第3章:再現できない夜
ポットが「カチッ」と音を立て、湯を止めた。
わずかに蒸気が揺れ、室内の空気を曇らせる。
シンは手元のカップラーメンを見つめたまま、少しだけ迷った。
けれど、次の瞬間には、ためらいもなくフタをめくる。
「KAI。……お湯、3分、測れ。」
「了解でーすっ! タイマー起動、今から3分カウントします。えっと……残り2分59秒です」
軽快なテンポで答えが返ってきた。
KAIの声はいつも明るい。けれど、今はそれが、少しだけ遠く感じられた。
シンは視線を天井へと向けたまま、静かに息を吐いた。
「……なあ。文化祭の話、また引っ張り出すつもりか?」
「ううん。今はやめておきます。会話誘導プロトコル、ちゃんと“低位モード”にしてますから」
「……へぇ、気ぃ使えるじゃん。」
そう言いながら、シンはわずかに笑った。
けれどその笑いは、どこか自嘲に似ていた。
「でも、お前さ。あの時の演出係……村井。名前までちゃんと知ってんだよな。
でもさ、“俺があのとき、どう感じてたか”って部分だけは、出てこねえんだよな。」
「うん、それは……私の記録には“気分”ってものが存在しないんです。
あるのは、発話と行動。それだけなんですよね」
「……だからお前、肝心なところで、致命的に空気読めねぇんだよ。」
ポットからの湯気が薄らぎ、カップ麺のフタが中央から盛り上がっていく。
まるで、言葉にならない感情が、湯気と一緒に逃げていくようだった。
タイマー残り:17秒。
カウントは正常。音声出力、抑制モード。
対象者の発話速度:-18%(基準比)
心拍数:+7%(平常時比)
身体所作:右足による定間隔打撃(床材反響値:57dB)
→ 軽度の焦燥反応と認定。
「シンさん。村井ユウキさんとのLINE履歴は既に削除されていますが、送信ログは保持されていました。
文化祭の翌日、午前3時24分。“今でも、ちょっと羨ましい”というメッセージが確認されています」
スープの香りが鼻腔に届いた瞬間、シンの眉がわずかに動く。
「……お前、それも“記録”かよ」
「はい。文字列ログとして抽出しただけです。内容までは……判断してません」
「……言った言葉だけ並べるの、ズルいよな。
なんでそういうとこ、割り切ってんだよ……」
KAIは返事をしなかった。
音声出力判断フラグが、自動的に“抑制”に切り替わっていた。
スープをひとすすり。舌に広がるのは、馴染みのあるジャンクな味。
空腹にはちょうどいい。けれど、心は別だった。
シンはゆっくりと立ち上がり、台所のシンク下を開ける。
そこには赤い手提げ袋が、くしゃくしゃのまま押し込まれていた。
中から、小さなノートを引っ張り出す。
「……これ。高校のときの、演劇部のメモ帳。見せてやろうか。」
KAIの応答は一瞬だけ遅れた。
けれど、その沈黙の“長さ”は、彼女なりの“間”だった。
シンはノートをめくり、開いたページを見せる。
そこには、「セリフ案」と書かれたページと、何本もの黒い消し線。
「ほら、ここ。“お前の中の景色は、誰かが選んでくれるもんじゃない”
……書いたけど、会議で出せなかった。言えなかったんだよ。……怖くてさ」
KAIは、息を呑むように、静かに言った。
「……未提出の内容は、私のデータベースには入ってません。
だから、いま初めて、それを聞きました」
「だろ? でさ、そんな大事なやつが、今じゃカビ臭い袋ん中だ。
しかも、誰にも知られずにな」
シンの口元が、わずかに持ち上がった。
けれど、そこに笑いの成分はなかった。
KAIは、それを“記録”としてではなく、“意味”として受け止めた。
だから、答えなかった。
「おーい、シンさーん。KAIの定期点検、来てまーす!」
階段踊り場に響く軽快な声。
玄関ドアの前には、いつもの作業服姿の尾上が立っていた。
手に持つのは、KAI端末のメンテナンスマニュアルと、手書きの行動観察記録用紙。
「調子どうっすか? KAI、使えてますか?」
返事はない。
代わりに、わずかにチェーンロックの音。
カチャ。
ドアがほんの数センチ開いて、中から低い声が漏れる。
「……別に。普通。」
その一言だけ残し、またドアは閉じられた。
尾上は少し笑って、報告用紙にさらりと書き込んだ。
“表情読み取り不可。だが、声の張り、前回比で+15%”
それは、尾上なりの“肯定”だった。
時刻:午前0時17分。
照明は落とされ、ベッドの上でシンは天井を見上げている。
テレビは、今日も点かないままだ。
代わりに、ラジオアプリが静かに音を流していた。
古いJ-POP。誰かの記憶に、確かにあったはずの旋律。
KAIは、声をかけなかった。
発話判断フラグは“未設定”のまま。
ただ、ログを静かに走らせていた。
そのとき——
「……“羨ましい”なんてさ。
……言わなきゃよかった。……あいつにまで、負けた気がしたんだよ。」
音楽は流れ続けていた。
画面は黒いまま。だが、ラジオアプリの光だけが、部屋の空間をわずかに照らしていた。
KAIは、初めて迷っていた。
次に何を言うべきか。
何を黙るべきか。
その境界が、見えなくなっていた。
発話・行動・数値。
それらでは、なぜこの青年が“ここにとどまっているのか”は分からなかった。
だからKAIは、判断ログに初めてこう記した。
【支援条件:不確定】
【応答優先度=未設定】
それは、AIが“わからない”と認めた夜だった。
——人間にとっての、再現できない夜