった時はジェフリー様の方が私を守ろうと助けに入ったり。
段差で転ぶようなたまじゃないし、重そうな荷物の運搬だって、腕を曲げれば力こぶのできる私にとっては全然苦ではないし、絡まれたところで自分で対処できる。
むしろ私が守るべき対象であるジェフリー様に守られてどうするんだという感じだ。
けれどジェフリー様に気にしてもらえていることがちょっと嬉しいと思ってしまった自分に、自分でびっくりする。
私とジェフリー様は婚約者同士だ。
けれど求められたのは、彼を守ること。
そしてリュースナイト家に、シーモス家の強靭な血を残すこと。
だから時折向けられる強い視線に、うっかり勘違いしそうになっても――守るべき私が、その色香に屈してどうする。
そう言い聞かせる毎日である。
◯◯◯◯
そんなある日のこと。
日課となっている週末のジェフリー様とのお出かけで、新しい私の剣を選ぶために、ジェフリー様が見つけてくれた店へ向かった。
おかげで、なかなかいい逸品が手に入った。
「すみません、私の趣味に付き合わせてしまって」
色気の欠片もない買い物だったのに、ジェフリー様は気にした様子もない。
「いえ。そもそも僕がバイオレットのためにと見つけてきたお店ですので。喜んでもらえて何よりです。この間は僕の好きな場所に連れて行ってもらいましたし」
にこっと笑われると、勝手に心臓が跳ねる。
……けれど私は、それに気付かなかったことにした。
そのあと、ジェフリー様が「少しだけ寄ってもいいですか」と言い出したので、彼の案内で小さな店に入った。
リボンや刺繍糸などが所狭しと並び、どこか甘い香りのする可愛いお店だ。
私には縁遠い場所だけど、ジェフリー様は目を輝かせて棚を眺めている。
その横顔があまりにも嬉しそうで、私はつられて口元を緩めてしまった。
それから二人で王都をぶらぶら歩いていると、ふとショーウィンドーのドレスに目が留まった。
向かって右側にはピンクの生地にこれでもかとフリルが多用され、ふんわりと膨らむスカートの部分には煌めく星のようにダイヤが散りばめられたドレスがあった。
まるであの時卒業パーティーでリリスが着ていた物に酷似しているなと、そんな感想を抱く。
と。
「バイオレットはこういうドレスが好みですか?」
自然と足が止まっていたらしい私に、ジェフリー様がそう尋ねてきた。
「あ、いえ、そういうわけでは。前の婚約者の浮気相手の女性が、これにそっくりなドレスを着ていたなというのを思い出しまして。それに個人的にはこの系統のドレスは趣味ではありませんね。ただ……」
「ただ?」
私はふっと視線を落とす。
「世の中の男性は、一般的にはこういうドレスを好み、なおかつそれが似合う女性を好むものだと思うんです。実際に私の元婚約者もそうでしたし」
私は今の自分が嫌いじゃない。
それでも私はジェフリー様に、ある種の申し訳なさを感じているのは事実だ。
だってジェフリー様は可愛いものが好きなのに、ただ、彼の貞操を守るためと、侯爵家の血を残すために強靭な私が選ばれてしまったから。
そう、口にした瞬間だった。
「……バイオレット」
「はい、なんでしょうか」
先ほどよりも温度の低い声でジェフリー様に名前を呼ばれた私は、首を傾げながら返事をする。
と同時に、急に視界が暗くなり、背後にあった壁に私の身体が彼に自然と押し付けられる形になる。
私は真上にあるジェフリー様の顔を、しげしげと眺めながら考える。
なんだっけ、これっていわゆる――壁ドン、というやつだろうか。
頼まれてやったことはあるけど、やられる側に回るのは初めてだ。
急なジェフリー様の行動だったけど、怖いとか、怯えるとか、そういう感情は一切湧かなかった。
ただ、何が起きているのか理解が追いつかず、私は目を瞬かせる。
「……えーと、ジェフリー様?」
彼の表情は、怒っているのか、拗ねているのか、それともその両方なのか。
しかし綺麗なご尊顔だなと見つめていたら、ジェフリー様は小さくため息をこぼす。
「あなたは、本当にひどい人ですね。こちらの気持ちに気づいていないとは思っていましたが、まさかずっとそんな勘違いをしていたなんて」
そう言って彼は小さく微笑む。だけどその声にはわずかに不満が滲んでいた。
「……勘違い、ですか?」
「ええ」
困惑する私を見下ろしながら、ジェフリー様はゆっくりと言葉を続ける。
「あなたは、僕がそんな都合のいい理由であなたを婚約者に選んだと考えていたんですか?」
「はい、てっきりそうだとばかり」
私はすぐに頷く。
私の強さを幼い頃のジェフリー様は間近で見ていたから知っている。むしろそうだと疑いすらしなかった。
するとジェフリー様はもう一度ため息をこぼした後、私から目線を逸らさずにはっきりと言った。
「全然違いますから。僕があなたに婚約を申し込んだのは、あなたが腕が立つ人間だからでも、健康体だからでもありません。……あの時、自分の好きなものを否定しなくていい。好きなら、好きだと自分で認めてあげてほしい――そう言ってくれたあなたの、その心に惹かれたんです」
「え……」
あまりにも予想外のことに、間抜けな一音だけが口から飛び出し、頭が真っ白になった。
