表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
41/53

38.

 暗いリビング。窓のカーテンは閉められていて、外からの光は一切通さない。

 今が何時かもわからない。何日かも、わからない。

 私はリビングの床に座り込んで、アムルの首を抱えていた。

 冷たく、硬い、彼女らしくない体温と肌。髪の毛も以前ほどサラサラではなく、少しベタついている。

 右手で髪の毛をすくって、左手で頭を撫でる。

 何も言わない。何も言ってくれない。当然、死んでいるのだから。

 私はため息をつく。一度、二度、三度、ため息をつく。

 頭がボーッとする。視界は靄がかかったようにぼやけている。

 もう涙は出ない。出し切ってしまったらしい。

 なのに口からよだれは垂れている。ボーッとしているから? どうでもいい。

 すると、限界を迎えたのか、よだれは私から離れ、アムルの頭に一滴、落ちてしまった。

 私はすぐに近くのティッシュを手に取り、それを拭き取る。

 心の中でアムルに謝って、ため息をつく。

 いつもだったら、こんなに汚い行為でも彼女は笑って喜んでくれたのだろうか。

 ふと、右腕を見る。怪我をしていなければ、何も持っていない右手。普通の、ごく普通の状態の右腕。

 アムルがいつも抱きついてきた右腕、抱きついてきてくれた右腕。

 今は何もない。じゃあこの右腕、何の意味があるの?

 私は右腕から視線を移し、アムルの可愛らしいつむじを見てから、彼女を持ち上げ立ち上がる。

 足音を立てずに、地面をしっかり踏み込んで、彼女を落とさないように移動する。

 目的の場所に着いたら、アムルをゆっくりと床に置いて、私は奥の方にあるクーラーボックスを手にとる。

 取手を持って開けると、中にはたくさんの飲み物と保冷剤。私は飲み物だけを取り出し、アムルを手に持ってクーラーボックスの中に丁寧に、入れた。

 安らかな表情をしているアムル。私はそんな彼女を見て少し笑みを浮かべ、クーラーボックスを閉じた。

 取り出した飲み物を一つ手に取り、蓋を開けてそれを一気に喉に流し込む。

 勢いよく飲みすぎて、うまく飲み込めなくて、咳が出た。

 飲み終えたら空になった容器を投げ捨て、私は這いながら寝室を目指す。

 冷たい床、汚らしい廊下。そこを通って、私は必死に寝室を目指す。

 寝室に着いた。私は壁に手をつきながら、ゆっくりと立ち上がった。

 そして、アムルがいつも使っていた布団を敷き、そこに顔から落ちて寝転ぶ。

 匂いがする。アムルのいい匂い。甘くて、けれど時折鼻を刺すような強い匂い。

 毎日彼女が寝ていた場所。一度も洗濯をしていないから、彼女の髪の毛がそこらに落ちている。

 私はそれを一本手に取り、指でいじる。真っ直ぐに伸ばして見たり、くるくる指に巻いてみたり、口に含んでみたり。

 そのまま、持っていた髪の毛を飲み込んだ。味はしない、喉に絡みついて、うまく飲み込めないけど、唾をうまく使って、何とか奥へと追いやる。

 私はゆらりと、力無さげに立ち上がって、キョロキョロと辺りを見渡す。

 ふと目に入ったパジャマ。ハンガーにかけられているパジャマ。一つはハッピーのもので、もう一つはアムルの。

 私はゆっくりとそれらに向かい歩き始め、アムルのパジャマを手にとる。

 そしてそれを鼻に近づけ、思いっきり息を吸い、匂いを嗅ぐ。

 残っている。アムルの匂いが。私はアムルのパジャマを両手でぎゅっと握りしめ、そのまま彼女の布団に倒れた。

 鼻をすんすんと動かし、パジャマの匂いを嗅ぐ。布団よりも強く匂いが残っている、気がする。

 パジャマのありとあらゆる部分を嗅ぐ。脇の匂いも、秘部の匂いも、髪の毛の匂いも、ほんのわずかだが残っている。

 まるで、アムルそのもののように、匂いが残っている。

 だけど匂いだけで、パジャマは私を抱きしめてはくれないし、肌の温もりも感じなければ、心臓の鼓動も感じない。

 当たり前、当たり前のことだけど、私は疑問を抱く。

 なんで抱きしめてくれないの?

