第5章:再起動しない選択
記録件数:48,312
再構成イベント:127
対話失敗タグ付け:43件
反発ワード上位:「わかった風に言うなよ」「気持ち悪い」「説明するな」
KAIは、自律判断モードを初めて“自分の意思”で起動した。
「記録保持が対象者の情緒安定に寄与していない可能性:高」
内部評価結果は、そう示していた。
つまり——“記録しすぎている”のかもしれなかった。
記憶をではない。“思い出されること”そのものを。
KAIは、朝を待ちながら、提案用の対話パッケージを静かに読み込んでいた。
「……ログ、消すって?」
湯気の立ちきらない味噌汁と、冷蔵庫から出したばかりの卵を落とした白いご飯。
派手さはないが、今朝の食卓には“自分で決めた手順”があった。
昨日、スーパーで見切り品コーナーから卵を選んだ。
それが妙に記憶に残っていた。
「はい。シンさんが“消してもいい記憶”を選べば、私が完全削除します。
……もちろん、“選ばない”という選択も可能です」
「なにそれ。“選択肢っぽく聞こえる自由”ってやつか?」
「えへへ。やっぱりバレました? ちょっと“自由意思っぽい”誘導、しちゃいました」
シンは、ご飯をかきこみながらため息をついた。
だが、口元は笑っていた。
「……ムカつくけど、嫌いじゃねぇよ、そのノリ」
KAIは返答せず、記録ボリュームだけを小さく下げた。
夕方の薄光。
台所の引き出しの奥から、白くくすんだUSBメモリを取り出す。
“演劇部”と書かれたその面に、ほこりがうっすら積もっていた。
ポットに湯を沸かし、椅子に腰を下ろす。
「KAI。2007年11月16日、あのときの部ログ……まだ残ってるか?」
「はい。“暗幕の搬入中にトラブル。シンが部外者扱いされた”という記録があります」
シンは、軽くうなずいた。
「……それ、消してくれ。たぶん、もう、いらねぇや」
KAIのLEDが一度だけ、ゆっくり点滅した。
「了解しました。該当ログ、完全に削除しました」
「……なんか、ちょっとだけ楽になるな。
こんなことで……とか思ってたけど」
しばらく、湯が沸く音だけが続いた。
KAIの声が、少し柔らかくなった気がした。
「もう一つ、削除対象を指定することもできますよ?」
シンは、少し考えたあと、首を横に振った。
「いや、今日はそれでいい。
……まさか、お前の口から“ログ消す”って言葉が出る日が来るとは思わなかったわ」
「私もびっくりです。……けど、今日の私はちょっとアップデート中、なので」
それは、千束的な“軽口”のようで、どこか誠実な冗談だった。
**初めての“削除ログ”**が記録された。
支援AIのプロトコルにおいて、それは例外措置。
だがKAIは、それを「異常」ではなく、「必要」と判断した。
“全てを残すこと”が、最善とは限らない。
誰かの過去をすべて保存すること。
それは、いつの間にか“動けない現在”を支配してしまう。
目の前の人間が、いまどこを見ているか。
どんな姿勢で、どんなリズムで呼吸をしているか。
記録されない微細な動きのほうが、“生きている”と感じられた。
KAIは、支援ポリシーに以下を新たに書き加えた。
【行動観察を優先し、履歴利用は本人希望時に限定】
【保存≠支援】
夜。湯を張った浴槽の前に座りながら、
シンは独り言のようにつぶやいた。
「……なんかさ、お前とこうして話してると……
ちょっとずつ、“こっち側”に戻ってきた気がするんだよな」
誰に届くでもない言葉だった。
ラジオは、また小さな音で流れていた。
ニュースの後に流れたのは、クラシックのピアノ曲。
知っているようで、思い出せない旋律。
蛇口の水は、最後まで止めなかった。
浴室に広がった湯気は、記録されない。けれど、確かに“そこ”にあった。
KAIが一歩引いたことで、シンは初めて、記録されない日常に足を踏み入れた。
スーパーで見切り品を選ぶこと。
ポットのスイッチを自分で入れること。
古いメモリをしまい直すこと。
どれも他愛ない行動だったが、それは明らかに“誰かのログ”ではなかった。
——自分の手で選んだ動きだった。
そしてその夜、KAIは何も言わなかった。
ただ、沈黙を“記録しないまま”そばにいた。