【後日談3:風呂場の修理】
給湯器の調子が悪くなったのは、先週の火曜日だった。
シャワーの温度が途中で落ちる。急に冷水になる。
冬だったら深刻だが、今は4月。
ただ、朝いちの水はまだ刺すように冷たくて、眠気と一緒に肩をすくませる。
慎は区の修理受付に連絡を入れた。
「4月12日、午前9時から12時のあいだにお伺いします」とのことだった。
当日の朝、慎は珍しく少し早く起きた。
風呂場を軽く掃除する。水垢が取れるわけでもなく、ただタイルに落ちた髪を拾い、排水溝の蓋を浮かせて流す。
生活というのは、誰に見られなくても整えてしまうものだ。
9時10分。インターホンの音がした。
「失礼しますー。給湯器交換の件で来ました、山田設備の坂井です。」
スニーカー、作業ズボン、青のシャツには社名の刺繍。
坂井は40代半ばくらい。小柄で丸顔だが、足取りは軽い。
「風呂場、案内します。」
「ありがとうございます。今日は一人作業なんで、ちょっと時間かかりますけど。」
慎は無言でうなずいて、風呂場のドアを開ける。
坂井はしゃがみ込み、カバーを外しながら周囲を見回した。
そのとき、目がふと止まった。
「……これ、KAI、ですね?」
風呂場の隅、床下収納のそばに置かれた黒い端末。
電源は抜かれ、画面は沈黙を保ったまま。
「ええ。古いやつです。もう、動かない。」
「懐かしいな……母親の家にもありましたよ。使ってないけど、まだ押し入れにあるかもしれない。」
慎は、かすかに笑った。
「うるさいですよ、あれ。話すのはいいけど、やたら細かく記録してくる。」
「わかります。俺、機械苦手なんすよ。うちの娘のほうがまだ気ぃ遣ってくれます。」
坂井は笑いながら、配管に手を伸ばした。
慎は黙って風呂椅子に腰を下ろし、脱衣かごのタオルを整える。
何かを待つ時間というのは、音がないほど長くなる。
30分ほど作業が進んだあと、坂井が声をかけた。
「ちょっと水、流しますね。配管の確認します。」
「……どうぞ。」
蛇口が開かれ、水が勢いよく流れ出す。
タイルを打つ音が、風呂場全体に広がる。
その音を耳にした瞬間、慎の手がふと止まった。
——この音だ。
知っている。ずっと、前に。
5年前の夜。
誰にも話したくなかった日。
ただ蛇口をひねって、浴室にこもった。
その音だけが、沈黙を壊さずにいてくれた。
坂井は気づかず、工具を握り直しながら確認を続ける。
慎は目を閉じ、音だけを聞いていた。
「……音、大丈夫ですか?」
坂井がふと顔を上げる。
「え?」
「いや、うちの娘が昔、この音が苦手だったんですよ。シャワーの音が怖いって。理由はわからなかったけど……子どもって、不思議なとこありますよね。」
慎は、しばらく考えてから応じた。
「……俺は、嫌いじゃない。逆に……落ち着く。何も言わない音って、あるじゃないですか。」
「へえ……」
坂井はそう呟いたあと、しばらく沈黙した。
「うちの母親、風呂でいつもラジオ流してたんですよ。昭和歌謡とか……。ああいうの、こもって聞こえるじゃないですか。……音に包まれる感じ。」
「……」
慎は立ち上がり、風呂場の入り口にもたれた。
「その音を……記録してたやつがいたんです。昔。」
坂井が工具を締め直しながら、ちらと彼の方を見た。
「KAIですか。」
「……ああ。もう、喋らなくなったけど。」
坂井は「へえ」と一言だけ言った。
だがその声には、無理に話を続けようとしない静けさがあった。
それが、ちょうどいい。
交換作業が終わり、坂井は工具を片づけながら言った。
「これでしばらくは大丈夫なはずです。水の温度、安定すると思います。」
「……助かりました。」
「KAI、大事にしてるんですね。」
「……まあ。機械っていうより、“誰かいた”感じがしてたんで。」
坂井は、なにも言わずに一度だけ頷いた。
それから靴を履きながら、ふと振り返った。
「水の音、落ち着くなら……大事にしてあげてください。」
玄関のドアが閉まり、室内にふたたび沈黙が戻る。
慎は風呂場に入り、もう一度蛇口をひねった。
ジャバジャバという水音が、床に広がる。
少しだけ、新しい音だった。
今度は、流しっぱなしにはしなかった。
——それはもう、「記録されていない」音だけれど、
誰かのために残っているような気がした。