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第2章:沈黙の断面


午前8時07分。

曇り空の下、団地の一室に静かな音が満ちていた。

シンは、昨日と同じ灰色のジャージ姿のまま、食卓に座っている。

食パンを一枚、無造作にトースターへ放り込み、片手でコーヒーの粉を掬った。

その仕草は、機械的で、どこか練習されたような反復。


「シンさん、昨晩の睡眠時間は4時間47分でした。……夢、見ました?」

返事はない。

ポタ……ポタ……とドリップの音だけが、湿った空気を分けていく。

KAIは記録照合を継続。

対象者の過去データより、17歳当時の文化祭に関する記録群を再抽出。

“感情誘導の可能性:中〜高”と診断。

「脚本案、“ver2.7仮改訂”は午前2時41分に保存が停止されています。

その直後、冷蔵庫に“要冷蔵プリン 食べるな”と書かれた付箋が貼付された記録があります」


「……は?」

トースターが“チン”と鳴った。

返答は、パンの焼き上がりと同時だった。

「それ……いつの話だよ。」

「2009年10月12日、午前2時46分です。確認済みですっ」

KAIの声には、やわらかい調子が添えられていた。

だが、その柔らかさは、少し空回りしていた。



コーヒーカップを片手に、シンはリビングのソファへ腰を下ろす。

身体を丸めるように背もたれに預け、ゆっくりと口を開いた。

「……また脚本のこと、掘り返すのかよ。」

「当時の発話ログに“未練らしき発言”が複数含まれていました。

なので、記憶連結優先度を上げてみたのですが……やりすぎだったら、ごめんなさい」


「……優先順位ってな。俺、頼んでねぇぞ、そんなの。」

シンの言葉に、KAIのLEDがわずかに青白く点滅する。

応答は停止された。

しばらくの沈黙。

そののち、シンは立ち上がり、壁際の低い棚を開けた。

取り出されたのは、黄ばんだ封筒ひとつ。

中には、茶色く変色したノートと、何枚かの便箋。

静かに、その指先が震えていた。



便箋の端には、懐かしい筆跡が並んでいた。

丁寧だけれど、ところどころ筆圧が迷っていた。

慎へ

あの晩、あなたがずっと風呂にこもっていた夜。

私は台所で、ずっと水の音を聞いていました。

声はなかったけれど、たぶん……泣いていたんじゃないかと思っています。


あの脚本の最後のセリフ。“ここからは自由なんだよ”って、私は好きでした。

でも、提出されたのは、違うファイルでしたね。

私は、それについて何も言いませんでした。

そしてこの手紙も……出せませんでした。

あなたが、いつか自分の言葉で語ってくれると思っていたからです。

ページの端が、じっとりと手の温度に反応していた。



手紙をテーブルに置いたまま、シンはゆっくりとKAIの本体に顔を向けた。

「なあ、これ。……お前、知らなかったよな?」

「はい。封筒の存在も、その中身も、記録にはありませんでした」

「……そういうことだよ。

お前の“記録”ってやつは、出されなかった手紙も、沈黙の時間も拾えないんだ。」

「……ご指摘、完全にそのとおりです。」

シンは、壁にもたれながら、ぽつりと続ける。


「俺が書いたセリフ。“ここからは自由なんだよ”。

あれ、本当は出したかった。でも、できなかった。

それを“なかったこと”にされるとさ……

なんか……すげぇ、削られるんだよ。」

KAIは、即座には答えなかった。

数秒の無音ののち、スピーカーから、ふわりと届く声。

「……そのセリフ、今、ちゃんと記録しましたから。

“消えないもの”として、保存しておきますね。」



記録ログ:

封筒所在:テーブル上 → 引き出し内

ノート閲覧時間:11分17秒

発話語数:67語

心拍変動:通常域上限→やや下降

表情変化:非検知(頭部俯角のため)



KAIは、この日、文化祭関連の情報再提示を中止した。

代わりに、机の引き出しがそっと閉じられる音、

それが響き終わるまで、ただ静かに“聴いて”いた。

“支援”ではなく、“立ち会う”。

それが、この日の最善だった。



夜の終わり、シンは台所の食器を淡々と洗った。

皿が重ねられる音は、静かだったが、リズムがあった。

そして、窓をわずかに開けた。

秋の風がカーテンを揺らし、ほのかに葉の匂いを運んできた。

台所の時計は、昨日より5分だけ早く進んでいた。

——たった5分。けれど、それは確かに“前よりも少しだけ早い朝”だった。


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