イテレーション
てきとうに作りました。
2025年7月15日、午後12時45分。
福山駅南口のバスロータリー。照り返すアスファルトの熱気が、視界を陽炎のように歪ませている。
羽衣カイは、隣で楽しそうにバスを待つナツミを横目に、自身の脳内に展開された「コンソール」を凝視していた。
(……このエリア、オブジェクトの密度が高すぎる)
カイには、一般人には見えないものが見える。
駅前のバラの花壇。そこには「Rose_Object_001」から「500」までのラベルが貼られ、風による揺れの演算(Physics)が共通のシード値で簡略化されている。
カイは、この世界の「裏側」を読み解き、書き換えることができる唯一の天才、**「セゲライダ」**だった。
「カイくん、何ボーッとしてるの? ほら、鞆行きのバス来たよ!」
ナツミがカイの腕を引っ張る。
やってきたのは、エンジ色と白のラインが入った「鞆鉄バス」だ。
冷房の効いた車内に逃げ込むと、エンジンの振動と共に、バスはゆっくりと福山の中心市街地を南へと走り出した。
バスは葛城のあたりを過ぎ、緩やかな坂道を上っていく。
窓の外には、並木道と古びた住宅街が交互に現れる。
カイは、バスの車内という「閉鎖空間」の演算データに違和感を感じていた。
シートのモケットの擦れ具合、つり革の揺れる周期。すべてが「完璧すぎる」のだ。
「ねえ、カイくん」
ナツミが、窓の外を流れる景色を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
その声は、いつもの明るい彼女のものとは思えないほど、低く、透き通っていた。
「……この景色、なんだか『書きかけの絵』みたいに見えるね」
カイの心臓が、ドクリと跳ねた。
「書きかけ……? どういう意味だ?」
「うーん、うまく言えないんだけど。あの雲も、あの木も、すごく綺麗なんだけど……誰かが『ここを見てほしい』と思って、一生懸命描いたみたいな。でも、私たちが通り過ぎた瞬間に、消えちゃうんじゃないかって」
ナツミは未来を知らない。彼女は、自分が数時間後に死ぬ運命にあることも、この世界がシミュレーションであることも知らないはずだ。
だが、システムの中心人物である彼女の意識は、時折、世界の「境界線」に触れてしまうことがある。
「……消えたりしないよ。俺が、消させない」
「ふふ、大げさだなぁ。でもね、カイくん。私、思うんだ。もしも世界が明日終わるとしても、今のこの瞬間の『解像度』が一番高ければ、それでいいんじゃないかなって」
解像度。
彼女が口にするはずのない単語が、カイの耳を打つ。
彼女の無意識が、この世界を管理する**「セゲライド」**の意思と共鳴している。
カイは拳を握りしめた。彼女は「壊れゆく世界」を本能で感じ取っている。
バスは終点の鞆の浦に到着した。
潮の香りと、江戸時代から続く古い街並み。
二人は「平成いろは丸」に乗り込み、対岸にある**仙酔島**へと渡った。
「仙人が酔うほどに美しい」と言われるその島は、静寂に包まれていた。
海沿いの遊歩道を歩き、五色岩と呼ばれるパワースポットへ向かう。
だが、そこでカイは「それ」を目撃した。
「……っ!」
遊歩道の脇にある古い松の木。
その幹の一部が、不自然に白く、のっぺりとしている。
近づいてよく見ると、樹皮の質感が消え、代わりに**「Missing Texture」**を示す、紫と黒の格子模様がわずかに透けて見えた。
「カイくん、どうしたの?」
ナツミが歩み寄ろうとする。
「来るな、ナツミ!」
カイは叫び、ナツミを制止した。
その瞬間、周囲の「音」が不自然にカットされた。
波の音も、鳥の声も、風の音も。まるで無響室に放り込まれたような、暴力的な静寂。
カイが足元の地面を凝視すると、砂浜の境界線がギザギザのドット状に崩れ、その下にある「虚空(Void)」が見え始めていた。
「デフラグが追いついていない……。俺が運命を変えたせいで、このセグメントの整合性が崩壊し始めているんだ」
突然、空の色が変わった。
つい先ほどまでの瀬戸内ブルーはどこへ行ったのか。
空は、まるで壊れたディスプレイのように、赤黒いノイズ混じりの色に変色し、太陽の光が「点滅」を始めた。
「……何、これ。カイくん、怖いよ」
ナツミの声が震える。
彼女の目にも、この「世界の終わり」は見えている。
システムは、本来の「ナツミの死」というシナリオを完遂できなかったカイに対し、世界そのものを破壊することで「エラーの強制終了」を図ろうとしていた。
その時、遊歩道の向こうから、数人の観光客がこちらへ歩いてくるのが見えた。
だが、彼らの歩き方は異常だった。
膝の関節が逆に曲がり、首が不自然な角度で固定されている。
彼らの頭上には、共通のメッセージボックスが浮かんでいた。
`FATAL ERROR: Illegal branch detected.`
`Action: Delete unauthorized user "KAI" and target "NATSUMI".`
「NPCが……防衛プログラム(ガード)に書き換えられたのか」
観光客だったはずのモノたちが、無表情のまま、凄まじい速度で二人に向かって走り出した。
