6. 小さなお客様①
キス魔ストーカー事件から約一ヶ月後、日差しが強くなり始めた四月下旬の土曜日。
仕事にもだいぶ慣れてきた衣織は、その日も徹底した掃除に勤しんでいた。
(どこぞの姑より細かいよあの人・・・)
この店の店主は本当に窓枠に指を這わせて埃を見つけ、『こういうところに性格が出るな』とあの意地悪そうな笑顔で嫌味を言うので、衣織は絶対に実稀に文句を言わせないために初めの頃よりさらに真剣に掃除に取り組むようになっていた。
そして満足のいく仕上がりになったところで店を開ける。
外の掃除もしようと入り口のドアを開くと、目の前に小さな女の子がしゃがんでいて危うくつまづきそうになった。
「わっ!どうしたの?迷子かな?」
十歳前後に見えるその子はゆっくりと顔を上げると、泣きそうな顔で衣織を見つめた。
「お姉さん、この店の人ですか?」
「うん、そうだよ。どうしたの?何か困ってるならお話聞くよ?」
衣織が女の子の目の前にしゃがみ笑顔でそう返事をすると、その子は黙って頷いた。
「じゃあ、お店の中で話を聞こっか。さあどうぞ!」
女の子を先に店の中に招き入れ、奥に置いてあるお客様用の椅子まで案内する。女の子は緊張しているのか、肩にかけている小さなバッグを両手でぎゅっと握りしめたままちょこんと椅子に腰掛けた。
「ちょっと待っててね!」
衣織は奥の部屋に入ると冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出し、グラスに注いで持っていく。
「はいどうぞ。お茶しかなくてごめんね。」
「いただきます。」
礼儀正しい可愛い子だなあ、と微笑ましく思っていると、女の子は一口お茶を飲んでから名前を告げた。
「お姉さんありがとう。私は川口さくらです。」
衣織はにっこりと笑って自分も名前を伝える。
「星野衣織です。さくらちゃん、て呼んでいい?」
「はい。」
「で、さくらちゃんはどうして店の前に座ってたの?」
「あの・・・友達に、約束しちゃったから。」
「約束?」
「ちょっと前にね、このお店の窓のとこで妖精さんを見つけたの。」
「え!?」
「だから見たよって友達に言ったら、嘘つきだって言われて・・・でも、でも見たんだもん!だから、どうしても妖精さんを友達に見せなきゃいけないんです。ここって妖精さんいますか?友達に見せてもいいですか?」
必死になってお願いをしてくるさくらにどう返事をしたらいいかわからず、衣織は本気で困ってしまった。
(いるよとも、いないよとも言いにくい!ああ、どうしよう・・・)
その時入り口のドアが開き、実稀がスタスタと店の奥までやってきた。アルバイトの衣織が入ってからというもの、実稀は開店準備を衣織に任せ、いつもゆっくりと出勤してきている。
「おはよう、って、その子は誰だ?」
「おはようございます。あの、ちょっとご相談が・・・」
「・・・奥で話そう。」
何かを察した実稀は先に奥の部屋へと入っていく。衣織はさくらに「ちょっと待っててね」と優しく話しかけてから実稀の後を追った。
「それで、何をそんなに困っているんだ?」
「実は・・・」
衣織は外に聞こえないように小さな声で、先ほど女の子から聞いた話を実稀に伝える。すると実稀は着替えるからちょっと待ってろと言って衣織を追い出し、少ししてから店の方へと戻ってきた。
ここの店主は相変わらず、パリッとした白いシャツとベスト姿がよく似合っている。さらにそこにお客様向けの爽やか笑顔を貼り付ければ、ぱっと見はいい男の完成だ。
(見た目と外面だけはいいんだよねえ。私には厳しいし酒には弱いけど)
実稀はゆっくりとさくらに近付くと、衣織が最初に見たあの紳士的な笑顔で話しかけた。
「お嬢さん初めまして。この店の店主の桐生です。お嬢さんはこの店で妖精を見たんだって?」
さくらは少し緊張していたようだが、実稀の柔らかい物腰に警戒心を解いたのか、おずおずと話し始めた。
「うん。あの窓のところで外を見てたよ。緑色の綺麗な妖精さん!お兄さんも見えるの!?」
「お兄さんにも見えるよ。でも妖精さんとの約束で、ここにいることは内緒にしなきゃいけないんだ。だからお友達に紹介するのはちょっと難しいかなあ。」
