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5,あの日の私に乾杯を


7月。梅雨も早々に明け、温暖化の影響か猛暑の毎日。季節の花であるはずの紫陽花もすでに変色してきており、青々とした空が広がっている。夏に弱い私は早々に外の気温にお手上げ状態で、職業柄、引きこもり生活を楽しんでいた。


「…うん。ちゃんと食べてるよ。あっそうそう、この前紫蘇ジュースありがとね。毎朝飲んでる」

『あれいいでしょ〜!職場の人に教えてもらってつくったのよ。夏バテにいいんだって!』

「たしかによさそうだよね。私も今度作ってみたい」

『あ、ほんと。そしたらレシピ送るわ』


一人暮らしを始めた私が心配なようで、母からのメッセージや通話は絶えず届く。この前も家に来て色々と食品やらなにやらを持ってきてくれたのだ。話に出た紫蘇ジュースもそのひとつで、毎朝大活躍している。


仕事に戻るとのことなので通話を終えて、作業部屋から出る。去年から取り掛かっていた新作は、無事に初夏頃に発売できた。最初はまずまずの売れ行きだったが、人気配信者が動画内で取り上げたとのことで、知名度が広がり、ありがたいことに売れ行きは右肩上がりである。ひとつ大きな山を乗り越え、榊さんとホッと胸を撫で下ろした過去は懐かしい。

現在はエッセイやコラムの依頼が来ており、それを対応しながら新作も構想している最中だ。


冷蔵庫を開いて、紫蘇ジュースと炭酸水を取り出す。さっき電話で話してたから飲みたくなっちゃったんだよね。紫蘇ジュースは原液なので、何かで割るとちょうど良い。しゅわしゅわと跳ねる炭酸水を注ぐと、綺麗なルビーのような色がコップいっぱいに満ちていく。

何か小腹が空いたな。昨日作ったプリンがあったからそれを食べるか。木材の丸いテーブルに置いて椅子に腰をかける。椅子はアイアン脚のチェア。ネットで一目惚れをし、即購入。後悔はしていない。


母はあまり湊翔くんの話題を出さなくなった。きっと、いろいろと気づいているのだろう。それでも何も言わない。その優しさに、私は甘えている。


あの冬の日、しっかり振られた私は彼に手を振って別れを告げ、そのまま駅に向かい電車に乗った。最後は彼のほうがひどい顔をしていたな、と思いながら。

きっとこれから、初恋が終わった実感がじわじわと迫ってくるのだろう。それに恐れた私は、執筆作業に集中した。書いて書いて書きまくった。

空いた時間には春からの新生活の準備に明け暮れ、卒業式を迎えた。若草色の袴を纏った私を見て、確か母が大喜びをしていた。


そこからは怒涛の新生活がスタート。

卒業後すぐに引っ越し準備、休む間もなく新作小説の脱稿、そして書籍化準備…。他にも税務署でフリーランス登録など、生活における手続きも行ない、やっと気持ちを落ち着けたのは5月頃だった。


相変わらずCRÉZの話は目や耳に入る。ツアーのチケットは即完売だったようだ。湊翔くんも30歳になり、公式動画サイトではお祝い動画が上がってSNSも非常に盛り上がっていた。活動の幅も広がり、メンバーそれぞれ別のフィールドでも活躍している。

あれ以来、スキャンダルの話題は取り上げられていない。湊翔くんと女優は沈黙を貫いている状態で、お互いの事務所も「プライベートは本人に任せています」とのコメントだった。最初はアイドル、とのことでスキャンダルをそのままにするのかという声も上がったが、それもいつしか沈静化していた。


湊翔くんから連絡は何度か来たが、会ってもいないし話してもいない。実家に何度か訪ねてきたようだけど作業場所を外や編集部を借りて行ったり、小説の取材や調査で下調べのために地方へ行くことも多かった。母も渚ちゃんも何かを察したのか、間に入ってくれていたのだと思う。本当にみんな優しい。



テーブルに置いている向日葵をみて、自然と口角が上がった。あんなに大切な初恋も時間が経てば、風化していく。だってわたしはちゃんと今も笑えてる。ご飯も食べて仕事できて眠ることもできてる。

