28. 緑色の石
諒がいなくなってしまってから二週間が経ったその日の朝、ポストから戻った衣織は、玄関ドアの内側で諒から届いた封筒を震える指で開封していた。
だがその封筒には薄い紙に包まれた一枚の写真が入っているだけで、衣織への言葉は何一つ書かれてはいなかった。
落胆しながら薄い紙を広げ、写真を確認する。それはどこかの早朝の街並みを写した何気ない風景写真だった。だが人々の営みが始まる朝の息遣いやエネルギーが感じられる良い写真で、衣織は時間の無い朝にも関わらずついじっくりと見入ってしまう。
「なんかすごくいいな、この写真。」
諒が撮影したものなのだろう。写真のことはよくわからなかったが、衣織は彼の見えている世界の美しさをわずかだが共有できたことが嬉しくて、無意識に微笑んでいた。
だがそこで時間が迫っていることを思い出し、急いで封筒に写真を戻すとそれをバッグに入れ、衣織はいつものようにキーケースを持って外に出る。
十月に入りだいぶ朝晩は肌寒く感じられるようになってきて、衣織も薄手のコートを羽織って出勤している。この日もそのコートが少し冷たい朝の空気を遮り、頬だけが冷やされて寝ぼけた頭を覚ましていく。
そしてもうすぐ店の前にたどり着くかというところで、衣織はふと誰かの視線を感じて振り返った。
「諒、さん?」
それは、衣織の後ろからゆっくりと歩いてくる諒の姿だった。
突然の再会に動揺し、その場から動けなくなる。そこに歩くスピードを変えずに諒が徐々に近寄り、彼は衣織の一メートルほど手前で歩みを止めた。
「ただいま、衣織ちゃん。」
「・・・おかえりなさい。諒さん。」
「今、少しだけいい?」
「はい。」
そうして諒は衣織の手を引き、店からだとちょうど死角になる位置まで移動した。
「今日は店に顔を出そうと思ってここに来ただけなんだ。だからこの後すぐに帰る。でもまたここの仕事も再開するよ。ただその前に、衣織ちゃんとは一度きちんと終わらせておきたいと思って。」
衣織はその言葉にショックを受けて青ざめる。わかっていたこととはいえ実際にその時が来ると、自分でコントロールできるような感情など一つもないのだとわかった。
「もう、私は必要ないってことですか?」
「違う!!」
「え?」
その声に驚いて諒の顔を見つめると、彼の表情は何かを思い詰めていたあの時とは違い、ただ真剣に衣織を見つめていた。
「もう一回きちんとやり直したいんだ。あんな姑息な手段でじゃなく、友達から俺自身を好きになってもらいたいから。だから今度は衣織ちゃんから告白してもらうのを待つよ。もちろんそのために今度こそちゃんとする。だからまだ、実稀のところには行かないで。」
その声があまりにも切なく聞こえて、衣織の胸は締め付けられる。できることなら今すぐ答えを出して彼を安心させてあげたいとすら思ってしまう。だが、今の衣織にはそんなことはとてもできそうになかった。
あのヒミツのパーティーの日実稀からもらった二度目の告白の言葉は、衣織の心の中でずっと燻り続けている。諒がいなくなってしまった心の隙間に、今は実稀がいる。
「じゃあ、今後はお友達としてよろしくお願いします。」
衣織はそれだけを無理やり作った笑顔で告げると、諒にペコリと頭を下げ、後ろを向いて店へと走り出した。
逃げるようにその場を離れて店に入ると、珍しく翠連がすでに店の中をゆっくりと飛び回っていた。その体からヒラヒラと舞い落ちていく光の粒が、今日はやけに暗く感じられた。
開店してから数時間後、実稀がいつものようにボストンバッグを抱えて店に出勤してきた。今日は朝からお客様の家に伺うと言っていたので、これが予定通りの時間のようだった。彼は店に入って早々に衣織を見つけると、真剣な顔で言った。
「星野、今日諒に会ったか?」
「あ、はい。店の近くで。実稀さんにも連絡あったんですね。」
「ああ。・・・よかったな。」
その声はいつも通りに聞こえたが、彼が背中を向けてコートを脱いでいるところだったため、表情はよく見えなかった。
「そう・・・ですね。」
歯切れの悪い言い方に気付いたのか、実稀が衣織の様子を窺っている気配を感じる。だがそれ以上追求されたくなかった衣織は、発送作業をするためと自分に言い聞かせて逃げるように奥の部屋へと入っていった。
閉店時間になり、衣織がカウンター近くで軽い掃除をしていると、実稀が再び衣織の前にやってきた。そしてその手には何か細長い箱を持っている。
「衣織」
ふいに名前を呼ばれ、衣織はビクッと体を揺らす。
「遅くなったが、これ。」
実稀の言葉に反応しその箱を見ると目の前で蓋が開かれ、その中に見覚えのある緑色の石がついたペンダントがあった。その石の横には小さな透明の輝く石もついている。
「えっと、これは何ですか?」
「翠連が対価にくれたあの石だ。本来これは衣織のものだからな。晴人くんに貸し出した時の簡易的なものじゃなく、ちゃんと女性が着けていても不自然でないものにしたいと思って、俺が依頼して作り直してもらったんだ。」
「えっ、わざわざそんなことを?」
実稀は微笑みながらペンダントを箱から取り出すと、衣織の後ろに回った。
「悪い、髪を持ち上げてくれないか?」
まさか着けてくれると思ってもみなかった衣織は、ドキドキしながら黙って後ろ髪を手で巻き上げて少し下を向く。
「動くなよ。」
そう言って彼はそっと衣織の後ろから手を回し、ペンダントを着けた。細いチェーンの冷たさが首に触れてゾクっとする。そしてそれとは別の感触と彼の低い声が、衣織のぎりぎりで保っていた冷静さをあっという間に消し去った。
「綺麗だ、衣織。」
その柔らかな感触が実稀の指先によるものだとわかり、衣織は髪を持っていた手で自分の首筋を掴み慌てて振り返った。実稀がそんな衣織を見ながらゆったりと微笑んでいる。
「顔、また真っ赤だけど。」
「か、揶揄わないでください!!」
「だから揶揄ってなんかないって。ただ触れたかっただけ。」
「もう!!とにかく、あ、ありがとうございました!!」
衣織は顔が熱くなっているのを感じながら奥の部屋へと逃げ込み、壁に掛かっている鏡に自分を映した。
(綺麗・・・素敵なペンダント貰っちゃった。どうしよう!?)
