35. 精霊のかけら②
再び実稀の家に舞い戻ることになった衣織は、着いた途端に体の力が抜けてしまい、リビングのソファーに腰をおろすとそこで動けなくなってしまった。
先日一緒に購入したマグカップに実稀がハーブティーを淹れて衣織の前に置き、横に座る。
「衣織、俺がいるから心配するな。」
「はい。」
「お茶、冷めてからでいいかゆっくり飲めよ。」
「はい。」
「今夜は一緒に寝ような。」
「はい・・・え!?」
衣織が驚いて顔を赤くしているのを面白そうに眺めながら、実稀はその肩に優しく手を回した。
「大丈夫。一緒にいるだけ。ほら、その方が安心できるだろ?」
「ありがとう、実稀さん。」
「ああ。」
衣織はその日実稀の温もりに癒されながら眠りにつき、そして翌朝は一緒に店に向かうことになった。
そうしてまた数日は、何事もなく平穏な日々が過ぎていった。しかし一週間後、足りない荷物を取りに自分のアパートに向かった衣織は、一人で来てしまったことを心底後悔することになった。
「かけら、返せ。」
衣織が荷物を抱えてアパートを出ると、あの大柄な男がアパートの向かい側にある自動販売機の前に立ち、こちらをじっと見据えているのに気が付いた。そして衣織の姿を見つけるなり、
「かけら、返せ。」
と再びその言葉を口にする。そして前に見た時のようにゆっくりと、左右に揺れながら近寄ってくる。
(何なのいったい?かけらって何のことなのよ!?)
思ってはいても口には出せず、じりじりと後退りながら逃げるタイミングを窺っていた。
すると顔の少し上の方で、緑色の光が瞬く。
「え?」
見上げるとそれは、ここにいるはずのない翠連の姿だった。
「翠連!?どうしてこんな所に・・・」
『イオリ、ニゲヨウ!コッチ!』
翠連は衣織を導くように緑色の光を振り撒きつつ飛んでいく。衣織は呆然としていた頭を思いっきり振ってシャキッとさせると、その後を追って走りだす。
男は衣織が逃げたのを見て追ってこようと動き始めたようだったが、なぜかあまり速く動けないのか走ってついてくることはなかった。
そのおかげで何とか男から逃げ切ることができ、衣織は小さな住宅街の中の公園の隅で何度も大きく深呼吸を繰り返して息を整え、上をゆっくりと飛んでいる翠連に声をかけた。
「あの人はいったいどうして私を追ってくるのかな。もうこれは警察に行かないと駄目?」
後半は自分に向けて語りかけるようにそう言った衣織に、翠連が不思議なほど大人びた表情で顔の目の前まで降りてきて、言った。
『イオリ。アナタハ、カケラヲモッテイル。ソレヲテバナサナイカギリ、カレハマタクル。』
翠連の言葉にショックを受けた衣織は、目を大きく見開いて言葉を失った。
『イオリ、アナタヲ、タスケタイ。アナタハワタシニナマエヲクレタカラ。』
衣織の差し出した手に、翠連がちょこんと座る。羽は日の光を浴びて煌めき、その表情は聖母のような、優しさと愛を感じられる柔らかく優しいものだった。
「でも、その対価は十分に貰ったよ?」
『タリナイ。モットアゲタイ。ソレニ、イオリハタイセツナヒト。ヒトハ、タイセツナヒトマモルトキ、タイカイラナイ。』
その言葉は、恐怖で縮こまっていた心を温かく溶かしていく。
衣織もまた、誰かを助けたいと思う時に対価のことなど考えたことはなかった。もちろん妖精達にも同じ思いで接してきたつもりだった。そしてその気持ちを翠連は理解してくれている。共有できている。その奇跡のような出来事に、衣織は自分の今の恐ろしい状況も忘れて思わず微笑んでしまった。
「翠連、そうだね。私もこれから先、翠連のためにできることがあれば対価なんかなくても助けるよ。大切な友達だから。」
そう言うと翠連は高く飛び上がりながら言った。
