月の子(プロット)
「聞こえるか?」
目を閉じ、じっとしている少女。
十歳になったばかりの少女の名はキンナラ。
黒髪を一本に束ね、美しい眉根を寄せ、懸命に何かを探ろうとしている。
キンナラは精神を集中させ、微かな気配を掴もうと必死だ。
キンナラに声をかけたのはナーガだ。
ナーガは長身で浅黒い肌をもち、切れ長の目が特徴的な少年。
ここにいる子供らの長だ。
十二歳になる。
ナーガの問いにキンナラは答えない。
その額にはじっとりと汗が滲んできた。
大きな洞窟の中で、二十名ほどの子供らがキンナラを取り囲み、胡坐を掻いている。
かがり火の明かりが、深い影と橙色の明を持ってそれを見守っていた。
「呼んでる……兄さん達が……呼んでいる」
やがて苦しそうに顔を歪めながら、少女は重い口を開く。
キンナラの汗は首筋から服の合わせの中へヒトヒトと落ちていく。
周りの者たちはじっとキンナラの言葉に耳を傾け、全員がキンナラへ向けて両手をかざした。
空気が一層熱を帯び、洞窟の中に少しずつ気が充満していく。
じりじりとした熱を割り、青白い光が少しずつ繭玉のように子供らを包みこんでいく。
子供らの体から放たれる青い光。
ゆっくりと、生き物のようにくねりながら、その範疇を広げていく。
大きな大陸の小さな国に住むこの子供達は、家族と離れてこの洞窟での生活を強いられていた。
小さな国の名前はテイベット。
畑を耕し、山羊を追い、高原の豊かな自然と共に暮らす人々。
自然の神を信仰し、穏やかな日々をひっそりと送ってきたこの国は、今は無くなってしまった。
隣にある大国、テーベがテイベットを欲しがり、圧倒的な武力で押さえ付けたからだ。
それは突然の出来事だった。
狂ったような馬の嘶きがしたかと思うと、鎧を身につけた鈍色の大群がテイベットの村を駆け抜ける。
村人が何事かと顔を出した端から、容赦なく太刀が振り下ろされた。
瞬く間に阿鼻叫喚の地獄絵が広がる。
鮮血と怒号の中、大人たちは必死で子供らを急きたて、散り散りに逃げ惑う。
家々には火矢が放たれ、轟々と唸る炎に包まれていく。
ザックリと空を切り冷ややかな音を立てながら、鋼の切っ先は容赦なく女子供からもその声や体温を奪い去った。
黒々とした血痕が道端に散り、地面に濁点を浮かび上がらせる。
生臭い風が血の臭いを連れて啼きながら谷へと墜ちていく。
ザシュッ。
「がっ……」
「父さん!」
背中から胸まで長く重い槍で貫かれた男は、がっくりと跪き口から血を吹き出した。
みるみるうちに顔が青ざめ、死の影が男にしがみつく。
男は声にならない口を動かし、己の息子に逃げろと告げる。
ガクガクと震えたかと思うと、再び大量の血を吐き、息絶えた。
「父さん!」
屍に縋りついた少年の名はナーガ。
少年は父親を殺した馬上の男を睨みつけた。男は素早く馬から降り立ち、この少年の鳩尾を打ち付けると、馬の背に乗せ、西へと疾走した。
大量の虐殺、そして拉致が横行した。
女は売られ、慰み者になる。
捕らえられた子供らは、大人と同じ強制労働と拷問を受けた。
ナーガは暗く、黴臭い穴の中で、背中に鞭を浴びせられていた。
歯を食いしばるも、あまりの痛みに何度も気を失う。
「お前はムンチャだろう? 正直に口を割って楽になれ」
ナーガは首を振る。俺は違う! と何度も何度も首を振った。
「そうか、強情だな」
嗜虐を最上の喜びとする目の前の屈強な男はニヤリと黄ばんだ歯を見せた。
ナーガは半裸のまま、虚ろな瞳で男を見る。
切れ長の美しい瞳は晴れ上がり、顔つきは歪んでいた。
口から泡を吹き、許しを乞う。
男はナーガの悲痛な懇願を無視し、その指先の爪の間に鋭い針を刺し込んでいく。
──!
ナーガは絶叫した。
焼ける、体が焼ける。いっそ殺してくれ!
