37. 記憶をたどる旅へ
実稀は静まり返った地下室で、あの日の出来事を思い出そうとしていた。
中学生になったばかりの彼は新しい環境になかなか馴染めず、勉強も部活も、先輩後輩という関係性も、どれ一つとってもわからないことばかりで毎日が憂鬱だった。
家に帰れば親からは小言を言われ、反抗期も相まって家族には誰彼構わずきつく当たった。
大好きな祖父にさえも。
そんな鬱々とした日々の中での唯一の楽しみは、祖父の家の地下にある『裂け目』の前に現れる妖精達との時間だった。
話は全くできなかったけれど、色とりどりの美しい光を纏う彼らと触れ合うことは、気がつかないうちに実稀の大きな癒しとなっていた。
だがそんなある日、これまで見てきた妖精達とは全く違う存在と出会う。
その人には妖精達のような羽はなく、体は少し透き通っているように見えた。ほのかに色付き光を放つその中性的な姿があまりにも美しく、初めて祖父に連れられてここで出会った時には思わず赤面してしまったほどだった。
そして実稀はその妖精のことを『精霊』と勝手に名付け、中学から友人となった諒にも時々その話をした。彼とはこの頃お互いに見えない存在を認知できることで意気投合し、よく一緒に遊んでいた。
『精霊』の体は人と大差ないほど大きく、顔も体もほぼ人間と言っていい形をしていた。『精霊』はなぜか実稀とも話すことができた。話すと言っても心の中に思っていることが浮かぶような感じで、決して耳に聞こえている声ではなかったなとその時のことを思い出す。
そして何かが少しずつ頭の片隅に蘇ってくる。
(そうだ、あの日の数日前、俺はあの『精霊』を外で見かけたんだ)
思い出したのはあの恐ろしい出来事の数日前、実稀が学校帰りにいつものように祖父の家に寄った時のことだった。
「誰?」
そう、あの日祖父の家の庭の池の前で、小学生らしき女の子がしゃがんで池の中を覗き込んでいたのだ。
(何でこんなことを忘れていたんだろう?)
彼女の横には『精霊』が寄り添い、何やら楽しげに話をしていた。それがとても羨ましくて、俺の友達なのにと嫉妬した。
(そうだ、それでそこからしばらくむしゃくしゃしてたんだよな・・・)
そんなことがあった数日後に、あの事件が起こる。だが庭でのことを引きずっていた俺は、あの『精霊』の言うことを無視した挙句・・・
(頭が痛い、思い出したくないのか!?)
実稀は裂け目を見つめながら、声を出さないように必死で口を手で押さえた。
― ― ― ― ―
衣織は裂け目の前に立ち、その不思議な空間をじっと見つめていた。肩には翠連がちょこんと座り、一緒にこの先へ進んでくれようとしている。
自分の中に入っている『かけら』とは、どうやら実稀が目撃してしまった『精霊』が粉々になってしまった後のかけらのことらしい。
なぜそれが自分の中に入ってしまったのか、その時のことを衣織は何も覚えていない。そしてこの裂け目を通ってたどり着く世界は、翠連達が住む世界ではないらしい。そこに行けるのは妖精達だけで、その世界とこちらの世界を繋ぐ不可思議な空間に入るだけだそうだ。
ただ一つわかっていることは、そこにはたくさんの失われた記憶が眠っているということ。
そして妖精達の世界に属するものは全てそこに吸収されてしまうということだった。
(そこに入れば、かけらを取り出せる。でも、私がこちらに戻れるかどうかはわからない・・・)
それでも、このかけらが実稀の側にある限り、彼はずっと自分を責め続けるだろう。そしてあの修平の家にあった木のように、妖精達の影響を受けて様々な出来事を引き寄せてしまう。
だから今、この先に行こうとしている。たとえ戻れなくても。
(実稀さん、最後にもう一度会いたかった・・・)
そして衣織は真っ直ぐ前を向き、裂け目に手を掛けた。
― ― ― ― ―
痛む頭をゆっくりと手でマッサージしながら、実稀は必死で自分の記憶と向き合っていた。その時ふいに何かの気配を感じて上を見上げた。
そこには、あの水色の妖精、空がいた。
『イオリノコト、オモイダシテ。アッタコトアルハズ。』
(会ったことがあるって・・・じゃあさっき思い出したあの女の子が・・・ていうか何で俺はこの子の声が聞こえるんだ!?)
実稀は驚きすぎて思わず声を出しそうになり、強く口を押さえた。
『オモイダシタ?イオリ、カケラモッテル。アナタノセイ。』
(俺のせいってどういうことだ!?俺はただあの日池を覗き込んでいたあの女の子を見ていただけ・・・)
その時ふと鋭い頭の痛みと共に、不思議な映像が頭の中に蘇る。
それはあの『精霊』が粉々に砕け散ってしまった後、ふらふらと庭に出た自分が見た幻想的な光景だった。
池の前に佇むパジャマ姿の女の子。彼女が見上げた空から、ふわふわと光が降り注いでいる。それはあの『精霊』が砕けてしまった時の小さなかけらと同じ色だった。
その姿がなぜかその時の実稀にはとても許せなくて、彼女が何をしたわけでもないのに、やり場のない怒りをぶつけようとして・・・
(俺だ、俺が、彼女にかけらを投げつけたんだ!!)
