34. 精霊のかけら①
それからの三日間は特に何事もなく日々は過ぎ、衣織は同居生活の最終日を片付けと掃除をして過ごしていた。
使わせてもらっていた部屋の隅々まで掃除を終え荷物を詰めていると、少し開いていたドアがさらに大きく開いて実稀が顔を覗かせた。
「衣織、歯ブラシは置いてっていいから。」
「・・・え?」
実稀は悪戯っぽく笑いながらドアを閉める。衣織は少ししてからその意味を理解して顔が熱くなり、冷えていた自分の手の甲でその頬を冷ます。
(それってまたお泊まりに来ていいってことだよね?)
嬉しさと気恥ずかしさで満ちていく心を抱えて、衣織は荷物の片付けを続けていった。
昼近い時間帯になりリビングに向かうと、実稀が着替えてソファーで本を読んでいた。彼は衣織に気付いて顔を上げると、手招きして隣へおいでと言う。
誘われるがままに隣に座ると、衣織は頭を撫でられながらデートのお誘いを受けた。そんな些細なことでも、実稀がしてくれたんだと思うと胸は高鳴る。
「なあ、これから出かけないか?ずっと家にいるのも面白みがないし、せっかくの休みだから初デートしよう。」
「嬉しい!どこに行きますか?あ、でも午後からだと遠出はできないですよね・・・」
衣織が考え込むと、実稀は優しく微笑んで言った。
「近場だけど食事して、買い物しようか。遠出はこれからたくさんすればいい。」
「はい!嬉しいな。じゃあ、着替えてきます!」
「ああ。ここで待ってる。」
実稀もまた嬉しそうに頷く。そうして午後からは、二人の初めてのデートに出かけることとなった。
おしゃれなカフェで軽いランチを食べ、雑貨や文具などを扱っている店を回る。実稀の店にはない可愛らしいものが揃っているその店で、衣織はシンプルだが履き心地のいいスリッパと小物をしまえそうなファブリック素材の箱を購入した。
実稀も何やらじっくり眺めているなあと思って近寄ってみると、彼は二種類のマグカップを手にとり深く考え込んでいた。
「どうしたんですか?あ、この間割っちゃったマグカップ、やっぱり気に入りませんでした?」
「違うよ。これは自宅用。衣織はどっちが好き?」
衣織は実稀の右手に握られたカップを指差し「こっち、可愛いですね、配色が好きです」と言うと、実稀の笑顔がさらに柔らかくなり衣織の目を奪う。
「やった、俺と一緒だ。じゃあ、お揃いで買おうか。」
真っ赤になって頷いていると、実稀の目が衣織を優しく見つめた。
そんな甘い時間を満喫した後、二人は車に乗って家へと向かった。だがその途中、実稀がちょっと寄りたいところがあると言って道を逸れていく。
どこに行くんだろうと思いながら窓の外を眺めていると、実稀のマンションとは違う方向に向かっているのがわかった。
「まだ遠くに行くんですか?」
「そんなに遠くもないよ。ここから十分くらいかな。」
そう言って車で移動した先で小さなコインパーキングに車を駐車する。さらに数分歩いていくと、大きな川がすぐ近くを流れる公園が見え始めた。
実稀はそこで衣織の手をそっと握り、公園内に入っていく。
「ここで、俺は翠連に会ったんだ。」
「ここで?そうなんですね。私てっきりお店の裂け目から来た子なんだと思ってました!」
実稀がなぜか悲しそうな笑みを浮かべる。衣織はその表情に不安を感じ、彼の手を少しだけ強く握ってしまった。
「翠連は俺があの『精霊』を見殺しにしてしまった直後に、祖父と一緒にここに来て出会った子だったんだ。俺はその時に妖精達のために生きようと決意して、ここまできた。ここが俺の再出発の場所だったんだ。」
「実稀さん・・・」
衣織が空いている方の手で、深い悲しみが見えるその頬に触れた。実稀は僅かに表情を和らげる。
「暗い話でごめんな。でも衣織にはきちんと俺の過去も話しておいた方がいいと思ったんだ。俺は、まだ自分を完全には許せてないから。」
その言葉の重みを、衣織はまだうまく受け止めきれなかった。
「・・・連れてきてくれて、ありがとうございます。」
「ああ。一緒に来てくれてありがとう。」
夕暮れが迫る川沿いの風景はどこか物悲しく、衣織は遠くを見つめる実稀との心の距離が遠くなってしまったような気がして、思わず彼の袖を掴んだ。
「何?どうした?」
「何でもないです。」
「寒くなってきたな、そろそろ帰るか。」
「はい。」
「衣織」
衣織は顔を上げる。その目はもう遠くではなく、自分をしっかり見つめてくれていた。
「衣織とここから始めたかったんだ。一緒に。」
「嬉しいです。」
「ずっと、側にいてくれるか?」
「はい!」
そして二人は少しの間、川の流れる音を聞きながら体を寄せ合いお互いの体温を微かに感じながら、二人っきりの時間に浸っていた。
辺りが暗くなり始め、そろそろ帰ろうかという時になってから衣織はふとその大きな川面を見た。深く底の見えない暗い川が目に入り、そこに自分が飲み込まれそうな恐怖を感じて実稀の腕をぎゅっと掴む。