 どうして柔らかくないの?

 何故何も言ってくれないの?

 こんなにも、アムルの匂いが残っているのに──

 涙が出てきた。違う、正確には一滴も出ていない。もう、出しすぎて枯れてしまったから、涙が出たという感覚だけを感じている。

 ため息をつく。それと同時に目を閉じる。

 匂いがする。アムルの匂いが。

 匂いだけがする。匂いだけが残っている。

 私はゆっくりと目を開ける。アムルの匂いがするのに、添い寝している時と同じ匂いがしたのに、私の横にいたのは脱ぎ散らかされたパジャマだけ。

 パジャマしかない。パジャマしか見えない。パジャマしか触れられない。

 私はそれをぎゅっと握りしめ、再び自分の顔に近づける。

 する。アムルの匂いが、だけど。

 匂いに慣れてきてしまったのか、どんどん匂いが薄くなっている気がする。

 私はもっと、もっともっともっと強く匂いを感じるために、パジャマに鼻を押し付けた。

 この匂いを離したくない。せめてこの匂いだけは感じていたい。そう、強く願う。

 目を閉じて、必死に鼻で息を吸って、彼女の匂いを求める。

 知りたくなかった、この匂いを。感じたくなかった、彼女を。

 知り合わなければ私は、こんなにも苦しまずに済んだのに。

 彼女と出会わなければ、こんなにも悲しまずに済んだのに。

 怒りが湧いてくる。私を置いて行ったアムルに。私に会いにきたアムルに。魅力的だった彼女に。

 そんな自分に幻滅する。何それ、アムルは何も悪くないじゃん。

 いなくなってから改めて実感する。どれだけ私が彼女に依存していたのかを。

 当たり前のように毎日を過ごして、当たり前のように毎日抱きつかれて、当たり前のように毎日一緒に寝て。

 普段の一挙手一投足が、何気ない仕草が、こんなにも尊いものだったなんて知らなかった。

 教えてくれればよかったのに。もっと早く教えてくれれば、私はもっと彼女を大切にして大事にして愛したというのに。

 私はパジャマを手に取り立ち上がり、ハンガーに掛け直した。

 そして、箪笥に向かい、しゃがみ込んで、アムルの服が入っている段を開ける。

 服を取り出して、アムルの布団の上へと投げる。一つ残らず、次々に投げた。

 全て取り出し終え、私はまた立ち上がった。

 そのままゆらゆらとふらつきながら、寝室を後にする。

 アムルを求めて、歩き始める。

 ゴミ箱に入っているアムルの使い終えたゴミ。

 洗濯機に入ったままの服や下着や靴下。

 彼女の使っていたコップ、クッション、食器。

 家中からアムルを探して、探して、探して──

 それら全てを、彼女の布団の上へと置く。

 ある程度集め終えたら、先ほどアムルを入れたクーラーボックスの元へと向かった。

 片手でそれを持ち上げ、そのまま寝室へ向かい、枕元にそれを置いた。

 私は再びアムルのパジャマを手にとる。ぎゅっと顔に押し付け、彼女の匂いを感じ、それを布団の上へと置いた。

 アムルの布団を見る。ぐちゃぐちゃに置かれた服やゴミ、食器が乱雑に置かれていて汚らしく感じた。けど、それでいいと思った。

 アムルの布団の上を見ながら、私は隣に敷いてある自分の布団へと入りこむ。

 彼女の残骸を見ながら、目を閉じようとした。けれど、閉じれなかった。

 今になってまた、涙が流れてきたから。目がぴくぴくと痙攣し始めて、瞼を閉じれない。

 息が詰まる。嗚咽が止まらない。鼻水が垂れている。顔が真っ赤に染まっている。

 私は急いで顔を服の袖で拭い、布団を握りしめながら、枕に顔を押し付けた。

 止まらない。何もかも止まらない。

 涙も、悲しい気持ちも、怒りも、疑問も、自己嫌悪も。全部止まらない、止められない。

 何で死んだの?

 何で死んじゃったの?

 どうして私から離れるの?

 だから一人で行くなと言ったのに。

 あの女がアムルを殺したの?

 どうしてアムルなの?

