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天使の手違い

作者: 雉白書屋

「ここは……じ……じご……」


 ショックのあまり、男はその先の言葉を継ぐことができなかった。

 落ち着こうと大きく息を吸い込む。だが、鼻腔を突いたのは血と汗、雑巾、硫黄、吐瀉物、糞、そしてプラスチックを焼いたような強烈な臭い。喉に絡みつくその悪臭に、男は思わずむせ返った。

 沁みる目をこすりながら周囲を見渡す。赤黒い地面から、ところどころ煙が立ち上り、空はどこまでも曇り、重く垂れ込めていた。絶え間なくこだまするのは、苦痛に苦痛に満ちた叫び。

 男は自分が置かれている状況を完全に理解した。いや、認めざるを得なかった。


 ――間違いない。ここは地獄だ。


 込み上げてくる無念は、交通事故で命を落としたこともさることながら、それ以上に、自分が地獄に落とされたという事実だった。

 犯罪に手を染めた覚えはない。胸を張って善人だと言い切れはしないが、悪人でもなかったはずだ。それなのに、なぜ。

 人は生まれながらにして罪深いというのか。生きることそのものが罪なのか……。


「あの」


 他の生き物を食らい、踏みにじり、偽り、発展と称して環境を破壊し――


「あの!」


「え? あ……」


 男は驚き、またしても言葉を失った。頭上からの声に顔を上げると、そこにいたのは白い光をまとい、ふわりと空中に浮かぶ存在――天使だったのだ。

 天使は柔らかな羽音とともに男のもとへ舞い降りると、申し訳なさそうな顔をして、ぺこりと頭を下げた。


「ごめんなさい。こちらの手違いで、あなたを地獄に送ってしまったようです」


「え、手違い……? じゃあ、おれは天国に行けるってことか?」


「はい、もちろんです。ただ、手続きが完了するまで、少々お待ちいただけますか?」


「ああ、待つ、待つとも! ははは!」


 途端に表情が緩んだ。男は天使を見送ると、上機嫌で鼻歌を口ずさんだ。重苦しかった地獄の雰囲気も、今ではどこか趣があるように思える。鼻をつくこの臭いも、慣れれば悪くない。むしろ癖になりそうだ。

 地獄観光ツアーなどないだろうし、せっかくだから今のうちに少し見物しておくか。いい土産話になるだろう。

 そう思いながら男は周囲を見回した。すると、思わず肩をびくりと揺らした。

 いつの間にか、地獄の住人たちが周囲に集まっていたのだ。

 ぼろ切れを身にまとった、ほとんど全裸の者たち。骨が露出している者や眼球のない者、剥きかけの野菜のように皮膚が剥がれ、ひらひらと舞う者、その剥がれかけの皮で股間を覆う者、焼け爛れた者、臓器をこぼさぬように抱え込む者……。

 かろうじて人の形をした彼らは、一様に男を見ながらじりじりと距離を詰めてきた。


「な、なんだよ……なんなんだよ……」


 男は震えながら後ずさりした。やがて、群れの中の一人が前に進み出て、意を決したようにこう訊ねた。


「あ、あ、あんた、さっきの天使と何を話していたんだ?」


「え? ああ、見られてたのか……」 


 異様な空気に圧倒されていた男は、会話ができるとわかり、少しほっとした。

 だが、どうしたものか。正直に「手違いで地獄に送られた」と話せば、妬まれて酷い目に遭うかもしれない。ならば……。


「じ、実は、私は天国から派遣されてきたんだ。ちゃんと反省しているかどうか、調査するためにね。改心した者には、恩赦が与えられることになっているんだよ」


「お、恩赦って、まさか……」


 男はゆっくりと頷いた。


「もちろん、天国行きのことさ。見られてしまったから正直に話したが、このことは内緒だぞ」


 その言葉を聞いた瞬間、住人たちの目が一斉に輝いた。そして、次々と男にアピールし始めた。現世での悪行を懺悔涙ながらに許しを乞う。これまでに受けてきた責苦をおどろおどろしく語った。

 男は必死に愛想笑いを浮かべ、話を聞き続けた。男のその反応に手応えを感じなかったのか、やがて、一人が叫びながら自分の目玉を抉り出した。


「ひひっ、い、いてえ、で、でも、わたしのような者に、目玉なんていりません!」


 そう言い、引きつった笑みを浮かべた。次の瞬間、住人たちは競うように自傷行為を始めた。

 自分の腸を引きずり出し、それを口から飲み込んでは、再び腹から引っ張り出す者。陰茎をもぎ取り、尻の穴にねじこむ者。

 すべての手足を捻りちぎり、肉塊と化しても住人たちは蠢き続けた。落とした肉片はナメクジのように地面を這い、眼球はじっと男を見つめる。住人たちは止まることなく、自分を罰し続けた。潰れた頭蓋から脳みそをほじくり出し、豆まきのようにばら撒き、傘を開くようにあばら骨を押し広げ、大腸を鞭のように振るって自分の尻を叩き――。

 その狂気の宴に、男はよろめいた。だが、だんだんと、その光景が演芸大会のようにも思えてきた。引きつった笑みがこぼれ、やがて男は声を上げて笑った。


 ――アア、地獄に咲くは、真っ赤な菊の花。どれだけおっぴろげても、天国の門は開かれず――




「あの、お待たせしました。手続きが完了しましたので、天国にご案内します」


「お、ああ、そうか、早かった……かな? 時間の感覚がないよ。ははは」


 再び舞い降りた天使にそう告げられ、男はほっと息をついた。

 そして、天使が差し出した手を取ろうとした。そのとき、天使の眉がぴくりと動いた。


「あれ? おかしいですね……あなたの行き先が地獄になっています」


「え? いや、だから、それは手違いで」


「いや、そうではなくて……あ、もしかして最近、嘘をつきましたか?」


「いや、まあ、それはその……もしそうだとしても、それが何か関係があるのか?」


「ありますよ。だってあなた、もともとギリギリで天国行きの判定でしたから。そのため、手違いが起きたんです。でもまあ、これで確定です。今後は正式な地獄の住人としてお過ごしください」


 天使はそう言い残し、スーッと天へと戻っていった。


 死屍累々の中に取り残された男へ、地獄の住人たちの手や目玉、足、臓器、頭部がにじり寄る。

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