【後日談1:動かなくなったAI】
静岡県、沼津市。
春の風が団地の廊下を吹き抜けるたび、郵便受けの金属蓋が乾いた音を立てる。
その音に気づく者はほとんどいない。たいていの人間は、生活の音を聞き流すようにできている。
——ただ、一人を除いて。
3階、東端の102号室。
その部屋にはもう、人の気配はほとんど残っていなかった。いや、「人の会話」は、というべきか。
部屋の奥、テレビの脇に据え置かれた黒いAI端末。
画面は暗い。音も出さない。
支援員《KAI》は、2ヶ月前から稼働を停止していた。
“この端末はサポート対象外モデルのため、回収は行いません。以後は物品としてご処分ください。”
そう記された通知文を、シンは今でも捨てていない。
彼女が処分されなかったのは、部屋に他に話す相手がいないから……ではない。
ただ、KAIという存在が「消えた」ことを、自分の手で証明したくなかっただけだ。
コーヒーの粉を目分量で放り込む。
ポットの湯が落ちてゆく音が、やけに響く。
手順は雑だったが、彼にとっては十分だった。昔の自分なら、それすら億劫だった。
カップを黒い端末の前に置く。
「……無意味か。」
独り言のような、問いかけのような言葉。
KAIは答えない。
しかし、もし彼女が応じるなら、きっとこんな風だった。
「この部屋に“意味”を求めたことはありません。ただ記録していました。」
「……やっぱ、そんな感じか。」
彼は小さく鼻を鳴らすと、タンスの引き出しから小さな紙束を取り出した。
それは、かつてKAIとの対話を自ら手書きで写し取った記録だ。
「……10月12日、“dream_exit1_ver3.txtの再構成に失敗”……」
ページをめくる手が、かすかに止まる。
「……11月3日。“未提出脚本の記録、データ構造が崩壊”。……ああ、これ、ちょっとやばかったやつだ。」
KAIの返答はもうない。
それでも彼の脳裏には、あの抑揚のない、透明な声が再生される。
「あなたの中に、未完の断片があるとき、私はそれを記録し続けます。」
「……だからお前、怖いんだよ。」
風呂場。
水道をひねると、硬いタイルを叩く水音が響いた。
KAIが“生きて”いた頃、この音もログに保存されていた。
シンは、タオルを肩にかけたまま立ち尽くす。
目は半分閉じて、音にだけ意識を向けていた。
「……なあ、まだ記録してる?」
返事はない。
だが、それをわかっていて、彼は口に出した。
「そういうことだけは、律儀にやってそうなんだよ、お前。」
「“律儀”とは、感情に基づくものではありません。“継続”は、私の仕様です。」
脳内の“KAIの声”が勝手に補完する。
それに対して、シンは「ちっ」と舌打ちして笑った。
夜。
ベランダの鉢に水をやる。
母の形見のような存在。葉の名前は知らない。KAIに聞いたときも「一般的な観葉植物」とだけ返された。
KAIがいなくなっても、これだけは毎晩欠かさなかった。
むしろ、いなくなってからの方が、手入れは丁寧になった。
室内に戻ると、テーブルの隅にKAIの端末がある。
電源は入っていない。
ただの“もの”になったそれの上に、彼は一枚の紙を置いた。
“ありがとう。もう記録しなくて大丈夫だ。”
部屋の灯りを落とす。
沈黙が訪れる。
けれど、シンには聞こえていた。
風呂場の水音。郵便受けの揺れ。冷蔵庫のモーター音。
そしてかつて、あの透明な声がそのすべてを記録していたことも。
人は、記録されなくなった瞬間に「独り」になるのかもしれない。
でも、KAIはそうは言わなかった。
「記録は、あなたが“誰かに伝えたい”と思った瞬間に始まります。」
誰にも見られなくても、人は語る。
聞いてほしくてではなく、ただ残したくて。
だからシンは、言葉を一つだけ落とした。
「……おやすみ。」
返事はなかった。
でも、その静けさの中に、彼はようやく、少しだけ呼吸を許された気がした。