38.
暗いリビング。窓のカーテンは閉められていて、外からの光は一切通さない。
今が何時かもわからない。何日かも、わからない。
私はリビングの床に座り込んで、アムルの首を抱えていた。
冷たく、硬い、彼女らしくない体温と肌。髪の毛も以前ほどサラサラではなく、少しベタついている。
右手で髪の毛をすくって、左手で頭を撫でる。
何も言わない。何も言ってくれない。当然、死んでいるのだから。
私はため息をつく。一度、二度、三度、ため息をつく。
頭がボーッとする。視界は靄がかかったようにぼやけている。
もう涙は出ない。出し切ってしまったらしい。
なのに口からよだれは垂れている。ボーッとしているから? どうでもいい。
すると、限界を迎えたのか、よだれは私から離れ、アムルの頭に一滴、落ちてしまった。
私はすぐに近くのティッシュを手に取り、それを拭き取る。
心の中でアムルに謝って、ため息をつく。
いつもだったら、こんなに汚い行為でも彼女は笑って喜んでくれたのだろうか。
ふと、右腕を見る。怪我をしていなければ、何も持っていない右手。普通の、ごく普通の状態の右腕。
アムルがいつも抱きついてきた右腕、抱きついてきてくれた右腕。
今は何もない。じゃあこの右腕、何の意味があるの?
私は右腕から視線を移し、アムルの可愛らしいつむじを見てから、彼女を持ち上げ立ち上がる。
足音を立てずに、地面をしっかり踏み込んで、彼女を落とさないように移動する。
目的の場所に着いたら、アムルをゆっくりと床に置いて、私は奥の方にあるクーラーボックスを手にとる。
取手を持って開けると、中にはたくさんの飲み物と保冷剤。私は飲み物だけを取り出し、アムルを手に持ってクーラーボックスの中に丁寧に、入れた。
安らかな表情をしているアムル。私はそんな彼女を見て少し笑みを浮かべ、クーラーボックスを閉じた。
取り出した飲み物を一つ手に取り、蓋を開けてそれを一気に喉に流し込む。
勢いよく飲みすぎて、うまく飲み込めなくて、咳が出た。
飲み終えたら空になった容器を投げ捨て、私は這いながら寝室を目指す。
冷たい床、汚らしい廊下。そこを通って、私は必死に寝室を目指す。
寝室に着いた。私は壁に手をつきながら、ゆっくりと立ち上がった。
そして、アムルがいつも使っていた布団を敷き、そこに顔から落ちて寝転ぶ。
匂いがする。アムルのいい匂い。甘くて、けれど時折鼻を刺すような強い匂い。
毎日彼女が寝ていた場所。一度も洗濯をしていないから、彼女の髪の毛がそこらに落ちている。
私はそれを一本手に取り、指でいじる。真っ直ぐに伸ばして見たり、くるくる指に巻いてみたり、口に含んでみたり。
そのまま、持っていた髪の毛を飲み込んだ。味はしない、喉に絡みついて、うまく飲み込めないけど、唾をうまく使って、何とか奥へと追いやる。
私はゆらりと、力無さげに立ち上がって、キョロキョロと辺りを見渡す。
ふと目に入ったパジャマ。ハンガーにかけられているパジャマ。一つはハッピーのもので、もう一つはアムルの。
私はゆっくりとそれらに向かい歩き始め、アムルのパジャマを手にとる。
そしてそれを鼻に近づけ、思いっきり息を吸い、匂いを嗅ぐ。
残っている。アムルの匂いが。私はアムルのパジャマを両手でぎゅっと握りしめ、そのまま彼女の布団に倒れた。
鼻をすんすんと動かし、パジャマの匂いを嗅ぐ。布団よりも強く匂いが残っている、気がする。
パジャマのありとあらゆる部分を嗅ぐ。脇の匂いも、秘部の匂いも、髪の毛の匂いも、ほんのわずかだが残っている。
まるで、アムルそのもののように、匂いが残っている。
だけど匂いだけで、パジャマは私を抱きしめてはくれないし、肌の温もりも感じなければ、心臓の鼓動も感じない。
当たり前、当たり前のことだけど、私は疑問を抱く。
なんで抱きしめてくれないの?