その言葉にさくらは一気にしょぼんとなってしまった。
「そうなんだ。じゃあ私、やっぱり嘘つきだって言われちゃうのかな。」
「うーん・・・」
さくらの落ち込んだ様子に、実稀も困ってしまったようで、振り返って衣織と目を合わせた。衣織はふと思い立ってポケットからいつも持ち歩いている小さなメモ帳を取り出した。
「じゃあさ、窓際にこんな風に・・・妖精さんの絵を描いて飾っておくっていうのはどうかな?見間違いだったんだよってことにすればお友達にも嘘ついてたわけじゃないって言えるし!」
さくらはぱあっと明るい表情になった後、衣織が描いた妖精の絵を見てがっかりした表情になる。どうも絵が下手すぎたらしい。
「その絵だと信じてもらえないよ。」
(確かに私、絵の才能は壊滅的だからなあ・・・)
「あ、じゃあお姉さんが誰か絵が上手な人にお願いしてみるよ!」
「ほんと!?」
「うんうん!そうしたらお友達にも信じてもらえるんじゃないかな?」
「うん!あ、でも、私動いてたって言っちゃった・・・」
「あーらら。」
再びしょぼんとしてしまったさくらを見て、今度は衣織が実稀の顔を見上げた。
「はあ。仕方ない。君、さくらちゃん、て言ったかな?」
「はい。」
「そのお友達はいつ連れてくる予定なのかな?」
「えと、来週の日曜です。」
「そうか。わかった。それまでにお兄さんが何とかしてみよう。でもその代わり、妖精さんのためにも、今後はここで見たことを誰にも言わないでいてくれるかな?」
「はい!」
元気の良い返事をもらって実稀が嬉しそうに微笑む。
(へえ、やっぱりいい笑顔持ってるんじゃない。・・・私には見せてくれないけど)
二人の優しい思いが、店の中をほっこりと柔らかな空気で満たしていくのを、衣織も嬉しく感じていた。
「ところで星野。」
(あれ、空気が変わったぞ)
「は、はい?」
「カウンター下のこれは何かな?」
実稀は指先で何か小さなゴミらしきものを摘んで立ち上がった。先ほどの優しい笑顔などもう思い出せないほど、引きつった嫌味な笑みが口元に浮かんでいる。
「ひいい!?鬼!掃除の鬼!!すぐ拭きますから!!」
「外もゴミが落ちてたぞ。」
「外はこれからだったんです!!」
さくらが二人の様子を見て楽しそうに笑っている。
「あはは!お姉さんお掃除がんばって!」
「ほらがんばれー。」
「くうう、がんばりますよ!!」
再び掃除用具を手に隅々まで掃除を終えて店の奥に戻ると、さくらが丁寧に実稀にお礼を言っているところだった。
「あ、お姉さん、今日はありがとうございました!私帰ります。」
「うん!家は近いのかな?まだ午前中だけど、遠いなら送っていくよ?」
「ううん、大丈夫!お弁当屋さんの近くだから。」
「ああ、そうなんだ。じゃあここから五分くらいだから平気だね。気をつけて帰ってね!」
「はーい!」
さくらが元気に手を振って帰っていくと、実稀がそっと衣織の背後に現れた。
「星野。」
「は、はいい!」
「・・・なんだその返事は。」
「もうピカピカであります、隊長!」
「何の隊長だ何の!?」
こめかみに青筋が見える。衣織は箒を持ったまま頭を軽く下げた。
「すみません調子に乗りました。」
「全く、面白いヤツだな。」
「・・・」
(言葉と表情が合ってないよ・・・こわっ)
衣織がお掃除隊長のお怒りの表情に軽く怯えていると、実稀は腕を組んで表情をいつもの真顔に戻して話し始めた。
「星野、今日は午後早めに店を閉める。諒も来ないしな。」
「え?そうなんですか?はあ、お給料下がっちゃう。」
「心配するな。店は閉めるが仕事はあるぞ。今日はこの後、俺と一緒に行って欲しい所があるんだ。」
「え?あ、はい。時給が出るならどこへでもお供します!」
彼の眉が僅かに上がる。
「だろうな。じゃあ俺は奥で仕事をしてるから、店番を頼む。昼休憩の時は呼んでくれ。」
「はい、わかりました。」
実稀が奥に入ってしまうと、衣織は店の中をゆっくりと見渡した。今日はあの緑色の妖精は来ていないようだ。ちょっと寂しいなと思いつつ、衣織はいつものように商品のチェックをしながら、静かな店内を回っていった。