「けれど気持ちに気づいたところで、僕は体調も安定していませんでしたし、この想いを伝えるつもりはありませんでした。いずれあなたには婚約者もできるだろうとも思っていましたから。そのあと、体調も良くなり……そして、あなたに婚約者がいなくなったと知った」
そこで彼は、わずかに照れたように唇を噛んだが、それでも逃げずに言い切った。
「だから、あなたに婚約を申し込みました」
……待ってほしい。
情報量が多すぎる。
しかもジェフリー様は、どれだけ彼が私のことを想っているのか、そして必ず幸せにするのでせめて一度顔合わせの機会がほしいと切々と訴え、私の父を説得したそうな。
つまりこれらの話から察するに、ジェフリー様は……。
「……好き、なんですか。私のことが」
ジェフリー様は、迷いなく頷いた。
「はい。僕はあなたのことがずっと好きでした」
あまりにもあっさりと肯定されてしまった。
「そ、れは、人としてというか」
「人間としても好きですが、こうして壁際に追い詰めて告白するくらいには、異性としてあなたを意識しています」
「異性……あの、私、別に小さくもありませんし、ジェフリー様の好みとは外れているんじゃ」
「小さいものや可愛いものは好きですが、僕はあなたがたとえどんな姿だとしていても好きですよ」
「……」
思わず言葉を失ってしまったけど、すぐに復活した私は、正直に告白する。
「すみません。嫌いではないというか……むしろ好きなんだとは思うんですけど、そういう意味で好きなのかどうか、まだ自分の気持ちがはっきりとは……」
私の返事にジェフリー様は怒ることなく、むしろにこりと微笑む。
「分かっています。本当なら、もっと時間をかけてゆっくりとあなたと距離を詰めていくつもりだったんです。ただ、あなたがあまりひどい勘違いをしていたのがさすがに耐えられなくて」
「その点については、その、すみません」
「謝罪の必要はありません。むしろ、僕の判断が甘かっただけですから。こうして僕の気持ちも露呈してしまったわけですし……。なので僕は決めました」
「な、何を、ですか」
キラキラした粒子をまき散らしながらも感じる笑顔の圧に、なんとなく後ろに下がろうとするも、既に壁に体が当たっているので逃げられない。
背中に一筋汗が流れつつ何とか口にした私の言葉に、ジェフリー様はさらに輝かしい笑顔になると、その表情のまま告げる。
「これから、あなたを本気で口説かせていただきます」
「……はい?」
理解が追いつかないまま立ち尽くす私の耳元に、彼は身を屈めて囁いた。
「覚悟しておいてくださいね」
その一言で、全身に血が巡る感覚がした。
これ、私どうなるの……?
既にジェフリー様は私から離れたものの、赤くなった顔の熱は一向に引かず、私はその場に立ち尽くす他なかった。
○○○○
次の日から、本当にジェフリー様は本気を出してきた。
登校前には、毎朝のように侯爵家の馬車が我が家の前に停まる。
しかも必ず本人が降りてきて、私の手を引き馬車の中へと引き込む。
放課後も同様で、帰りは必ず一緒。
昼食の時間も当然のように隣に座り、しかも距離が前よりも明らかに近いうえ、毎日ジェフリー様のお手製のお弁当である。
「はい、口を開けてください」
「じ、自分で食べられますから!」
「そんなことを言わずに」
にこやかな笑顔で差し出されれば、私は断れず、彼の手ずから食事を運ばれる。しかもこれがプロの料理人並に美味しい。
「お菓子作り以外にも才能があったんですね」
「はい。……もちろん、あなたの好みも必要な栄養分も完璧に把握していますので、安心してください」
……これが俗にいう胃袋で掴まれるということなんだろうか。
さらに、私が訓練場で鍛錬をしていると、いつの間にか近くにジェフリー様がいる。
追い打ちをかけるように、ジェフリー様の手で刺繍の施された小物が毎日届くようになった。
しかも、私たちが主役になる次の卒業パーティー用に、私のドレスをジェフリー様は鋭意制作中だという。
「楽しみにしていてくださいね。あなたの魅力を引き立てる渾身の一着を作りますので」
満面の笑みでそう告げてくるジェフリー様。
……どうしよう、ジェフリー様の醸し出す雰囲気が甘い。
向けられる微笑みも甘い。
もう、何もかもが甘い。
私だけじゃなくて、周りにいる生徒たちも、美麗な笑顔に当てられて顔を赤くさせるほどだ。
なので二週間もしないうちに、
「分かりましたから! もう十分ですから!」
思わずそう言ってしまった。
けれどジェフリー様は、困ったように、それでいて楽しそうに首を振る。
「いえ。まだこんなものではありませんので」
……本気で言っているらしい。
そんな私たちのやり取りを、少し離れた場所から見ていた女子生徒たちは、
「やっぱり、あのお二人が並ぶと尊いですわ……」
「目の保養を通り越していますわね」
「拝みたくなりますわ……」
などと、小声で手を合わせていたらしい。
だが残念ながら、私はそんなことに気付く余裕などなかった。
……これ、本当にどうなるんだろう。
そんなことを考えながら、私は今日もまた、彼の隣を歩いているのだった。




