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【後日談2:支援員のノート】


春の午後。

団地の階段に陽が差し込んでいた。風は穏やかで、どこか遠くで誰かのラジオがかすかに聞こえていた。


「こんにちは……地域生活支援センターです。片山慎さん……お変わりないですか?」

そう声をかけたのは、細身の女性だった。淡い色のカーディガンに、同じ色のノートを抱えている。

呼び鈴を押してから、数秒の沈黙。


しかし、玄関の鍵はゆっくりと回された。扉が15センチだけ開くと、その隙間から無言の目が覗いた。

「……また、来たのか。」

「はい。前回もお伺いした者です。……支援員の尾上です。」

「覚えてる。」

慎は短くそう言って、扉を無言のまま押し開いた。尾上は靴を揃えて脱ぎ、軽く頭を下げた。玄関には、少し冬の匂いが残っていた。


「今日は、特別な用事があるわけではありません。……何か変わったことがあったか、だけ伺えれば。」

「特には。食料はあるし、ガスも止まってない。」

「……そうですか。」

尾上は落ち着いた動作でスリッパに足を入れ、居間の一隅に腰を下ろした。

テーブルの上には、ペンとメモ用紙。そして、A5のノートが束になっていた。

「……これは、ご自身で?」

「うん。まあ……メモ、ってやつ。」


彼は照れたように鼻を鳴らすと、机の角に置かれたノートを一つ手に取った。

表紙には、控えめな字でこう書いてある:


“2月18日:カップ麺に入れすぎたワカメ”

“3月2日:隣のガキが鍵忘れて、廊下で座ってた”

“3月15日:天気予報、はじめて当たった”


尾上は指先でノートをめくった。ページの端には小さな付箋がいくつも貼られていた。

「……記録を取るのは、好きなんですか?」

「好きってわけじゃない。書いとかないと……忘れるから。何食ったかとか、誰が来たとか。あとで探すの面倒だし。」

「……合理的ですね。」

彼女は穏やかに頷くと、ページの付箋に視線を落とした。


“雨の日に聞こえた靴音:上の階、たぶん二人分”

“3月27日 ガス点検の人の一言『この団地、まだ生きてますね』”

尾上は、目だけで笑った。

声を出して笑わないのは、彼女の癖だった。

「“生きてますね”って……ちょっと不思議な言い方ですね。どこか、詩みたいです。」

慎はコーヒーを淹れながら、ぼそりと返した。


「そうか? 俺には、“死んでない”って意味に聞こえたけど。」

その言葉に、彼女はしばらく沈黙した。

「……ええ、そうかもしれません。でも、“死んでない”ことって、とても、意味のあることですよ。」

その声は淡々としていたが、何かを思い出すような陰があった。


二人のあいだにテレビも音楽もなかったが、沈黙は苦ではなかった。

むしろその空白が、互いの言葉の輪郭を静かに浮かび上がらせていた。

やがて尾上は、ポケットから小さなメモ用紙を取り出す。白地に手書きの文字。


“地域カフェボランティア:月曜10時〜12時

雑談・記録・お茶出しなど

誰でも参加可”


「無理にとは言いません。……でも、字を書くのが好きなら。こういうの、合ってるかもしれません。」

慎は手を止めた。

メモを受け取り、しばらく見つめたあと、何も言わずにシャツの胸ポケットへしまった。

尾上はそれ以上、何も言わなかった。


帰り際。

彼女の視線がふと、テレビの横にある黒い端末に留まる。

KAI。すでにコンセントは抜かれ、画面も沈黙したままだ。

「……この子、動かなくなったんですよね。」

「うん。しゃべらなくなった。」

「捨てないんですね。」


慎は目を伏せ、コーヒーのカップを持ち上げた。

「結構うるさかったんだよ、あいつ。……でも、まあ。話し相手としては、悪くなかった。」

尾上は微かに頷くと、ゆっくりと玄関へ向かった。



玄関のドアが閉まり、足音が階段を降りていく。

尾上は最後の踊り場で立ち止まり、小さく呟いた。

「“面白くない”って、自分で言う人ほど……面白いんです。たぶん。」

手に持っていたノートには、彼の名前も主張も書かれていなかった。

けれどそこには、誰にも語られなかった生活が、静かに記録されていた。




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