その背後では、仙酔島の山々が文字通り「データ化」して、空中に霧散していく。
「ナツミ、俺から離れるな!」
カイは懐から、スマホ型の自作デバイスを取り出した。
彼は天才セゲライダだ。世界がプログラムであるなら、自分もまた、そのプログラムに干渉できる唯一の権利を持っている。
「読み込め……! 『Fukuyama_Symmetry_Shield.sh』!」
カイが画面上のコードを実行した瞬間、彼の周囲に、青い幾何学模様の壁が展開された。
襲いかかるNPCたちが壁に激突し、火花を散らして消失する。
だが、空の変容は止まらない。
太陽が黒く塗りつぶされ、その周囲から、巨大な「ソースコードの断片」が雨のように降り注いできた。
「俺たちが生きているのは、誰かのための娯楽じゃない。俺とナツミの、現実だ!」
カイは空に向かって咆哮した。
だが、その視界の端で、ナツミの体が微かに透け始めていることに、彼はまだ気づいていなかった。
「……っ、カイくん、手が……!」
ナツミの悲鳴に近い声に、カイは我に返った。
彼女の細い指先を握りしめていたはずの感覚が、急速に希薄になっていた。見れば、ナツミの手首から先が、まるで古いフィルムが感光したように白く透け、背景にある赤紫の空が透けて見えている。
「そんな……消えちゃうの? 私、死ぬの……?」
ナツミの瞳に、生々しい「死」への恐怖が浮かぶ。彼女にとって、これはプログラムのバグではなく、自身の存在が根源から否定される生理的な恐怖だった。
カイの脳内で、凄まじい速度の演算が走る。
(因果律の不整合だ。システムはナツミを『既に削除されたオブジェクト』として処理し始めている。今の彼女は、実体のない残像データに過ぎない!)
「死なせない……絶対に死なせない!」
カイは叫び、スマホ型デバイスの画面に指を叩きつけた。
彼は天才セゲライダだ。未来の自分が作り上げたこの巨大な揺りかごの、唯一の「綻び」を知るデバッガー。
「強制フリーズ……! 対象:ID "NATSUMI"。状態を『READ-ONLY』に固定、ガベージコレクション(メモリ解放)を無効化しろ!」
カイが「特権実行キー」を叩き込むと、ナツミの身体がわずかに青い光を放ち、透過が止まった。しかし、それは一時的な止血に過ぎない。システムのコアは、執拗に彼女を消去しようと、周囲の空間そのものを「Null(無)」に上書きし続けていた。
「走るぞ、ナツミ! 桟橋まで戻るんだ!」
二人は崩れゆく仙酔島の遊歩道を全力で駆け抜けた。
背後では、五色岩がポリゴン状に砕け散り、その破片が重力を無視して空へと吸い込まれていく。海面はもはや水の色をしておらず、1と0が激しく点滅する電子の海へと変貌していた。
「カイくん、あそこ……船が!」
ナツミが指差す先、桟橋に停泊していた「平成いろは丸」が、不自然な挙動を見せていた。
船体の一部がワイヤーフレームの緑色に透過し、エンジンの音が、不快な高周波の電子ノイズに変わっている。
「船のスクリプトが書き換えられているのか……。脱出ルートを封鎖するつもりか!」
カイは走りながら、コンソールにコマンドを叩き込む。
「なら、俺がこの船を直接制御する!」
桟橋に飛び乗った瞬間、カイは船の操舵輪ではなく、船体に直接手を触れた。
彼の指先から、金色のバイナリ・コードが火花のように船体へと流れ込む。
`Overriding Heisei_Irohamaru.sh... DONE.`
`Executing Manual_Control.exe...`
「動けッ!」
轟音と共に、平成いろは丸が急発進した。
海面という名の「データ・グリッド」を強引に切り裂き、船は鞆の浦の港へと突き進む。
背後の仙酔島は、今や巨大なエラーメッセージの塊となり、真っ黒な虚空の中へと沈んでいった。
鞆の浦の港に辿り着いたとき、そこには仙酔島の喧騒とは対照的な、異様な「静寂」が広がっていた。
船を降りた二人の目に映ったのは、時間が停止した福山市の情景だった。
江戸時代から続く常夜燈の周りで、観光客たちが彫刻のように固まっている。
風に舞うレジ袋も、飛び交うカモメも、空中で静止したまま。
「……みんな、どうしちゃったの?」
ナツミがおそるおそる、近くで固まっているおじいさんに触れようとした。
「待て、触るな。……今の彼らは、単なる『静止画像』だ」
カイは周囲を警戒しながら、港町の狭い路地へとナツミを導いた。
システムの負荷を抑えるために、このセグメント(鞆の浦エリア)は「待機状態」に移行させられたのだ。
「ナツミ、よく聞いてくれ」
カイはナツミの両肩を掴み、その真っ直ぐな瞳を見つめた。
「今の福山は、俺たちが知っている場所じゃない。誰かが書いた『物語』の舞台裏に、俺たちが迷い込んでしまったんだ」
「物語……? カイくん、さっきから変だよ。どうしてそんな不思議なことができるの? どうして空が変なの?」
「それは……」
カイは言葉を詰まらせた。
自分が天才セゲライダであること。この世界が偽物であること。そして、彼女が死ぬはずだった運命を自分が捻じ曲げたこと。
そのすべてを話せば、彼女の心が壊れてしまうかもしれない。
その時。
静止していたはずの街に、一つの「足音」が響いた。
コツン、コツン、と。
規則正しい、革靴の音。
がんばりたい。




