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38. 裂け目の向こう側

 目の前に、何かがゆらゆらと揺れているのが見える。白い雲、青い空、そして何か赤や黒や・・・


「鯉が泳いでる・・・」


 衣織は今自分がどこで何をしているのか、よくわかっていなかった。ただ耳元で何かが囁いているのは聞こえている。何と言っているのかはわからないが、とても優しい声で自分を呼んでいるような気がしていた。


 そして再び目の前の光景に意識を向ける。そこには日光をキラキラとその鱗に反射させている錦鯉が、何匹も泳いでいるのが見えた。


「ここ、どこだろう?」


 ふと横を見ると、鯉の背のようにキラキラと光る人が佇んでいる。その人は優しい表情で衣織を見守りながら、時々何かを話しかけてくれた。


「ああ、そっか、お父さんとお母さんはもういないんだ。」


 そのことを思い出した瞬間、誰か別の人の視線を感じて振り返った。だがそこには誰もおらず、衣織は首を傾げて辺りを見回す。


「気のせいかなあ。」


 そして目の前の風景が変わっていく。


 衣織が今いるのは同じ池でも今度は夜になっていた。池の表面には青白く見える丸い月が浮かび、池から目を上げて空を見ると何か小さなキラキラと光る粒が降り注いできた。


 衣織は慌てて目を瞑り、それを吸い込まないように息を止める。


 すると誰かがこちらに走ってくる音が聞こえて振り返った。


 そこには、青ざめた顔をした中学生くらいの男の子がいた。どこかで見た顔のような気もしたが、知らない男の子だ。


 衣織は驚いて尻もちをついてしまった。その瞬間、目の前まで迫っていた男の子に、何かガラスの破片のようなものを投げつけられた。


(怖い!!何するの!?誰か助けて!!)


 だが声は全く出ず、胸が苦しくなって次第に意識が遠のいていった。




 どれくらいの時間が経っただろうか、衣織が次に意識を取り戻した時、そこは誰かのお葬式をしている場面だった。


 誰だろうと思って前を見ると、それが両親の顔であることに気がついた。


(お父さん、お母さん・・・どうしてこんな大切なことを忘れていたんだろう。ああ、あの時私は泣けなかった。それから先も、そのことを思い出すことはなかった。学生の頃は親戚の人達に連れられて時々お墓参りにも行っていたはずなのに、どうしてこんな大切なことを意識しないで生活していたんだろう?)


 衣織が再び振り返ると、もう何も見えなくなってしまった。最初に実稀の店で裂け目の中を見た時のように、漆黒の世界の中にわずかな光が散らばっているだけの世界。


 気がつくと、肩で囁いていた何かの存在も、もう感じられなくなっていた。


(私、どうしてここにいるんだっけ?)


 何か大切なことを忘れてしまったような気がして、悲しい気持ちが胸に宿る。だがそれすら次第に薄れていっているような気がした。


(ここにいればいいのかな。ただここでぼんやり漂っていればいいのかな。でも、私は誰かにすごく会いたかった気がするのに・・・)


 その頬に、涙が一筋こぼれ落ちていく。


 そして衣織は、暗闇の中で目を閉じた。




「衣織!!」


(誰かが叫んでる)


「衣織!!頼む、目を開けてくれ!!」


(嫌だ、開けたくない。もう辛い思いをしたくないから)


「俺が悪かった。全部俺が悪かったんだ。馬鹿な俺のくだらない嫉妬で衣織をずっと苦しめてきた。それなのに衣織は、知らなかったとはいえこんな俺を好きになってくれた。俺は・・・俺はどうやって償ったらいい?衣織・・・頼む、目を開けて俺を見てくれ!!」


(ああ、この人の声、私好きだなあ。低くて、いい声。もっとずっと聞いていたい・・・)


「愛してる、衣織。君は俺の、一番大切な人なんだ・・・」


(・・・実稀、さん?)


「衣織?衣織!?俺だよ、実稀だ!!わかるか?」

「実稀さん・・・ふふっ、ひどい顔。どうして泣いてるんですか?」

「・・・もう二度と衣織と会えないかと思ったんだ!俺が衣織をずっと苦しめてきたから!!」


 衣織はそっと実稀の頬に触れた。その頬は冷たくて、少し濡れていた。


「迎えに来てくれたんですか?」

「ああ。」

「嬉しい。」

「うん。でも、ごめん。」

「あの時のこと、思い出せたんです。」

「・・・うん。」

「実稀さん、中学生の頃、可愛かった。」

「衣織、俺・・・」


 衣織はキュッとその頬をつねった。


「ほら、そんな顔しない!もういいんです。あの時のことは。今謝ってくれたし、私実稀さんと一緒にいたいから。これ以上謝ると怒りますよ!」

「怒らないでくれ。俺は、衣織の笑顔が見たいんだ。あんな怯えた顔は、もう見たくない。」


 そう言って少し悲しそうに笑う彼の反対の頬も優しくつねる。


「イテテ!」

「はい、これでおしまい!もうこれで終わりです。今までのことを悔やんだり謝るんじゃなく、これからの私を幸せにしてくれませんか?」

「・・・俺でいいのか?」

「実稀さんじゃないともう駄目なんです!」

「泣いてもいいか?」

「やめてください!キス魔よりタチが悪い!」

「ははは!ついでに酒にも弱いけど。」

「知ってます!」


 そして二人は手を繋ぎ合う。


「それでも俺の一番近くにいて欲しいんだ。衣織じゃないと、もう俺は駄目だから。」

「じゃあ、います。」

「うん。」


 その瞬間、何か鮮やかな光が目の端に映る。


 それは、翠連の緑色の光だった。


『イオリ、カエロウ!』


 実稀が衣織に微笑みかける。そして二人はゆっくりと翠連の光を追っていく。その光がどんどん明るく眩しくなり、真っ白な光が目に入った瞬間、二人はあの地下室に戻っていた。


「帰ってこれた!?」

「ああ。おかえり。」

「・・・ただいま。実稀さん。」


 実稀はぎゅっと衣織を抱きしめると、顔をその肩に埋めた。


「よかった、本当によかった・・・」

「はい!」


 そうして二人はしばらくそこで抱き合った後、手を繋いだまま上へと階段をのぼっていった。




「星野さん、おかえり。」

「桐生さん!戻ってこられました!」


 階段の上では、一がニコニコと微笑んで二人を待っていた。


「さて、少し話をしたいんだが、星野さんは疲れていないかな?」


 実稀は衣織の顔を覗き込むと、心配そうに声をかけた。


「衣織、平気か?」

「はい。大丈夫です。」

「じゃあ、行きましょう。実稀、翠連を連れておいで。」

「え?あ、はい。」


 そして二人は翠連を連れ、一の後を追ってリビングへと入っていった。


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