そして実稀は、全ての記憶を思い出した。
あの日、すでに庭で見かけて知っていたあの女の子は、祖父の家に預けられてここに泊まっていた。祖父との関係はよくわからなかったが顔の広い祖父にはそういうことがよくあったので、その時の実稀は何も気にしていなかった。
そしてその女の子が庭に出てあの光を浴びている姿を見て、何も悪くない彼女に、自分がしてしまった恐ろしい失敗をなすりつけるように『精霊』のかけらを投げつけた。
上から降り注いでくる細かな白いものとは違い、それは手鏡ほどの大きさのかけらだった。投げつけてしまった時に見た彼女の恐怖に怯えたあの表情を、今実稀はありありと思い出していた。
(こんな大事なことを俺は忘れていたのか。いや、きっと忘れたかったんだ。最低な自分を。)
投げつけたかけらは意識を失って倒れた女の子の胸の辺りでスーッと溶けるように消えていった。
それが、衣織だとしたら。
(俺は・・・どうやってこれからその罪を償っていったらいいんだ!!)
実稀は声を押し殺して涙を流した。その肩に、優しく誰かが手を載せる。振り返るとそれは祖父の手だった。
促されて地下のその部屋を出ると、一は実稀をリビングに連れて行き、そこに座らせた。
「実稀。思い出せたようだね。」
「・・・はい。星野と俺は、会ったことがあったんですね。お祖父ちゃん、知ってて黙ってたんですか?」
「お前が自分で思い出さないといけないことだったからね。」
実稀は頭を抱えて俯いた。
「実稀、よく聞きなさい。あの日私がお前を叱らなかったのは、まだあの時は幼くて、あの恐ろしい現実を受け止めることができないと判断したからだ。それはあのお前が『精霊』と呼んでいた妖精のことではない。星野さんにかけらを与えてしまったことだ。」
ビクッと体を震わせて、実稀は顔を上げた。
「やはり知ってたんですね。」
「ああ。彼女のご両親の話を聞いたことがあるかい?」
「いえ、そういえば一度もありません。」
一は静かに実稀の前に立った。
「彼女のご両親は、彼女が小学生の時にお二人とも事故で亡くなっている。うちに来ていたのは、この近くにあった親戚の家にいた彼女が何も話さなくなってしまったからと、時々うちの庭に遊びに来させていたからなんだ。」
「・・・知らなかった、です。」
一は実稀と少し離れた場所に腰掛けると、話を続けた。
「そしてあの事件があり、お前が彼女にかけらを入れてしまったせいで彼女はそれまでの記憶を全て失った。日常的なことは何とか覚えていたようだが、学校も友達のことも、ご両親のことすら忘れてしまったんだ。」
「そんな・・・俺のせいで!!」
実稀は再び頭を抱え込んでうずくまるような姿勢になる。
「その後のことはよく知らないが、ずいぶん中学、高校ではいじめられていたようでね。親戚の方も心配されていたが、大学に入る頃にはだいぶ気持ちも明るくなって頑張っていたようだよ。だが色々とうまくいかないことがあって結局仕事も失くし、お前の店に来た。」
くぐもった声で実稀はそれに答える。
「もしかして・・・そういう辛いことが重なったのも、かけらのせいなんですか?」
「全部がそうとはいえないが、大半はそうなんだろう。あのかけらがあることで周りに影響を及ぼしてしまうのは致し方ない。だが彼女はこれまでの苦しい人生から逃げなかった。真面目に、どんなことでも一生懸命にやってきたんだ。親戚の方と一緒にこの地を離れて暮らしていた時も時々連絡をもらっていたが、彼女は本当に頑張っていたらしい。」
実稀は一の顔を見つめた。その顔は今の苦しい気持ちを如実に表していた。
「お前が逃げていいのはここまでだ。さあ、もうこの現実を受けとめられるだろう。しっかり現実と過去を受けいれて、お前のできることをしなさい。彼女と再び引き合わされたことにはきっと意味があるんだから。そして星野さんはお前のことを、本当に大切に思っているんだよ?」
実稀はもう、俯くのをやめた。自分のせいで苦しみ続けてきた彼女が自分のために人生を賭けて頑張っている。そんな時に自分だけ逃げるわけには絶対にいかなかった。
「はい。俺ができることは何ですか?教えてください!何でもします!!」
一はようやく笑顔を見せると、実稀の肩に優しく手を置いて言った。
「迎えに行きなさい。お前なら、裂け目から彼女を救い出すことができるはずだ。もちろん何の保証もない。だがお前にできることはもう今それしかないんだ。できるかい?」
「行きます。今すぐに。」
そして実稀はすっと立ち上がると、地下に向かって走り出した。