まだ湊翔くんの姿を見ることは胸が痛いけど、生活を送れている。季節を楽しめている。失恋は時間が癒す、あながち嘘じゃないということを身に染みて体験していた。





ーーーーー






『電子書籍の恋愛部門1位に累計5万部突破おめでとうございまーす!』

「ありがとうございます」


思わずイヤホンの音量を下げてしまった私は悪くない。


『SNSでの反応見てます?[登場人物がリアルすぎて泣いた][共感しすぎて付箋だらけになった]…書店でもPOP作ってくださってたりで売上が伸びてるとのことです!』

「すごいですね…すごすぎて、現実味がわかないです…」

「一気に橘千夜の名前が広がってますよ〜!」



『愛していると言えない夜に』


学生時代の恋愛を引きずったまま、大人になった彼女彼らの物語。言葉にできない想いやすれ違い中に残る愛を持ちながらも、大人になってからの選択や後悔、心の成長を描いた作品である。


「ハッピーエンドではないんですけどね…」

『そこがまたリアルですよね』


そう、物語の2人はお互いの道を歩く結末を選んだ。恋愛小説においてのハッピーエンドではない終わりに、あまり万人受けしないだろうなと思いながら綴ったが、それがまたヒットに繋がったとのこと。人生なにがあるかわからないものだ。


あの冬の思い出を抱えながら書いたからか、自然と出来上がった作品なので思いも深い。それがこんなにも多くの人に届いていることに、じんわりとあたたかい気持ちが生まれる。


 

『…で、さらに本題なんですけど。槙屋恋愛(みきやれんあい)文学賞ってご存知です?』

「あ、はい。槙屋書店のとこですよね?」

『そうそう、槙屋と文芸誌「風花」が主催のとこです』


確か恋愛小説全般を対象とした文学賞だったので、わたしも知っていた。読者投票で選ばれることもあり、それもあってか話題性も高かった覚えがある。

それが何かあったのだろうか。あれ、まてよ。さっきまで新作の話をしてたはず…。え、まさか。


『そのまさかです!槙屋恋愛文学賞に橘先生の作品が候補になりました!おめでとうございます!!』

「…えっ」


画面の向こうでは笑顔の榊さんが映っている。隣の私の顔は…とんでもない顔をしているが許して欲しい。本当に本当だろうか。嘘なら落ち込む自信はある。


「ま、待ってください。それって今回の作品が…?」

『です!応募締め切りギリギリで間に合いました。まだヒット前だったんですけど、社内会議の結果、ノミネート候補に推薦させてもらいました』

「ええ…!ありがとうございます!」

『いえいえ。まだこれからがありますが、まずは一旦おめでとうございます!』


そのまま榊さんが今後について話し出すのを、必死に耳に留める。授賞発表は11月、授賞式は12月なので、受賞したかどうかがわかるのは10月末から11月頃になるとのこと…今が8月終わりだから、時間がある。うわ、落ち着かないよ…。

あとは周りにはまだ秘密にしておくこと、油断せず次回作もこのまま集中することなど注意事項を受けてこの日の打ち合わせは終了した。


耳からイヤホンを外し,手元の飲み物を勢いよく飲む。ストローでよかった、飲みやすい。


ふぅ、と息を吐く。

小説家スタートとしてまだまだ若輩者で、上手くいかないことの方が多い。自信なんてこれっぽっちもないけど、今日くらいは浮かれてもいいかもしれない。

視界が涙で霞む。あの頃の私、本当によくやったよ。



「…よーし!今日はお祝いだ〜!」



確か冷蔵庫には生ハムとクリームチーズがあったはず。トマトや玉ねぎなども揃ってるし、何かおつまみを作って、この前いいワインも貰ったからそれを開けて…


時間も経ったし、今更かもしれないけど。今日はあの冬の日の私に、乾杯するくらい自分に酔ってもいいかもしれない。ベタな小説やドラマのようなヒロインの姿をなぞると癒える傷も実はあったりするのだ。



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