「どうしたんだ?」
「何でもないです。帰りましょ?」
実稀は不安そうな衣織の頭にいつものように優しく手を載せると、そのまま自分の肩に軽く抱き寄せた。
「ああ。帰ろう。」
川が見えなくなってほっとした衣織は、今日までの二人だけの部屋へと、実稀に寄り添って帰っていった。
同居生活を終え自分の部屋に戻ってから二日ほどは、穏やかな日常が過ぎていった。だが三日目となったその日、衣織を恐怖に陥れる事件が起きた。
その日は珍しく諒も実稀も休みで、衣織も午前中の発送作業だけで帰宅していいということになっていた。
実稀は実家の用事があるとのことで今日は仕事が終わっても特に会う予定はなく、早く帰って一人でのんびりしようと、衣織はウキウキしながら片付けを始めた。
全ての業務を終え、バッグを持って外に出ようとしたその時。
バーン!と大きな音を立ててドアが開き、驚いてバッグを下に落とした。
そこには見たこともない男性がゆらゆらと左右に揺れながら立っており、その様子の異常さに震え上がった。
「あ、あの、どうか、されましたか?お店はもう閉店なのですが・・・キャッ!?」
その三十代くらいに見える大柄な男性は、目も合わず口は半分開いた状態で衣織の腕にいきなり掴み掛かった。
「痛い!何するんですか!?やめてください!!」
「かけら」
「え?」
「かけら、とりもどす」
「かけら?」
衣織は一瞬恐怖も忘れてその言葉に心をとらわれた。
(そうだ、そういえば妖精達にかけらがどうこう言われてたよね・・・でも何でこの人がそれを!?)
このあまりにも不可解な状況にパニックに陥り、衣織は掴まれた腕をどうにか振り解こうととにかく暴れてみる。だが男性は力が強く、衣織の精一杯の力でもびくともしなかった。
(どうしよう!?でも、怖くてもう声が出ない!)
いよいよまずいと思ったその時、再びドアが勢いよく開き、見知った顔がそこに現れた。
「ちょっと何してるの!?警察を呼びましたよ!!早く彼女を解放しなさい!!」
ドアを開けて大きな声でそう叫んだ人は、あの美しい女性、河野悠里だった。
男性はその声に反応し、衣織からゆっくりと手を離した。そして虚な目をドアに向けると、ふらふらと外に出ていく。
悠里は彼を避けてドアの中に入るとすぐに鍵を閉め、衣織に抱きついた。
「良かった!何もされてないわね!?怪我してないわよね?あー、びっくりした!!久々に来たら星野さんが男性に襲われているんだもの・・・」
悠里は大きくため息をつくと、衣織から体を離してから笑顔を向けた。
「河野さん、あの、ありがとうございます。私一人だったら、どうなってたか・・・」
衣織はそこでようやく自分が震えていることに気付き、自分の手で自分の体を抱きしめるようにしながら下を向いた。
そんな衣織の様子を心配そうに見つめると、悠里はどこかに電話をかけ始める。
「あ、実稀、大変なことが起きたの!悪いんだけどできるだけ急いで店に来られない?・・・そんなこと言ってる場合じゃないの!星野さんが襲われたのよ!?あ、ちょっと!もう!切っちゃった。」
悠里は気を遣って実稀を呼んでくれたようで、何もできそうになかった衣織は目だけで感謝の気持ちを伝える。
「ほら、星野さんそこに座って。実稀が来るまで一緒にここにいるから心配しないで!」
衣織は黙ったまま頷き、実稀が来るのを震えながら待つことになった。
そして三十分ほど経った頃、激しいノックの音に驚いて衣織が椅子をガタンと揺らした。その音に気づいて衣織より先に悠里がドアの鍵を開けにいく。実稀は勢いよくドアを開けた。
「実稀、あ、ねえちょっと!?」
「衣織!!」
彼は悠里を素通りして一直線に衣織の元にやってくると、椅子に座っている彼女を強く抱きしめた。
「実稀、さん」
「震えてる。どうした、何があったんだ!?」
「私が説明するから、落ち着いて!」
そう言って悠里が衣織の代わりに実稀に状況を説明する。その間に彼の顔はどんどん険しいものに変わっていく。
「衣織、その男に何か言われたのか?」
「かけらが、どうこう、って言ってました。」
「かけら?」
思い当たる節がない二人は同時に考え込む。
「わかった。とにかくしばらく一人になることが無いようにしよう。衣織、また俺の家に行こう。」
「・・・はい。」
せっかく家に帰ったばかりだったのにと思わないでもなかったが、それ以上に一人でアパートにいなくても済む状況に、衣織は心からほっとしていた。
それから実稀は悠里と何やら奥で話し合った後、その日は衣織を連れて直接彼の家へと向かうことになった。
(何だろう、ものすごく嫌な予感がする・・・)
衣織の中に芽生えたその予感は実稀と二人でいられる幸せな時間の中にあっても、少しずつその心をじわじわと侵食していくようだった。