どうして柔らかくないの?
何故何も言ってくれないの?
こんなにも、アムルの匂いが残っているのに──
涙が出てきた。違う、正確には一滴も出ていない。もう、出しすぎて枯れてしまったから、涙が出たという感覚だけを感じている。
ため息をつく。それと同時に目を閉じる。
匂いがする。アムルの匂いが。
匂いだけがする。匂いだけが残っている。
私はゆっくりと目を開ける。アムルの匂いがするのに、添い寝している時と同じ匂いがしたのに、私の横にいたのは脱ぎ散らかされたパジャマだけ。
パジャマしかない。パジャマしか見えない。パジャマしか触れられない。
私はそれをぎゅっと握りしめ、再び自分の顔に近づける。
する。アムルの匂いが、だけど。
匂いに慣れてきてしまったのか、どんどん匂いが薄くなっている気がする。
私はもっと、もっともっともっと強く匂いを感じるために、パジャマに鼻を押し付けた。
この匂いを離したくない。せめてこの匂いだけは感じていたい。そう、強く願う。
目を閉じて、必死に鼻で息を吸って、彼女の匂いを求める。
知りたくなかった、この匂いを。感じたくなかった、彼女を。
知り合わなければ私は、こんなにも苦しまずに済んだのに。
彼女と出会わなければ、こんなにも悲しまずに済んだのに。
怒りが湧いてくる。私を置いて行ったアムルに。私に会いにきたアムルに。魅力的だった彼女に。
そんな自分に幻滅する。何それ、アムルは何も悪くないじゃん。
いなくなってから改めて実感する。どれだけ私が彼女に依存していたのかを。
当たり前のように毎日を過ごして、当たり前のように毎日抱きつかれて、当たり前のように毎日一緒に寝て。
普段の一挙手一投足が、何気ない仕草が、こんなにも尊いものだったなんて知らなかった。
教えてくれればよかったのに。もっと早く教えてくれれば、私はもっと彼女を大切にして大事にして愛したというのに。
私はパジャマを手に取り立ち上がり、ハンガーに掛け直した。
そして、箪笥に向かい、しゃがみ込んで、アムルの服が入っている段を開ける。
服を取り出して、アムルの布団の上へと投げる。一つ残らず、次々に投げた。
全て取り出し終え、私はまた立ち上がった。
そのままゆらゆらとふらつきながら、寝室を後にする。
アムルを求めて、歩き始める。
ゴミ箱に入っているアムルの使い終えたゴミ。
洗濯機に入ったままの服や下着や靴下。
彼女の使っていたコップ、クッション、食器。
家中からアムルを探して、探して、探して──
それら全てを、彼女の布団の上へと置く。
ある程度集め終えたら、先ほどアムルを入れたクーラーボックスの元へと向かった。
片手でそれを持ち上げ、そのまま寝室へ向かい、枕元にそれを置いた。
私は再びアムルのパジャマを手にとる。ぎゅっと顔に押し付け、彼女の匂いを感じ、それを布団の上へと置いた。
アムルの布団を見る。ぐちゃぐちゃに置かれた服やゴミ、食器が乱雑に置かれていて汚らしく感じた。けど、それでいいと思った。
アムルの布団の上を見ながら、私は隣に敷いてある自分の布団へと入りこむ。
彼女の残骸を見ながら、目を閉じようとした。けれど、閉じれなかった。
今になってまた、涙が流れてきたから。目がぴくぴくと痙攣し始めて、瞼を閉じれない。
息が詰まる。嗚咽が止まらない。鼻水が垂れている。顔が真っ赤に染まっている。
私は急いで顔を服の袖で拭い、布団を握りしめながら、枕に顔を押し付けた。
止まらない。何もかも止まらない。
涙も、悲しい気持ちも、怒りも、疑問も、自己嫌悪も。全部止まらない、止められない。
何で死んだの?
何で死んじゃったの?
どうして私から離れるの?
だから一人で行くなと言ったのに。
あの女がアムルを殺したの?
どうしてアムルなの?
