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明日の月日はないものを

作者: 遠物語

認知症の高齢者の方の内心を想像して書いた短編です。


アプリ「書く習慣」で投稿したものと同一内容です。

*ほぼ独白だけの小説です。


1


 歳のせいで足元が覚束なくなって、もう何年も経つ。

 私はもう90歳を過ぎた。


 娘夫婦が心配して一緒に住むようになったが、呆けた頭と不自由な体で、迷惑ばかりかけている。


 最初は親切にしてくれていた娘も、今は大きな声を日に何度も張り上げるようになった。


(そんなに大きな声を上げなくても聞こえているのにね。)


 薬を飲むのを忘れたのを怒り、歩行器を使わずに杖で歩いたのを怒り、日課の血圧を測り忘れたのを怒る。

 体がうまく動かない。

 立ち上がるだけでもひどい痛みがある。

 足元がふらつく。


 調子が悪いときだと、歩くだけでも一輪車にでも乗っているような気分になる。

 

 頭もそうだ。

 モヤがかかったようで、娘の言っていることはほとんどわからない。


 ただ、きっと、この動かない体や、すぐ忘れてしまう頭のことを怒っているのだろうと思う。


 いったん老化した体は、また若返ることはない。


(つまり、もう私は、娘に毎日毎日ヒステリックに怒鳴られ続けるしかないってことだ。)


 今日は、何日だったか。

 カレンダーを見て、日曜日だと知る。

 ただ、すぐ忘れてしまうのだ。


(昔を思い出すことは、できるのにね。)


 少し、昔を思い出した。


2


 夫が病院で息を引き取った後、一人暮らしをしていた頃は、そこまで衰えてはいなかった。


 キチンと自分のことは自分でできた。


 料理も洗濯も。


 ただ、一人暮らしが長くなるにつれ、段々と足が不自由になり、手は重いものを持ち上げられなくなり、今何を考えていたのか、思い出せなくなることが増えた。



 夫が生きていた時は、さらにしっかりしていた。


 病院に入ってからは洗濯した下着と寝巻きを持って行き、毎日病院で顔を見ていた。


 夫はろくに喋れなくなってからも、長く生きていてくれた。

 心の支えだったと思う。


 夫は頭もはっきりしなくなっていたのだろう、孫が顔を見せに来てくれた時はロクに反応しなかったのに、帰ってからさっきのが孫だったと気づいて涙することも多かった。

 『夫の分、私がしっかりしないと』と、何度も思ったのを覚えている。


 そういえば、その前、まだ夫が元気な頃は、病院を抜け出して家に帰ってきたこともあった。


(あの時は、すぐに病院に知らせてしまったけれど、今思えば、お茶の一杯でも飲んでから帰らせればよかった。)


3


 更に前、夫は元気で、定年退職後の悠々自適な生活だった。

 日中は囲碁に、ゴルフ。車で何処かに行くこともあった。


 ただ、誰かの世話を焼いている時が、一番イキイキしているようでもあった。


 娘夫婦は毎週のように孫を連れて顔を見せに来てくれて、よく喋っていた。


 孫に習字や一輪車をさせるのをも楽しみにしていた。


4


 更に前。

 まだ定年退職もしていなかった頃だ。

 私も夫もバリバリ働き、夜や週末にはお酒を飲んで、陽気に笑っていた。


 長く住んでいた家を娘夫婦に上げて、私たち夫婦は別の場所に住んだ。


 寂しかったけれど、裕福ではない時代だ。上げられる家があるだけ、私達はまだ幸せだった。



5


 もっと前。

 娘達を育てている頃。

 あの頃は時間がなく、よく親戚に預けたり、近所の人に預かってもらったりして、なんとか生活していた。

 私も夫も早く帰ることができなかったので、そうして預かってもらうことも多かった。


 電車も今ほど多くなく、歩いて行く範囲はとても広かった。

 1山越えるのなんて当り前。

 田舎なんてそんなものだ。


 ただ、体も元気で健康だったから、日々を生きられた。


6


 もっともっと前。

 私がまだ学生で、子どもだった頃。


 私も何処かに預けられることは多かった。

 そもそも戦争中だ。


 日本中が貧しかった。


 私が15歳の時、戦争が終わり、やはり貧しい戦後が始まったのだ。

 

 気力と体力が溢れていたし、生き残っていた家族も親戚もいたから、助け合うことができた。


 明日がいくらでもあった、あの頃。



7


 現代に、戻る。


 身体はすっかり不自由になり、この前は家の中で転んで肋骨を折ってしまった。

 もう二度と歩けなくなるかと思ったが、何とか無事、退院し、家に戻ることができた。


 娘夫婦と暮らしていると、孫もよく顔を出してくれる。


 というか、娘夫婦が外出している間、孫が面倒を見に来てくれるのだ。


 ありがたい話だが、孫たちももういい歳だ。

 一番下の孫も30代のはずだが、誰も結婚しない。


(みんな忙しそうにしているけれど、親戚や家族で助け合って子育てとか、しないのかね?)