『イオリ、カケラトリダソウ。トリダサナイト、アブナイ。デモ、アノヒトニハナイショ。イオリ、アノヒトカラハナレル。デキル?』
「あの人から離れる?」
衣織の訝しげな表情を見ながら翠連は続ける。
『カケラ、キオクノナカニアル。トリダセルバショニイオリ、ツレテイク。デモシッパイスレバ、キオクナクス。ココロ、ウゴカサナイコトガ、イチバンタイセツ。』
衣織は額に嫌な汗が流れていくのを感じていた。
「それって、つまりかけらを取り除くために実稀さんと離れろ、って言ってるの?」
翠連がその小さな頭で頷く。
『イオリ、カケラモッテルト、マワリノヒトモキズツケルカモ。キメテ、イオリ。ドウスル?』
それを聞いた衣織は青ざめて軽い貧血を起こす。すぐ側にあった建物の壁に手をつくと、そのざらざらとした感触がまるで今の衣織の心の中のようにも感じられた。
「わかった。でも最後に一つ教えて欲しいの。その『かけら』って、一体何なの?」
翠連は下に音もなく降りてくると、衣織の肩に乗りそっと耳元で囁いた。
その内容は、衣織の決断をより強く後押しするものだっただけではなく、実稀との別れをも決断させるほどの衝撃的なものだった。
「・・・そう。どうしてそんなことになったのかわからないけど、それならなおのこと、今は彼から離れなきゃね。」
衣織はその場からゆっくりと歩きだした。握りしめた拳は徐々に硬く、冷たくなっていく。そして衣織はその日一旦部屋に戻ると、実稀の前から姿を消した。
― ― ― ― ―
「諒、諒!!」
実稀は店に来るなり諒の名前を叫ぶ。その声の異常さに気付いて諒が奥から急いで顔を出した。
「おい、何だよ騒がしいな!どうしたんだそんなに慌てて。」
「衣織がいない!朝出かけたきり帰ってきてないと思ったらいないんだ」
諒の顔が青ざめた。
「何だよ、いないってどういうことだ?だってお前達一緒に暮らしてるんだろ?」
「部屋にいつものバッグがない。店にも来てないだろ?今日は元々休みだったけど、もう家にいないとおかしいんだ。今日は約束もしていたし・・・しかもこの間の件もある。絶対に何かあったんだ!」
実稀は冷え込んできている日にも関わらず汗をかいている。ここに来るまで必死になって探していたんだなとわかり、諒はその深刻さをより実感する。
「わかったから落ち着けよ。電話も繋がらないってことだよな。置き手紙とかなかったのか?」
実稀は力無く首を横に振った。
「手紙も何も無い。」
「そうか・・・あ、ちょっと待てよ。」
そう言うと諒は奥の部屋からバッグを持ってきてそこからスマートフォンを取り出すと、着信をチェックし始めた。
「・・・あ、やっぱり!うわ、これまずいぞ実稀!!」
「何だ!?」
「衣織ちゃん、店を辞めるって、無責任なことをして申し訳ないって書いてる!」
「見せてくれ!!」
実稀は諒の手からひったくるようにしてスマートフォンを奪うと、その文章を何度も読み、そして力が抜けたようにその手に返した。
「実稀。」
そのまま呆然とそこで立ちすくむ実稀に、諒がはっきりとした口調で言った。
「あの真面目を絵に描いたような衣織ちゃんが、こんなことを躊躇いもなくするなんてあり得ない。だとしたらよっぽど切羽詰まった状況なんじゃないか?お前がショックなのはわかるけど、ここで立ち止まったら彼女二度とここには帰ってこないぞ!!」
諒のその言葉に、実稀はハッとしたように顔を上げた。
「そうだな。俺が諦めたら終わりだ。諒、頼む。一緒に衣織を探してくれないか?」
「当たり前だ。お前に頼まれなくても最初からそうするつもりだったよ。妖精達にも協力を頼もう。ほら、店を閉めるのを手伝え!」
「ああ。」
そうして二人は急いで店を閉めると、いなくなってしまった大切な人を探すため、すぐに行動を開始した。




