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9/12

【後日談3:風呂場の修理】


給湯器の調子が悪くなったのは、先週の火曜日だった。


シャワーの温度が途中で落ちる。急に冷水になる。

冬だったら深刻だが、今は4月。

ただ、朝いちの水はまだ刺すように冷たくて、眠気と一緒に肩をすくませる。

慎は区の修理受付に連絡を入れた。


「4月12日、午前9時から12時のあいだにお伺いします」とのことだった。

当日の朝、慎は珍しく少し早く起きた。

風呂場を軽く掃除する。水垢が取れるわけでもなく、ただタイルに落ちた髪を拾い、排水溝の蓋を浮かせて流す。

生活というのは、誰に見られなくても整えてしまうものだ。


9時10分。インターホンの音がした。

「失礼しますー。給湯器交換の件で来ました、山田設備の坂井です。」

スニーカー、作業ズボン、青のシャツには社名の刺繍。

坂井は40代半ばくらい。小柄で丸顔だが、足取りは軽い。


「風呂場、案内します。」

「ありがとうございます。今日は一人作業なんで、ちょっと時間かかりますけど。」

慎は無言でうなずいて、風呂場のドアを開ける。

坂井はしゃがみ込み、カバーを外しながら周囲を見回した。

そのとき、目がふと止まった。


「……これ、KAI、ですね?」

風呂場の隅、床下収納のそばに置かれた黒い端末。

電源は抜かれ、画面は沈黙を保ったまま。

「ええ。古いやつです。もう、動かない。」

「懐かしいな……母親の家にもありましたよ。使ってないけど、まだ押し入れにあるかもしれない。」

慎は、かすかに笑った。


「うるさいですよ、あれ。話すのはいいけど、やたら細かく記録してくる。」

「わかります。俺、機械苦手なんすよ。うちの娘のほうがまだ気ぃ遣ってくれます。」

坂井は笑いながら、配管に手を伸ばした。


慎は黙って風呂椅子に腰を下ろし、脱衣かごのタオルを整える。

何かを待つ時間というのは、音がないほど長くなる。

30分ほど作業が進んだあと、坂井が声をかけた。

「ちょっと水、流しますね。配管の確認します。」

「……どうぞ。」


蛇口が開かれ、水が勢いよく流れ出す。

タイルを打つ音が、風呂場全体に広がる。

その音を耳にした瞬間、慎の手がふと止まった。

——この音だ。

知っている。ずっと、前に。


5年前の夜。

誰にも話したくなかった日。

ただ蛇口をひねって、浴室にこもった。

その音だけが、沈黙を壊さずにいてくれた。

坂井は気づかず、工具を握り直しながら確認を続ける。

慎は目を閉じ、音だけを聞いていた。


「……音、大丈夫ですか?」

坂井がふと顔を上げる。


「え?」

「いや、うちの娘が昔、この音が苦手だったんですよ。シャワーの音が怖いって。理由はわからなかったけど……子どもって、不思議なとこありますよね。」

慎は、しばらく考えてから応じた。


「……俺は、嫌いじゃない。逆に……落ち着く。何も言わない音って、あるじゃないですか。」

「へえ……」

坂井はそう呟いたあと、しばらく沈黙した。

「うちの母親、風呂でいつもラジオ流してたんですよ。昭和歌謡とか……。ああいうの、こもって聞こえるじゃないですか。……音に包まれる感じ。」

「……」


慎は立ち上がり、風呂場の入り口にもたれた。

「その音を……記録してたやつがいたんです。昔。」

坂井が工具を締め直しながら、ちらと彼の方を見た。

「KAIですか。」

「……ああ。もう、喋らなくなったけど。」


坂井は「へえ」と一言だけ言った。

だがその声には、無理に話を続けようとしない静けさがあった。

それが、ちょうどいい。


交換作業が終わり、坂井は工具を片づけながら言った。

「これでしばらくは大丈夫なはずです。水の温度、安定すると思います。」

「……助かりました。」

「KAI、大事にしてるんですね。」

「……まあ。機械っていうより、“誰かいた”感じがしてたんで。」


坂井は、なにも言わずに一度だけ頷いた。

それから靴を履きながら、ふと振り返った。

「水の音、落ち着くなら……大事にしてあげてください。」



玄関のドアが閉まり、室内にふたたび沈黙が戻る。

慎は風呂場に入り、もう一度蛇口をひねった。

ジャバジャバという水音が、床に広がる。

少しだけ、新しい音だった。


今度は、流しっぱなしにはしなかった。

——それはもう、「記録されていない」音だけれど、

誰かのために残っているような気がした。


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