すると突然奥の部屋のドアが開いた。まさかまた実稀が?と身構えて振り返ると、そこには苦悶の表情を浮かべた諒が立っていた。
「諒さん!?」
「衣織ちゃん」
諒は、衣織の驚いた顔を隠すように胸に抱きしめた。
「駄目だ。どうしても駄目だ。実稀にあんな風に首筋を見せて・・・喜んでる君なんて俺は見たくない!!」
「諒さん?あの、でも私達別れたんじゃ」
「そうだけど、でもどうしたらいいかわからないんだ。俺はどうしたらいい?どうしたら衣織ちゃんに俺だけを見てもらえる?」
「・・・」
衣織はその深い想いに胸がいっぱいになり、言葉をなくす。
その時、ドアが開いた。
「諒」
衣織はハッとして諒の腕から逃げようとしたが、諒は離そうとはしなかった。
「実稀」
(何これどうしよう!?)
「何してる。星野が困ってるだろ。」
至って冷静にそう話す実稀を見て自身も落ち着きを取り戻したのか、諒はゆっくりと衣織から離れた。三人に微妙な空気が流れる。
「衣織ちゃん、もう仕事終わったなら帰ろう。」
諒がその空気を壊すかのように実稀からの視線を遮って衣織に言った。実稀は「星野、今日は上がっていい」と告げると店の方へと戻っていく。
「諒さん?」
「送ってく。外で話そう。」
衣織は引っ張られるようにして外に出ると、諒は手を繋いだままスタスタと歩きだした。
「衣織ちゃん、ごめん。俺、距離が離れたら君のこと忘れられるんじゃないかと思ってたんだ。」
諒は歩きながら前を向いて話し続ける。
「でも駄目だった。会えなくても君に俺の見た、俺の感じた風景を伝えたくて写真も送った。でも結局そうじゃなくて、俺はただ衣織ちゃんに会いたいだけなんだって気付いたらもう帰ってくるしかなかった。」
「・・・」
衣織は、諒の苦しげに話す言葉に再び何も言えなくなる。ただそこに流れる夕方の冷たい風だけが、衣織の頬と耳を冷やして赤く染めていく。
「衣織ちゃん、さっきはああ言ったけど、俺にもう一度チャンスをくれないか?今年中でいい。その間に衣織ちゃんの心が俺に向かなかったら今度こそ諦める。」
「・・・こんなことになるなら、どうしてあの時私の前からいなくなっちゃったんですか?」
衣織は突然、諒の手を振り解いて立ち止まった。彼は驚いた表情で衣織を見つめる。
「私は諒さんがいらないと思うまで一緒にいるって言いました。なのにいなくなったのは諒さんですよね。今朝だってあれは別れたってことですよね?それなのに今になってなんでそんなこと言うんですか!?」
「衣織ちゃん、俺がいない間に、あいつと何かあったの?」
諒はいつもと違う衣織の様子を不思議に思ったのか、目の前に立ち、静かに尋ねる。だが衣織はその問いには答えなかった。
「私、諒さんのおかげで自分が誰かの特別になれて、本当に幸せだったんです。だから嘘じゃなく諒さんのことが好きって言ったのに。どうして信じてくれなかったんですか?」
「衣織ちゃん、違う、信じてなかったわけじゃない。」
「嘘!信じてなかったから私の幸せがどうこう言っていなくなっちゃったんですよね?私を置いてどこかに行っちゃったんですよね?だから心に隙間ができちゃったんです。そこに今もう一回実稀さんが入り込んできてるんです!せっかく、一つずつ気持ちを整理してたのに・・・」
衣織のその言葉に諒は何も言えなくなったのか、項垂れたままそこに立ち尽くしていた。そして衣織は諒に告げる。
「私、実稀さんの店を辞めます。」
「衣織ちゃん!?」
「失礼します。」
「ちょっと待って!!」
衣織は諒の静止を振り切ると走って家まで帰り、急いで玄関の鍵を閉めた。
諒のことを好きになった自分も、最初からずっと実稀に惹かれていた自分も嘘ではない。だがそれをあやふやなままにしておくことがどれほど二人に対して不誠実かはよくわかる。そして、自分自身を傷つけていることも。
衣織は冷静に判断できない自分を見つめ直すためにも、できるだけ早くあの店を辞めようと、この時強く決意していた。