 私を殺せばいいのに。

 私が死ねばいいのに。

 私が死んでいればいいのに。

 死にたい。

 死ねばいい。

 アムルなんて大嫌い。

 アムルに会いたい。

 アムルを抱きしめたい。

 辛い。

 苦しい。

 嫌い。

 好きだった。

 一緒に居て欲しかった。

 無理。

 もう無理。

 何もかも無理。

 嫌だ。

 無理。

 嗚咽が止まらず、涙が止まらず、心臓が傷み始める。

 息が苦しい。頭が痛い。熱がある。下腹部が苦しい。腹部がズキズキする。血がまた溢れ出した。

 身体も、心も、もう限界だ。

 私は、精いっぱいに立ち上がり、なるべく早く寝室を出る。

 靴も履かずに玄関から外に出て、目についた高い建物へと向かう。

 扉をこじ開け、階段を登って、数分。

 風の吹き溢れる屋上に、私は立っていた。

 吹き荒ぶ風はとても暖かくて、心地よさを感じる。身体だけがほんの少し、癒された。

 私は迷うことなく歩き出し、向かう。

 向かった先は屋上の縁。少し高い段差がある。私はそれに片足をかけ、力を入れて上に乗った。

 静かだ。とても静か。

 風が、私を拒むかのように真正面から押してくる。まるで、この先に行くなと言わんばかりに。

 知らない。そんなの、知らない。

 私はそれを無視して、一歩、右足を踏み出した。

 当然、右足が踏み締める場所はなく、ゆっくりと、私の体は倒れていった。

 落ちている。屋上から、すごい速さで落ちている。

 落ちているはずなのに浮いているような感覚。けれど確実に落ちている。地面が徐々に近づいてきているから。

 地面に落ちたらどうなるのかな? 死ぬか。どういう風に死ぬんだろう。

 痛いかな、痛いよね。

 死んだら、どうなるんだろう。

 死んだら、アムルに会えるのかな。

 何で? 確証がないのにどうしてそう思えるの? アムルと会えるかもだなんて。

 死後の世界が無かったら、どうするの?

──死にたくない。

 気づいた時には私は、無意識にポケットから指輪を取り出し、自分の指に嵌めていた。

 それとほぼ同時に、私の身体は大きな音を立てながら背中から地面に激突。

 衝撃が全身を襲うが、それに伴う痛みは一切感じなかった。

 私はそのまま、仰向けになりながら、目を袖で覆いながら、笑う。

 死ねないじゃん。死なないじゃん。ハッピーがいなくなって、アムルも死んじゃって、生きる意味がないのに何で死ぬのを躊躇ったの?

 まだ生きたいとか思ってるの? 自分はアムルが死んで悲しくて悲しくて仕方がないですって、これだけアピールしておいて、まだ生きようとしてるの?

 生きる意味なし、生きる甲斐なし、生きる必要なし。

 アムルがいなくて、いなくなって、こんなに辛いのに。嘘偽りなく生きているだけで辛いのに、死ねばこの苦しみから解放されるのに──

 どうして私は生きてるの? 生きようとしたの?

 意味わかんない。

 ふと気づく。そうだ、昔もこんな状況に私はなったことがある。

 一番の親友が死んで、大切な恋人が死んで、何もかもが嫌になって、自暴自棄になって──

 あの時も死にたいと思ったのに、死ねなかった。死ななかった。

 全部どうでもよかった。よくなっていた。生きるとか死ぬとかどうでもよくて、自堕落に生きていた。

 そうだ、それが私じゃん。

 頭の中ではやらなきゃと思っていても実行できないダメ人間。

 やらないといけない事から逃げて、逃げ続けて。だからこんな苦しくなるんじゃん。

 そんな私に与えられた罰。それが、この苦しみ。

 私が苦しむためだけにあの子は、あの人は、アムルは、私の目の前から消えていったんだ。

 私のせいだ。私が烏滸がましくも生きているから、周りが不幸になる。

 もう嫌だよ、こんなの。

 私はゆっくりと立ち上がり、力を入れずにフラフラと歩き、自分の家へと戻った。

 玄関の鍵は閉めず、真っ直ぐに寝室へと向かう。

 そして、アムルの布団の上へと顔から落ちる。

 アムルのことだけを思い浮かべながら、溢れる嗚咽と涙を必死に堪えながら、ぎゅっと力強く、私は目を閉じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