 子育てなんて、結婚なんて、日々の生活でとてもできないから、やらない。


 それは、私からすると呑気な暮らしに見えた。


 それはそれで、幸せなことかもしれないけれど。


 ただ、そうなると、私くらいの年齢になったとき、1人で寂しくなるんじゃないだろうか。


 それは、寂しいことのように思えた。



 私は、体が動かなくなっても、娘夫婦や孫が見てくれている。


 娘夫婦も、孫が見るのだろう。


 だが、孫は、誰が見るのだ。



8


 今日は、孫がお昼ご飯を用意してくれる日だ。

 娘夫婦は朝から外出で、しばらく静かな日でもある。


「何だか、迷惑をかけているようで、申し訳ないね。」


 孫は、優しく笑っているだけだ。


 今日は、比較的体の調子がいい。喋ることができた。


「誰か、いい人はいないのかい?」

「忙しいばかりだからね。それに、もし結婚して子どもを産んでも、何だか迷惑をかけるばかりだから。奥さんにも、子どもにも、さ。」


 『迷惑』は、さっきの私のセリフだ。

 しかし、中身はだいぶ違うように思った。


 私の言葉は謝罪というより、感謝だ。

 孫の言葉は、『謝罪するようなことをするくらいなら、しない』という意味だ。


(まるで、結婚や子育てが「悪いこと」みたいだ。沢山の人に迷惑をかけるから。)


「あなた達が、幸せならいいんだけれど。明日は、いつまでも来るわけじゃないのよ?」


 違う。こういうことを言いたいのではない。

 これでは単なるよくある説教だ。


 結婚や子育ては悪いことではなく、ましてや誰かと助け合って支え合っていくことが悪いことなわけがない。


 それなのに、なぜ孫たちは「迷惑をかけるから、結婚しない」というのか。


 助け合うということは、迷惑をかけあうということでもあるのに。


(一体、社会はどうなってしまったのか。)


 今日は体の調子はいいが、それは何でもできるということではない。

 私は、もう複雑な言葉を喋れなくなってから長い。


 思いを伝えることは、できそうになかった。


9


「じゃあ、次は水曜日に来るね。」


 娘夫婦が帰ってきてから、入れ替わりに孫は帰っていった。


「お母さん!また、歩行器無しで歩いている!お医者さんから言われたでしょう!歩行器無しで歩いたら転んでまた怪我をするって!」


 娘の怒鳴り声は絶好調だ。


「また色んな人に「迷惑」をかけることになるのよ!」


(ああ、そうか。)


 娘のセリフで納得する。

 孫たちは、この娘の教育で育ったのだ。


 ある意味、自然であったのだ。


(とはいえ、ねえ。)


 それでは、誰も結婚なんてできない理屈だ。


(何とか、孫たちに「人に迷惑をかけてもいいの」と伝えられればいいんだけれど。)


 しかし、この体は、寝て、明日起きたら今日思ったことを忘れているだろう。


 それどころか、いつもは5分前のことを忘れることすら、しょっちゅうなのだ。


(今日の私には、寝たらさようなら。明日の私、明後日の私。どうか孫が来たときに、「迷惑をかけてもいい」って伝えて。)

 歳を取ると、こんなことすら確実ではない。

 また調子の良い日が来ることを祈ることしかできない。


 しかし、さらにふと気がつく。


(そういえば、私が今まさに迷惑をかけている姿で、伝わらないかしら。)


 今の私を見て、『迷惑だ』以外の感情を持ってくれていれば、孫たちは自然に悟るのではないか。


 迷惑をかけることが、相手にとって全て「嫌なこと」ではない、と。

(私たち夫婦は、家を娘夫婦に上げたけれど、だからといって、娘たちを産まなければよかったなんて、思っていない。) 


 と、足元がふらついてきた。


 調子がいいのもここまでのようだった。


(今日の私に、さようなら。)


 明日の私、頑張れ。

 できることは本当に少ないけれど。


 きっと、迷惑をかけている私が、迷惑をかけられている孫や娘夫婦に世話になっているこの姿が、彼らに何かを伝えているはずだから。


 また娘夫婦に怒鳴られるだろうけど、頑張れ、私。


( 向こうに行ったときに、夫に、『 やるべきことはやった』と伝えられるように。)




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