ナーガは必死で神に祈る。父を思い、母を思う。
そして自分達、テイベット民族の父、ヴァジュラ=ダラを思う。
あああああ、俺は、俺は……もう、もうダメだ……。
それでもナーガは口を割らなかった。ダラの教えを守り、黙秘を続ける。
僅か十歳の少年の体を、下卑た大人どもの残虐な仕打ちが破滅へと追い詰めていく。
拷問に耐え切れず、仲間は何人も目の前で死んでいった。
あるものは潰され、あるものは切り裂かれ、大人も子供も容赦なく葬り去られた。
免れたものは強制労働と陵辱の日々。いずれにせよ悲惨な死が待っているだけだ。
ならばいっそこのまま神のもとへと、自ら舌を噛む者も少なくなかった。
しかし、ダラの教えは「天に召される時は神が決めるもの」である。
自ら死を選んではいけない、どんなに苦しくとも最後まで、その時を迎えるまで、魂と繋がっていろと言う。
ナーガの心も体も限界を超えていた。
ああ、ヴィジュラ=ダラ!
ダラの名前を絶叫すると目の前に黒い深淵が現れた。やっと迎えに来てくれたとナーガは思った。薄れゆく意識の中、この深淵に飛び込めばいいのだと。
鬱とした水面からゆっくりと何かが浮かび上がる。
漆黒の龍。
巨大な黒龍は天を仰ぎ、鋼よりも堅固なその髭を震わせ、吼えた。
風を煩そうに払い、大きく雄大な弧を描きながらナーガの中にするりと潜り込む。
同時にナーガの体からは痛みが嘘のように消え去った。
ナーガは驚いたが即座に適応し、気を失った振りをした。
男共は唾を吐き、少年の体は暗い穴にそのまま置き去りにされた。
ついに一言も発しなかった。自分がムンチャであることを。
やがて少年は胸の内の龍神の声に導かれ、壮絶な逃亡劇の末、仲間のもとへと生還したのである。
大国テーべがテイベット欲しがる表向きの理由。
それは国内の少数民族が独立を望むようになり、それを阻止するための見せしめだった。
テイベットは神の郷と呼ばれ、それまでの将軍の時代、独立した権限を持つ国内の中の小国だった。
しかし、近隣の民族達が現在の将軍の暴君ぶりにみな独立を叫び始めたのである。
現将軍は広大な地域が失われることを危惧し、それを扇動しているとしてテイベットのヴィジュラ=ダラを捕らえようと躍起になった。
真の理由はまた違った。
将軍はテイベット民族の持つ力を恐れながらも欲し、従わないものは虐殺していった。
将軍が狂おしいほどに欲したもの。
テイベットの民族は自然の中の精霊と通じ、神と通じ、その不思議な力とともに共存していた選ばれし民であったから。
その力を収めたい将軍は何度かダラと接見した。
しかしいつもその答えは同じ。
「我々は何人とも戦わない。あなたの国の軍力の一つになることは神が許さない」
痺れを切らした将軍は強行手段に移るのに、さほど時間はかからなかった。
強大な大国の力をもって、少数の民族をねじ伏せることなど容易い。
厄介なのはこの民族の精神力の強さだ。
拷問し、虐殺していく中で、大国の兵士の数人は、テイベットの民の死に行く様に身震いするほどの恐怖を覚えたという。
その一途なまでの強靭な精神力をまざまざと見せ付けるものが少なくなかったからだ。
真直ぐに天を仰ぎながら散ってゆくその姿は心に暗い影を煽り潜んでくる。
死してなお生きると錯覚させる。そして兵士は突然に罪の意識と恐怖に苛まれるのだ。
ナーガが行きも絶え絶えに仲間のもとに辿りつくと様子は悪化し一変していた。
生き延びるために民を分け、四方八方散り散りに逃げることに決めた。
そしてさらにムンチャと呼ばれる子供達も分けられ、それぞれの集団を導いていく。
月の子と呼ばれるテイベットの子。
天に選ばれし子ら。
将軍が欲しがる最たるものはこの子らだ。そして最も畏れるもの。
テイベットの民は皆、その能力の段階は様々だが自然界と通ずることが出来る。
そして生まれる子供らの中に、さらなる特殊な能力を持つものが現れる。
ムンチャと呼ばれ、その子らは十八を迎える日まで、その能力を使うが、十八を迎えるとさらにその中から選ばれし者のみが天の子となる。
それ以外の者は、自然とその能力が鳴りを潜めるのだ。
ブラフマーから最終的に一名がヴィジュラ=ダラの名と使命を継承する。
将軍は噂に聞くこのムンチャとブラフマーの力を我が国、我が物にし、他国を手中にすべく攻め入りたいのだった。
テーベのムンチャ狩りは執拗だ。
すでに数名はムンチャと名乗りはせず、拷問の挙句に命を落としている。
テーベの軍隊はティベットの子供とみれば無差別に連れ去り、拷問にかけて行く。
ナーガの率いる集団はさらに散り散りとなり、大人達はムンチャを守るべくその身を盾とし、散っていった。
