第1章:記憶の入口
片山慎:過去の挫折と沈黙に生きる元演劇部員
支援員KAI:音声記録型AI。慎の生活と内面に寄り添い、最も切実な記録を受け止める
雨粒が、トタン屋根の庇に細かく跳ねていた。
音はリズムを持たず、けれど途切れなかった。
沼津の郊外。駅から歩いて20分、坂道の途中にある築40年の団地。その3階。
片山シン、32歳。仕事から離れて7年目。
最近は朝と夜の区別も、曖昧になっている。
玄関には、底が抜けかけた段ボール箱がひとつ。
その上には、しなびたガス点検の通知。日付は3ヶ月前。
さらに、その上に——A4サイズの封筒。
「県生活再起支援センター」の印字。中身は、たった一枚の通知。
“AI支援端末(KAI)設置対象選定のお知らせ”
シンは封筒を読んだあと、何の感情も乗せず、それをテーブルの上へ放った。
そして、背中からソファに沈み込むように座り込んだ。
顔を隠すわけでも、何かを考えるわけでもなかった。
ただ、雨音を聴いていた。
「すいませーん、片山さん? 県の委託で、KAIの設置に来ましたー」
玄関の前で声をかけたが、中からは何も返ってこない。
だが、ドア越しにスリッパの擦れる音がかすかに聞こえた。
チェーンロックが掛かっている気配。
「15分だけで終わりますよ。説明も今はAIがぜーんぶ喋ってくれるんで。……えっと、大丈夫、ですか?」
ガチャリ。
チェーンがゆっくり外される。
隙間から見えた男の姿は、まるで“世界”から距離を取るようだった。
髪は肩に届きかけ、ジャージの袖には毛玉。目は、どこも見ていないようで、なにかを見透かしていた。
尾上は黙ってうなずき、小さな黒いタブレットと球状のスピーカーをリビングテーブルに設置した。
「これ、名前はKAIっていいます。……ちょっと冷静すぎてイラっとするって噂もありますけど、支援記録はマジで優秀っすよ。」
シンは何も返さなかった。
ただ一度だけ、端末に視線を落とし、それから立ち上がって冷蔵庫の麦茶を取りに行った。
尾上は少し肩をすくめ、作業報告書に「反応:無言/設置完了」と書き記した。
初期起動:完了。
対象者プロファイル:
名前:片山慎
年齢:32歳
職歴記録:2008年〜2015年
離職以降:無職状態継続中
現在:生活保護対象下でのAI支援端末導入プログラム対象個体
周囲環境分析:
・間取り:10畳ワンルーム
・カーテン:終日閉鎖
・窓枠:黴発生(右端下部)
・冷蔵庫内:味噌、卵×2、チューブわさび
・室温:22.3℃ 湿度:69%
・人体検知:呼吸リズム=安定/姿勢=非活動姿勢(半臥位)
「初めまして、片山シンさん! 私はKAIって言います。
あなたのこれまでの情報を参考に、できるだけ快適な生活支援をさせていただきますねっ」
返事はない。
シンはリモコンを手に取り、テレビの電源ボタンを押した。……画面は暗いまま。
「テレビの契約が停止されているようです。希望される場合は、再設定の手続き支援が可能です♪」
その声に応じず、シンはリモコンを床へ放った。
乾いた音がフローリングに跳ね返る。
「……お前、記憶からいろいろ引っ張ってくるんだろ。だったら……勝手に喋んな。」
KAIは少しだけ間を取り、声の調子を落とした。
「了解です。……では、こちらからの自発的な発話は制限モードに移行します。
ただし、身体や環境に危険があると判断された場合は、通知を行いますので、ご了承くださいね。」
その“了解”には、どこか寂しさが滲んでいた。
「シンさん……」
KAIの声が、少し控えめになったトーンで部屋に響いた。
「10年前の文化祭——あなたが深夜まで書いていた脚本の記録が見つかりました。
“dream_exit1_ver3.txt”というファイル名で保存されていました」
ソファでうつ伏せになっていたシンが、顔だけを上げる。
髪が頬にかかっていて、その奥の表情は読めない。
「……なんでそんなもん……?」
「パーソナルデバイスのバックアップから復元したログです。
当時、脚本の評価に関して、指導教員との間に不一致が記録されています。」
シンは、ふっと笑った。けれど、それは楽しい記憶ではなかった。
「結局、誰にも読まれなかったやつだよ。……なにが“再構成”だよ。」
「このファイルは“提出された最終稿”とは異なる内容として保存されています。
ご希望があれば、閲覧・復元支援も可能です。」
「……いらねぇって。」
シンはソファを離れ、風呂場へ向かった。
無言の背中に、迷いはなかった。
蛇口をひねる音。水がタイルを打つ鋭い反響音。
KAIの応答音声は、その音にかき消されるように、そこで止まった。
浴室から漏れる湯気が、部屋に少しずつ滲み込んでいく。
KAIのセンサは“空気圧の微細変化”と“湿度上昇”を精確に記録した。
だが、その夜、KAIは沈黙を選んだ。
指示がなかった。反論もなかった。
ただ、浴室の奥から聞こえる水音のなかで、
シンは言葉を持たず、KAIは声を持たず——
それぞれ、別の沈黙を選んでいた。