私を殺せばいいのに。
私が死ねばいいのに。
私が死んでいればいいのに。
死にたい。
死ねばいい。
アムルなんて大嫌い。
アムルに会いたい。
アムルを抱きしめたい。
辛い。
苦しい。
嫌い。
好きだった。
一緒に居て欲しかった。
無理。
もう無理。
何もかも無理。
嫌だ。
無理。
嗚咽が止まらず、涙が止まらず、心臓が傷み始める。
息が苦しい。頭が痛い。熱がある。下腹部が苦しい。腹部がズキズキする。血がまた溢れ出した。
身体も、心も、もう限界だ。
私は、精いっぱいに立ち上がり、なるべく早く寝室を出る。
靴も履かずに玄関から外に出て、目についた高い建物へと向かう。
扉をこじ開け、階段を登って、数分。
風の吹き溢れる屋上に、私は立っていた。
吹き荒ぶ風はとても暖かくて、心地よさを感じる。身体だけがほんの少し、癒された。
私は迷うことなく歩き出し、向かう。
向かった先は屋上の縁。少し高い段差がある。私はそれに片足をかけ、力を入れて上に乗った。
静かだ。とても静か。
風が、私を拒むかのように真正面から押してくる。まるで、この先に行くなと言わんばかりに。
知らない。そんなの、知らない。
私はそれを無視して、一歩、右足を踏み出した。
当然、右足が踏み締める場所はなく、ゆっくりと、私の体は倒れていった。
落ちている。屋上から、すごい速さで落ちている。
落ちているはずなのに浮いているような感覚。けれど確実に落ちている。地面が徐々に近づいてきているから。
地面に落ちたらどうなるのかな? 死ぬか。どういう風に死ぬんだろう。
痛いかな、痛いよね。
死んだら、どうなるんだろう。
死んだら、アムルに会えるのかな。
何で? 確証がないのにどうしてそう思えるの? アムルと会えるかもだなんて。
死後の世界が無かったら、どうするの?
──死にたくない。
気づいた時には私は、無意識にポケットから指輪を取り出し、自分の指に嵌めていた。
それとほぼ同時に、私の身体は大きな音を立てながら背中から地面に激突。
衝撃が全身を襲うが、それに伴う痛みは一切感じなかった。
私はそのまま、仰向けになりながら、目を袖で覆いながら、笑う。
死ねないじゃん。死なないじゃん。ハッピーがいなくなって、アムルも死んじゃって、生きる意味がないのに何で死ぬのを躊躇ったの?
まだ生きたいとか思ってるの? 自分はアムルが死んで悲しくて悲しくて仕方がないですって、これだけアピールしておいて、まだ生きようとしてるの?
生きる意味なし、生きる甲斐なし、生きる必要なし。
アムルがいなくて、いなくなって、こんなに辛いのに。嘘偽りなく生きているだけで辛いのに、死ねばこの苦しみから解放されるのに──
どうして私は生きてるの? 生きようとしたの?
意味わかんない。
ふと気づく。そうだ、昔もこんな状況に私はなったことがある。
一番の親友が死んで、大切な恋人が死んで、何もかもが嫌になって、自暴自棄になって──
あの時も死にたいと思ったのに、死ねなかった。死ななかった。
全部どうでもよかった。よくなっていた。生きるとか死ぬとかどうでもよくて、自堕落に生きていた。
そうだ、それが私じゃん。
頭の中ではやらなきゃと思っていても実行できないダメ人間。
やらないといけない事から逃げて、逃げ続けて。だからこんな苦しくなるんじゃん。
そんな私に与えられた罰。それが、この苦しみ。
私が苦しむためだけにあの子は、あの人は、アムルは、私の目の前から消えていったんだ。
私のせいだ。私が烏滸がましくも生きているから、周りが不幸になる。
もう嫌だよ、こんなの。
私はゆっくりと立ち上がり、力を入れずにフラフラと歩き、自分の家へと戻った。
玄関の鍵は閉めず、真っ直ぐに寝室へと向かう。
そして、アムルの布団の上へと顔から落ちる。
アムルのことだけを思い浮かべながら、溢れる嗚咽と涙を必死に堪えながら、ぎゅっと力強く、私は目を閉じた。