今この洞窟には数名のムンチャだけが身を潜めていた。
キンナラは歌の上手な少女。そして最も優れた精神遠隔感応を持つ。
彼女が探っているのは、ヴィジュラ=ダラを護衛し、西方の同盟民族のもとへと進んでいる四人のブラフマー達の声だ。
ブラフマーの一人、ヴァイシュラの声を必死で受け取ろうとしている。
キンナラの顔は紅潮し、息遣いが荒くなる。
遠く彼方から微かに送られるヴァイシュラの思念を読み取ろうと集中しているのだ。
やがてキンナラは目を開け、息を弾ませながら途切れ途切れにナーガに伝えた。
「兄さん達は、応援を必要としている。名前を告げるわ。その者は西へ向かって。残ったものはテイベットの生き残った民を必死で守るしかないわ」
キンナラは数名の者の名を告げる。
「ナーガ……あとはナーガの判断に任せるって。兄さん達が言っている」
ナーガはきつく目を閉じる。
ダラの教えは何人の命を奪ってはいけない、何人とも戦ってはいけない、しかし、もう逃げるばかりではどうにもならなかった。
そして他の集団にはまだ幼い子供達も残っている。
相手を倒すしかない……ナーガは困惑する。ダラの教えを守るには何人とも戦ってはいけない。
キンナラに名を呼ばれた者達が立ち上がった。
「もしも、命運尽きる時は」
キンナラがヴァイシュラの思念をさらに読み取る。
「このテイベットのシアンセンの地に還れ!」
皆が無言で頷いた。どの顔も固い決意に満ちている。
この洞窟の最年長者は十二歳、まだ幼さの残る顔ばかりだ。
しかし過酷な運命を受け入れ、神と共にこの地と仲間を守るという強い誓いを立てる。
意志の漲るその表情を、かがり火がゴゴと音を立てながら朱に照らす。
名を呼ばれた者達は、洞窟の入り口付近に立ち並んだ。
山頂近くにあるこの洞窟への道は無い。断崖絶壁にあるからだ。眼下に広がる木々が風に揺られざわめいている。
月が昇っていた。
孤高なる月の光はさらさらと零れ落ち、群青の宙海に浮かんでいる。
「気をつけろ。願わくばもう一度、生きて会おう」
ナーガが声をかけると、入り口に立った子供らは頷いた。
カッと音を立て、爪先を蹴り上げる。
軽々と風に乗り、群青の宙へ浮かび上がる。
断崖絶壁の向こうへムンチャ達は飛んでいった。
月の子は月の光の恩恵を受け、風を連れて空を翔ける。
西の方へ向かい、飛び立っていった。
「生きて、また会おう」
ナーガは呟いた。
心に潜む黒龍の影がざわりと蠢く。
日を重ねるごとに、大国の侵略は激しさを増す。
生きながらの地獄を皆が味わう。
「いやあ!」
キンナラは突然悲鳴を上げて地面に突っ伏した。
その場に居合わせたものは皆俯き、唇を噛む。
仲間の命の火が消えたことを意味するからだ。
くる日もくる日もキンナラの叫びは続く。
しかし、少女は必死に耐えていた。
仲間の最後の叫びは、身を切られるように辛く苦しいことだが、自らを閉じることはしなかった。
最後の最後まで、仲間の身を案じ、守ろうと、そのか細い体で戦っていたのだ。
「光が飛び交っている」
ヤクシャが呟く。
ヤクシャも十二歳、銀色の髪と瞳を持つ。
この少年は死んだ者の魂の行方を見定めることができるのだった。
「皆の魂光はまちがいなくシアンセンの地へ……そこへ埋もれていっている……」
深いため息とともに焦燥感に煽られ、ナーガは目を閉じた。
このままでは皆殺しにあってしまう、心身ともに限界が来る。
泣き声が出ないように歯を食いしばっていた。
どうしたら…どうしたらいいのか。ナーガは不安に駆られる。
「来る! すごい、すごい数よ! 今までに無い程の大群が来る!」
キンナラが絶叫した。
恐怖で顔が引き攣っている。
思った以上にてこずらせるこの小さな国に痺れを切らしたテーベが、他国に攻め入っている軍隊まで呼び戻し、国力のすべてを投じた最強の大群をテイベットに向けたのである。
その数は数十万。テイベットの民よりも遥かに多い。
将軍の執拗さと狂気に子供らは戦慄を覚えた。
どうしてこんなことになるんだ。
俺達はただ自然と共に生き、神と共にそこに暮らしていただけだ。
なぜだ? なぜこんなむごい仕打ちを受けなくてはならないのだ。
──行け。
ナーガの心に突然、黒龍の声が響いた。
はっとして顔を上げる。
──行け。お前は私と共にある。一時たりともお前と離れることは無い。
黒龍はその大きな体をくねらせ、天に向かって咆哮する。
──よいか、戦うのではない。
ナーガは緊張し、黒龍の声にじっと耳を傾ける。
──守るのだ。
黒龍の周りに風が纏わりつき、轟々と音を立て、火柱と水柱が一つになり噴きあがる。
ナーガは驚愕した。自分の中で何が起こっているのかわからない。
──行け! 守るのだ!
洞窟の中を見渡す。
仲間の顔は青白かったが、みながナーガの言葉を待っていた。
ヤクシャ、死人の魂を守る少年。ガルーダ、悪霊から魂を守る少年。ヴァルナ、水の精霊と通じ、水の神の心と通う少女。スーリヤ、太陽と通じ、光と心通う少女。ヴァーユ、風と通じ、風を自在に操る少年。そしてキンナラ、魂の声を聞く少女。
ナーガは、今残っている仲間の顔を見渡した。
「行くぞ。俺達は最後まで守り抜くんだ。この地を離れないぞ」
ナーガの声に皆が頷く。
黒髪と切れ長の瞳が美しい、龍神と通じる少年。
洞窟の入り口に七人の少年少女が立ち並ぶと、かがり火はゴゴッと啼き、静かに消えた。
一斉に空を切り、飛び立っていく。
風と月光を味方に、群青の海を泳ぐかのように飛んでいった。
この小さな国を見渡す事の出来る小高い丘へと降り立つ頃、月は沈み、太陽が昇る。
雲ひとつなく、風も穏やかで美しい碧空が広がっていた。
少年達は静かに待った。
その時をじっと待っていた。
そのうち轟音と共に真っ黒い一本の線のようなものが砂煙の中に現れる。
テーベの大群が馬を駆り、凄まじい勢いで近づいてきた。
まるで夜が徐々に地上に張り付くかのように、あっという間に地面を埋めつくす。
「いいか、皆! 俺達は、この国を最後まで守る!」
ナーガの凛とした声はこの国の空間に響いていく。
子供達は顔を見合わせ、頷いた。
真っ黒な大群が津波のように押し寄せてくるのをじっと睨みつけている。
「シアンセンの地で、また会おう」
ナーガは大群を見つめたままニヤリと笑う。目の前で漆黒の龍が唸りをあげていた。
テイベットのムンチャ達はたったの七人。眼下には数十万の兵士。
怒号が迫り、馬達は狂ったように嘶いている。
「行くぞ!」
七人の少年少女は、碧空に向かい一斉に踵を蹴り上げる。太陽に近づくかの如く天を舞った。
そして覚悟を決め、真っ黒な夜の海の大群の中へと身を投じていく。
やがて光の矢がシアンセンの地に向かって飛んでいった。
この地に眠る光は、何十年、何百年の歳月を経て、膨大なエネルギーへと変っていく。
時は流れて、この地はシセンとその名を変えていた。
ムンチャの目覚めがやがて訪れる。
何も知らずに寝静まる街。
長い長い眠りから、黒龍は目覚めようとしていた。
その長い身体に、少しずつ気が満ちていく。青白い光がゆるゆると立ち昇り黒龍のすべてを覆い尽くす。
ズズズッ。
大地が少しずつ騒ぎ始める。滑る、唸る、唸る。
ズズズッ。
黒龍はその目を開けた。手足に力を込め、頭をもたげる。
ズズズズズッ。
大きく開いた口からはシャアッと音を立てて呼気が漏れた。
ゆっくりとゆっくりとその身体を伸ばし天を仰ぐ。
ズズズズズズズ!
ゴゴォォォ!
激しい地鳴りと共に地響きが大地を襲う。 沈む、揺らぐ。
ガガッ!
狂いながら嘶く馬のように、土は唸り、弾け、一瞬にしてその姿を変えていく。
シセンの地は一瞬にしてひび割れ、轟音と共に崩れ、沈んでゆく。
彼の地に住む人々は大地に呑まれ、裂け目に落ち、瓦礫に潰されていった。
その屍は、かつて拷問の果てに殺された、テイベットの民の姿に酷似している。
恐怖と絶望の叫びが地鳴りに掻き消されてゆく。
黒龍はその身体を震わせ天を仰ぐ。
月光が誘う道筋を一睨みすると、ゆっくりと上昇していった。
群青の闇の中、大地に暗い影を落とし、月光へ向かって翔け昇る。
やがて煌々と謳う月に呑まれ、消えていった。
了